吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (15) だってスタッカートなんだもん

Carl Filtsch THALBERG-CHOPIN-LISZT  Leonhard Westermayr(p) MŪNCHENER MUSIK SEMINAR MMS 2616 1998年
The Art of the Piano Transcription Kevin Oldham(p) VAI VAIA 1104 1995年

スタッカートは、通常その音符の音価の半分くらいの長さに音を短く切って弾くことをいいます。ピアノでもポンと跳ねるように短く鍵盤を推すとスタッカートができます。では、音が延びるダンパーペダルを踏みながらスタッカートを弾くとどうなるでしょう。ピアノ演奏の教科書には、音が延びるペダルを踏んでもスタッカート奏法で弾けば音の響きや音色が変わり、適切なペダリングによってスタッカートが表現できると書いてあります。でも、それ、本当ですか? 演奏者が思うほど、ペダルを踏んだらスタッカートは表現できないのではないでしょうか? 

ショパン・夜想曲13番の初版楽譜(Maurice Schlesinger社)から。

たとえば、ショパンの名曲、夜想曲第13番ハ短調 op.48 no.1の最初の部分の左手の伴奏はスタッカートで弾けと指示があるのを、聴いただけでわかる人、いますか? この曲の冒頭から23小節間、哀しく美しくメロディーを支える伴奏部の音にはみなスタッカートの印が付いているのです。しかも同時にペダルも踏めと私の知る限り全ての版の楽譜に書いてあります。改めてお尋ねします。ショパンの夜想曲第13番の冒頭から23小節間の左手が全部スタッカート指示付きだというのが、聴いてわかる人、いらっしゃいますか? ルービンシュタインもチェルカスキーもアシュケナージもポリーニもアルゲリッチも改めて聴きましたが、まったくスタッカートには聴こえませんでした。きっと私の耳が鈍感なのでしょう。

Carl Filtsch THALBERG-CHOPIN-LISZT
Leonhard Westermayr(p)

で、世の中いろいろなピアノ弾きがいるわけで、「だってここスタッカートで弾けって書いてあるじゃん」と、本気でスタッカートで弾いた演奏があります。弾いたのは1976年ドイツ生まれのLeonhard Westermayr、とっても無名ですが数枚のCDは出しているようです。彼は1998年にCarl Filtsch(カール・フィルチュ、ショパンの弟子で14歳で亡くなった)のピアノ曲の世界初録音アルバムを出します。このアルバムの余白にショパンやタールベルク、リストの曲を入れていて、その中にショパンの夜想曲13番があります。冒頭から23小節、Westermayrはペダルを使わずに左手をスタッカートで弾き続けます。その朴訥なポツポツ感たるや、この曲の麗しい美しさを吹き飛ばし、すねたおネエの世迷い言のようになります(イメージCV:深沢敦)。でも「だってスタッカートなんだもん」の熱い主張は伝わってきます。Westermayrは同じアルバムに収録されたショパンの即興曲第1番の中間部でも左手のスタッカーティッシモをかなり克明に出してきます。この辺のこだわりは面白いものです。ちなみに同アルバムに収録されてるリストのハンガリー狂詩曲第2番では自作のちょっとホロヴィッツぽいカデンツァを弾いています、

The Art of the Piano Transcription 
Kevin Oldham(p)

さて、スタッカートへのこだわりならば、デビューアルバムが「TUTTO STACCATO」(全部スタッカート)、続くアルバムが「SOLO STACCATO」(スタッカートだけ)であるMalco Falossiを挙げるべきなのですが、何度聞いても彼の演奏はスタッカート重視に聞こえません。アルバムタイトルの英語訳が「All Detached」であることから、奏法としてのスタッカートを単純に意味しているのではないのかもしれません。では、こだわりのスタッカート弾きがないかと言えば、思い当たる演奏が一つ。33歳で病死したアメリカの作曲家Kevin Oldhamが遺したリスト編曲のバッハ「前奏曲とフーガ イ短調 BWV.543」の録音です。この演奏はスタッカートというよりは徹底したノンペダルという方が正しいかもしれませんが、延ばす音と短く切る音を明確に弾きわけ、おそらくはダンパーペダルはほとんど使わずソステヌートペダルを多用して驚異的な演奏を繰り広げています。曲の冒頭から遅いテンポのスタッカート弾きに驚きます。私の持っている譜面にはそこに「(legato)」という表意記号があるのですが、legatoとは全くかけ離れたアプローチで開始します。その後も曲全体に渡り16分音符の動きはほぼスタッカートで弾き、より長い音価の音符との弾き分けを明確にしていきます。特にフーガが凄い。オルガン曲のピアノ編曲、しかも編曲者がリストであるために随所に手ごわい書法が待ち構えているのですが、完璧なスタッカートコントロールで各声部を紡ぎ、バッハの音楽の多層構造を一層明らかにしながら迫ってきます。恐ろしい指の制御力です。ふと、もしグールドがこのリスト編曲の録音を遺していたらこんな演奏になっていたのではないかという幻も過ります。Oldhamはこのアルバムの他の演奏でも、ノンペダルっぽいパラパラした感触の演奏をいくつか行なってますが、衝撃度・完成度ではBWV.543が頭抜けています。

ピアノのスタッカートは多くの弾き方があり、それとペダリングの組み合わせで、様々な表現が可能です。しかしそんなこと抜きにして、露骨に分かりやすくスタッカートを描くことも、ピアニストの採ってもよい戦略と思います。だって、スタッカートなんだもん!

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (14) 2020年度 魔煮悪音楽大学入学試験問題 問題と解答 ~どうみてもヘンな奴Marco Falossi その2~

【設問1】

次の図表は、イタリアのピアニスト、マルコ・ファロッシが1997年に発表したCD「SOLO STACCATO」の解説に掲載されたものです。図表をよく読み、以下の問いに答えなさい。

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  • 図表の(1)と(2)に入る対になる適切な語句をそれぞれ答えなさい
  • それぞれ二カ所ずつある図表の(a)~(e)に入る適切な語句を答えなさい
  • (3)のBlumenfeldの項目は図表の右半分のデータがありません。その理由を答えなさい
  • 図表の最終行は各項目の数値の縦の合計が記されています。(4)の2項目の数値が多い理由をマルコ・ファロッシの歴史的背景を交えて説明しなさい。

【設問2】

ヒアリング問題です。次の楽曲はある生物の姿を図形楽譜化したものです。曲をよく聴き、描かれている生物の名前を答えなさい。解答にあたっては机上配布した五線紙をメモとして利用するのは構わない。

補記:この問題集で紹介した参照用のヒアリング音源はYouTubeのものであり、映像を見ると答えが映ってしまうので、受験生がこの過去問題に取り組む際は必ず音声だけを聴くようにしてください。

【解答解説編】

みなさん、今年の入試問題は如何でしたか? 魔煮悪をお受けになろうという方でしたら、さほど悩むところはなかったのではないでしょうか。日ごろから大手の提供する基礎的なCD以外にもきちんと目を配って勉強しているかどうかが問われますね。

では設問の1を解説しましょう。この問題を解くカギは図表の数値が何を表しているかを読み解くところですね。図の右側にTOT.(計)とDUR.(尺)とありますね。おおむね尺が長いほど計の数字が多い、つまり曲が長いほど多いもの、ということがわかります。聴衆の鼾、ではありませんよ、もうお分かりですね、そう、音符の数です。そうすると図表自体は10の項目の音符の数を楽曲ごとに表したものとわかります。しかも楽曲はピアノ曲。ここまでくれば問1と問2はおのずと解けると思います。ぢっと手を見て考えてください。はい、(1)の答えは「左手」、(2)は「右手」ですね。当然2カ所ずつある(a)~(e)はそれぞれ、小指、薬指、中指、人差し指、親指となります。ピアノ曲の演奏において左右の10本の指がそれぞれ何回鍵盤を叩いて音楽を構築しているかを計数して掲載した、おそらく音楽史上初のCD解説書からの設問ですね。歴史的な奇書ですから魔煮悪を受けるような方なら何度も目にされていることでしょう。私の解説を待つまでもなく問1~2は脊椎反射的に書き込めるようでないと、魔煮悪に入ってから苦労することになりますよ。

さぁ、ここまで来れば問3はサービス問題。作曲者がBlumenfeldで右半分のデータがない、すなわち左手だけで弾く楽曲、そして尺は4分程度。答えは「Blumenfeldの左手のための練習曲 op.36を演奏したため」ですね。魔煮悪の採点基準からすると単に「左手用の曲を弾いた」だけでは減点対象になりますよ。曲名をしっかり書き込むこと。さらに“Godowskyに献呈された”と加えれば付加点が期待できますね。

問4、これは難問です。合否の分かれ目はこの問題にあるといっていいでしょう。しかもファロッシの歴史的背景を交えて説明しなさい、とありますのでイタリアのピアノ教育史の知識も必要ですね。正解はこの解説を著したイタリアのイケメンバカテクピアニスト、フランチェスコ・リベッタ先生の論述に沿って書くのが模範解答となるでしょう。たとえば、

「ファロッシは、名教師カルロ・ヴィドゥッソの流派であるピエロ・ラッタリーノの下でピアノを学んだ。同じ流派にはあのポリーニもいる。ヴィドゥッソは音符一つ一つに大きな重要性があると考えたため、門弟たちはみな美しい響きを求めて、音符一つ一つを丁寧に読み取り紡いでいく傾向にある。ファロッシはこの考え方をさらに推し進め、楽曲の演奏において各指が音符をいくつ弾いているかを計数した。その結果、手の筋構造から考えて最も弱い左右の薬指の弾く音符が少なく、最も強靭な左右の親指が最多の音符を奏でていることが明らかになった。これは指の完全かつ自律的な制御という視点から重要な示唆を含んでいる。」

となるでしょう。多少、ファロッシとリベッタ先生の独自理論の面もありますが、CD史上類を見ない指ごとの打鍵数計上文献の歴史的意義に触れておくことは、魔煮悪の道には欠かせない通過儀礼と考えます。なお、ファロッシはアルバムタイトルにもあるようにスタッカート奏法にこだわり、全曲この奏法で弾いているようですが、ピアノは延音ペダルを踏むとスタッカートの意味が薄れてしまいますね。ま、それでも感触的には確かにパラパラとした音創りで、伽藍のような響きや音楽としての感情の大きなうねりよりも、粒立ちの良い音で楽曲自体をサラサラっと構築しています。このパラパラサラサラ感が指ごとのスタッカート打鍵数の計上というこだわりに繋がっているのでしょうね。

設問2のヒアリングテストは如何でしたか? 弾かれている音楽をすぐに脳内で楽譜に起こせましたか? 魔煮悪のヒアリング試験ではメモ用に五線紙も配られているので、速記が得意な人は試験中に譜面に起こしても構いません。この問題のポイントは、楽譜のどこで折り返して次の段に行くのか、ですね。正しい所で次の段に行けば自ずと楽譜が図形化されてきます。さて、その形は。はい、蝶々ですね。ただ、ちょっとナイトラウンジピアニストの指鳴らしっぽいので、蛾、と答えてしまう人も多いのではないでしょうか。しかしこの音像からは明らかに明るい陽射しを感じます。まぎれもなく蝶々です。楽譜面だけに囚われていると音楽そのものの本質を見失ってしまうという、ま、深遠なテーマを孕んだ引っ掛け問題ですね。気を付けましょう。魔煮悪の教育現場で重要視される楽曲は譜面として存在していないものが沢山あります。演奏音源だけを聴いてすぐに再現演奏ができる、耳コピ譜面が作れる、は入学後の高成績につながりますので、ぜひともこの学力を磨いていただければと思います。

それでは、受験生の皆さんの奮闘努力を心より期待し、来年には立派な魔煮悪生になっていることをお祈りいたします。

出典:SOLO STACCATO Marco Falossi (p) 伊 IKTIUS IKT 022  1997年

【紹介者略歴】
吉池拓男
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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(4) 五線譜による1950年代前半のなんとも言い難い曲

(筆者:高橋智子)

 前回はフェルドマンの図形楽譜の成り立ち、彼が図形楽譜で意図していた音楽、ジャクソン・ポロックの絵画技法との関係、演奏の際に生じる矛盾とデイヴィッド・チュードアによる解決方法などをとりあげた。今回はフェルドマンが図形楽譜作品と並行して作曲した1950年代前半の五線譜で書かれた楽曲について考察する。

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吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (13) ご尊顔を奏で奉る悦び(頭蓋骨付き)~どうみてもヘンな奴Marco Falossi その1~

Mozart  TUTTI  I  FRAMMENTI(断片全集)、SONATA K.545、333 Marco Falossi(p) 伊iktius IKT025
(参)SOLO STACCATO  Marco Falossi(p) 伊iktius IKT022 1997年 より Figura sonora teshio

えー、みなさま、本日はようこそお越しくださいました。

こちらにありますのは音符で描かれました皆様ご存じ聖モー様のシルエットでございます。なんと、奏でるだけで200余年の時を超え音楽聖人モー様のご尊顔に触れることができる聖遺物中の聖遺物、「Figura sonora Mozart」と申します。まずは聖モー様の額からそっと始めましょう。するとほどなくK.332の第2楽章が聴こえてまいります、なんと麗しい。ありがたいことです。ここで忘れていけないのは、高いB-flatの音をしっかりと保持すること。聖モー様の御髪です。この音を途切れさせると河童……もとい、トンスラになってしまいますのでご注意を。優しく後頭部を撫でれば、いきなり秘所、御鼻筋から御目の尊きライン、信者の皆様には随喜の瞬間でございましょう。そして神のごとき御耳のあたりで聴こえてくるは再びK.332。後頭部を優しくなでれば、ああ、これこそ至福、聖モー様の唇に触れまする。きっと多くの信者の方はここで気が遠くなられてしまうことでしょう。なにとぞお気をお確かに。そして顎から首筋でまた再びのK.332。秘所を去った哀しみに溢れておりまする。あとは首から下。ごゆっくり聖モー様の作品の余韻にお浸りください。え、最終段の譜面の書き方と実際の演奏の音が違っている?本来もう1段譜面がないといけないのに図形優先で誤魔化しているって? 黙らっしゃい!なんと畏れ多い。神罰が下りまするぞ。くわばらくわばら。
この聖遺物の有難みがご理解できないお方には、「Figura sonora teschio」のしゃれこうべ責めから勉強していただかないといけませんな。
それではお次の方、どうぞ。

Mozart TUTTI I FRAMMENTI – Marco Falossi(p)

さて、この有難さの極みのような楽曲を作曲し演奏したのはイタリア人ピアニストのMarco Falossi。彼が1999年に録音したモーツァルトアルバムは企画・内容ともにあまりに特異的でした。収録されているのはピアノソナタK.545とK.333、そしてピアノ作品の断片44曲(断片全集と銘打ってます)、それと上記の楽曲含むモーツァルトネタの自作曲2曲です。一見するとモーツァルトの肖像図形楽譜や全集と豪語している断片集に目(耳)を奪われますが、このCDの衝撃は紛れもなくソナタの演奏にあります。まず、ソナタK.545。ピアノ初心者用の定番楽曲として有名ですが、Falossiはとにかくやたらと速い。しかし速いことならグールドの前例があります。問題は第2楽章、繰り返しがあると片方がPresto並みの速さになり、繰り返しのない後半は高速と低速がコロコロ入れ替わります。もう何がなんやらわかりません。繰り返しを全部やって3分21秒ですから恐れ入ります(ちなみにピリスは6分04秒)。終楽章も突然の停止や急加速急ブレーキという仮免すら受からないような演奏です。K.333のソナタもかなりの快速演奏。しかも所々で入る妙な“間”。第1楽章の最後辺りでは楽譜も一部変えてます(こういうバージョンがあるのか???)。第2楽章は最終小節以外は比較的穏当に弾いています。ところが第3楽章では途中の短調になる数小節(65小節~、175小節~)をいきなり緩徐楽章並みのローテンポで弾くという荒業をかましてきます。当然、その短調部分が終わると何事もなかったかのような快速進行です。もう、おじさんはついていけません。

CDではソナタの後にモーツアルトのピアノ小品断片が44トラック入っています。本当に「断片」なので曲によっては5秒で突然終わります。フーガの作りかけなど対位法的作品が多く、しかも短調のものが多いのも目立ちます。これが全曲完成してたら結構凄いことになったんではないかと思わせる断片もあり、儚い夢に遊ぶことができる44トラックです。これはこれで史料価値は高いですね。

アルバムの最後を飾るのはFalossiが創った2曲。一つが最初にご紹介した「Figura sonara Mozart」。Falossiは最近もこの曲を弾いていてYouTubeで演奏映像を公開しています。もう一つはモーツァルトの断片をつなぎ合わせて再構成した「Pasticcio su framment di Mozart」。特に派手なお遊びをすることなく聴いた感じは“まともにモーツァルトの曲”です。ひねくれものの私からするとちょっと物足りないかな。

いずれにしろこのアルバムは、どうみてもヘンな奴 Marco Falossiならではの超個性的仕上がりです。逆に山のようにモーツァルト演奏・企画がある中で光彩を放つなら、このくらいやらないと意味がないという深い教えも包含しています。ま、放った光彩が何色だったか、どこまで届いたかは別として。

で、このヘンな奴。このアルバムの少し前にもっとイカレたアルバムを出しているのですが、それはまた次回。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (12) トラック少牌は大チョンボの香り

Kresleriana – Alexandre Bragé(p)  art clasiccs ART-276  2013年
ROBERT SCHUMANN – Marc Ponthus(p)  BRIDGE 9514 2019年

この2枚のCDには共通した奇異があります。シューマンのクライスレリアーナは全8曲なのにブラージェの盤のトラック数は7、同じく幻想曲op.17は3曲からなるのにポンザスの盤のトラック数は2。足りないのです。このトラック数の足りないところに二人の熱い想いが込められています。まさにトラック少牌が変人……いやいや個性派の証なのです。

シューマンも驚きのフランケンシュタイン的トラック錬成

Kresleriana –
Alexandre Bragé(p)

第6回で紹介したブラージェが2013年に出した「Kreisleriana」は、前半がバッハのパルティータ6番、後半がクライスレリアーナという組み合わせです。バッハは線の細さと粘り気が混在する演奏で、特に悪戯をするわけでもなく、実にきちんと弾いています。逆に言えば無名のピアニストにちゃんと弾かれても「だから何のさ」です。強いて言えばAirの引っかかるようなフレージングが変なのと、終曲のGigueがわりと遅めで、Gigueというより「終曲のFugue」という重さで弾いていることが特徴でしょうか。

で、アルバムタイトルのクライスレリアーナです。冒頭に挙げたように全8曲なのにトラックは7つしかありません。7曲目と8曲目が1つのトラックになっているためです。ここでトンデモないことをブラージェは仕掛けて来ます。

それではまず順に1曲目から。時折、妙なアクセントや加速を見せるギクシャク感のあるアプローチです。続く2曲目は1838年版の方を弾きます。最後に主部のメロディーが帰って来るところで、独自の駆け上がりフレーズを入れます。これはそんなに悪くない。エンディングも少し音を足してます。3・4曲目はノーマルな仕上りですが、3曲目の28小節目で音型が前後と違うところは無視してます(私は賛成)。5曲目は中間部のテンポをかなり落として、一瞬、レチタティーヴォか?と思わせるような演出をします。6曲目、Etwas bewegter(やや早く)の後半部分、妙に跳ねて速くなります。これは違和感大だなぁ。そして7曲目。10小節目くらいからの熱くなる部分を、弱めのいわばアラベスク調で弾きます。これはこれで面白い。で、いよいよトラック融合部分。ブラージェは7曲目の最後の7~8小節と8曲目の頭の8小節を細かく切り刻んでから交互に並べて直して一体化するという、神をも恐れぬ所業をかましてきます。確かにこれではトラック分け出来ません。誰もやらない工夫をと、考えに考えたのでしょう。その意気や見事。結果は、違う2曲を切り刻んで交互に細かく並べ直したものですから、音楽的にはぐっちゃぐちゃ。少なくとも私の頭上には疑問符の大星雲です。でも、よくやった。「他人さまとわかりやすく違ってなんぼ」が芸の基本だとの覚悟が伝わってきます。ま、おかげで8曲目は実態上、8小節目の途中から始まります。

そんなブラージェですが2013年のこのアルバム以降、リリースが(たぶん)なく、ネット上でも最近の動静が探れません。どうしているのでしょうね。またどこかで個性炸裂玉砕気味のアルバムを出してくれるとよいのですが……。

ペダルで融合?する楽章と確信犯的楽譜改変

ROBERT SCHUMANN –
Marc Ponthus(p)

さて、もう一人のトラック少牌はポンザスです。どちらかというと現代音楽専門のピアノ弾きのようですが、なぜかシューマンアルバムを2019年に出しました。確かにシューマンは19世紀前半において過激な現代音楽作曲家でしたから波長が合うのかもしれません。で、当然のように色々仕掛けて来ます。

なんといっても注目はトラックの減少ポイントです。ポンザスは幻想曲の第2楽章(*)と第3楽章を1つのトラックにまとめているのです。彼はCD解説で語っています。「この曲の第3楽章は第2楽章の枠組みの中で共鳴するのだ。」と。そしてポンザスは第2楽章終わりの変ホ長調の主和音をペダルで延々と引き延ばし、その響き中でハ長調の主和音から始まる第3楽章を弾きだすのです。和音的にとってもばっちい世界が広がります。その後、和音が変わってもペダルはしばらく踏みっぱなし。うーーーむ、これが「枠組の中の共鳴」なのか? 素人のヲジサンにはわからんぞ。さらに「第2楽章で高まった活力の遠い共鳴もある。」として、第3楽章の随所でやたら速いテンポや激しめのフレージングをかましてきます。特に最後の1ページの速さは相当なものです。嗚呼、私の頭上にはまたもや疑問符の大星雲が轟々と渦を巻き始めました。ちなみにポンザスは幻想曲の第1楽章でも自己主張を展開します。特に中ほどのハ短調の部分(Im Legendenton)で楽譜のリズムパターンから離れた独自の伴奏音型で攻めてきます。その直後には第3楽章へのつなぎを予見させるような“延々とペダル踏みっぱなし”攻撃も仕掛けます。良いか悪いかは遥か上空の棚に上げて、実に個性的なシューマン幻想曲です。

同じ盤にはクライスレリアーナと子供の情景も併録されています。クライスレリアーナの第1曲の中間部などは他者からは聴いたことのない妙な高速アプローチをかましますが、一番主張の明解なのは終曲。この曲の主題は楽譜上は、

なのですが、ポンザスは「この曲のヴェールに覆われた激しさを解放する。」として、

と変えてしまいます。確かにリズムや旋律は明解になりました。しかも早めのテンポで弾きますので、スケルツァンドな感じは強くなっています。ここは幻想曲の第3楽章以上に明解な自己主張かもしれません(しかもこの方が弾くのが簡単!)。CDは最後に子供の情景を弾いていますが、なぜかまったく素直なアプローチで特筆するところはありません。

楽譜は絶対不可侵な聖域ではなく、演奏家は自己の生存意義をかけて独自のアプローチを仕掛ける。その功罪はともかく「なんか他人と違うことを確信犯として行う」演奏家をきちんと拾い上げて行きたいものです。……ま、たいていはダメダメなんですけどね。

* シューマンの幻想曲op.17の各曲を「楽章」と呼ぶかは意見が分かれるところ。本稿ではポンザス自身が解説の中で「movement」という表現を使っているため。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (11) 毒蛇様の安物合成強力睡眠薬(神経毒エキス配合)

Beethoven  Piano Sonatas Vol.1  No.32 in c-minor op.111  Maximianno Cobra TEMPUS collection (CD番号なし)2009年
Liszt Piano Sonata/Cobra Piano Sonata op.7    Maximianno Cobra TEMPUS collection (配信) 2010年

Beethoven Piano Sonatas Vol.1 No.32 in c-minor op.111 Maximianno Cobra

「テンポ・ジュスト理論(*1)」というトンデモ音楽理論による超遅演奏で2002年頃に話題になった指揮者マキシミアンノ・コブラ。話題がシュンと萎むと変態的遅演奏に付き合ってくれるオーケストラがいなくなったのか(真相不明)、15年前くらいから発表するオケ曲CDがサンプリング音源による電子音合成演奏になっていました。すっかり“あの人は今”レベルになったコブラでしたが、黙々とサンプリング音源による音盤製作は続けており、いつのまにかピアノ曲もその毒牙にかけていたのです。

コブラのベートーヴェン・ソナタ第1集(第2集以降は全く出ていない)には、32番のソナタ1曲だけが収録されています。皆様ご存知のように、フツーは後期3大ソナタとかいって30、31、32番の3曲でCD1枚です。さあ、演奏時間を見てみましょう。

・第1楽章(繰り返しあり) 14分49秒 (参考:鍵聖ぽるりーに 8分53秒)
・第2楽章(繰り返しあり) 33分41秒 (    同     17分23秒)

……アホか。第2楽章なんぞ通常の第9の第4楽章よりも長いやんけ。われ、ええかげんにせぇ!

と、まぁこうなるわけです。では、聴いてみましょう。正直、第1楽章は耐えられます。コブラの超遅演奏の誉め言葉に良く使われる“作曲者の書いた一音一音の構造が克明に聴こえる”とか“あまりに遅い演奏からかえって深い思索を巡らすことができる”という利点がわからなくもないです。しかし、第2楽章。33分41秒の第2楽章。これを聴くと…………あ、寝てた、まだやってるな、これどの辺だ?遅すぎてわからん……な…………あ、また寝てもうた、まだやってるぞ、深い思索の世界を……zzzzzzzzzz……終わっとるやんけ……酒呑んで寝るか。続きはまた明日。

素晴らしい! ゴールドベルク変奏曲の数段上を行く催眠効果。聴く者の音楽聴取集中力を根底からえぐり取って永遠の眠りに誘うが如き、至高の睡眠薬です。不眠に悩む皆様へ必需CDとなるかもしれません。しかも。音はチープなサンプリング音源。それだけでもガッカリ感満載で催眠効果抜群です。さすがコブラ。ここでWikipediaの「コブラ科」から「毒」の項を引用しましょう。

本科の構成種が有する毒は神経毒と呼ばれる種類のものである。高い即効性を持ち、獲物となる動物の神経の放電を塞ぐことで、麻痺やしびれ、呼吸や心臓の停止をもたらし、ひいては死に至らしめる。

……あまりに深い納得感。まさに名は体を表す。マキシミアンノ・コブラの演奏の精髄はこの一文に凝縮されています。とにかく「死に至らしめ」られないうちに聴くのを止めるのが最善の策でしょう。

まぁ、ディスってばかりいてもなんですので。こんなコブラの爆遅第2楽章の個人的な賛成点をひとつ。第2楽章の変奏の中で、32分の12拍子L’istesso tempoのところがあります。通常の演奏で、この付点だらけの快速部分のせせこましくてせっかちな感じに凄く違和感がありました。そこをコブラは♩=60で演ります。鍵聖ぽるりーに様が♩=90くらいですので1.5倍増しですね。で、コブラのこの部分のテンポ感、わりと納得して落ち着きます。もちろん全体構成と前後との比較の中での問題なのですが、ここだけはそう悪くない、というのが素直な感想です。

なぜか超遅ではない自作曲に見る自家撞着

Liszt Piano Sonata/Cobra Piano Sonata op.7    Maximianno Cobra

さて、コブラの鍵盤音楽CDはベートーヴェンの32番以外に何点かあります。これらは今、主にCDではなく配信でリリースされています。たとえばモーツァルトのソナタ集。遅い、とはいえ想定の範囲。サンプリング音源がピアノではなくチェンバロですが、バッハのゴールドベルク変奏曲や平均律もあります。ピアノ音源によるものでは、リストのソナタを46分32秒かけて演るものもあります。これは意外と耐えられます。ま、通常の当社比150%増しくらいで済んでいるとこともありますし、リストのピアノ書法が遅いテンポゆえによく聴き取れるという利点は確かにあります。ただ冒頭のAllegro energicoがあまりに弱々しかったり、第3部の冒頭のフーガ風の部分がひどく淋しげだったり、場所によってはなぜか通常演奏とあまり変わらないテンポ感だったり、サンプリング音源制作の安っぽさが全開したり、と耐え難きを耐える箇所が次々と聴き手に試練としてのしかかってきます。でも、ギリ許せるかな、という演奏です。ただ、詳しくは学んでいませんが、指揮法の観点から発生したと思われるテンポ・ジュスト理論を本当にピアノ曲にまで敷衍してよいのか、大いに疑わしい所ではあります。たぶん大元の音楽学者の論文には「どんな音楽でもOK!」の理論武装があるのでしょうが、それを読み解く気力はありません。

で、問題はリストのソナタに併録されているコブラ自作のピアノソナタです。曲としてはありがちな近現代ソナタ(そんなにゲンダイオンガクではない)で、単一楽章12分くらいの作品です。これ、聴いていて超遅感はありません。高速フレーズも随所にあります。すると現実的に既存の楽曲から高速性を奪いまくったテンポ・ジュスト理論の信奉者が何やってるんだという突っ込みどころが満載となります。テンポ・ジュスト理論の自家撞着がこの自作ピアノソナタの演奏には見え隠れしている気がします。そういう観点からこの曲はリリースしない方が良かったのではないかとジジイの老婆心が鎌首をもたげました。コブラには自作の交響曲の録音もあるようです。ピアノソナタの出来からしてとても聴く気にはなれませんので、真摯に聴いた!という奇特な方はテンポ・ジュスト理論との関連性を検討した上でMuse press社までご感想をお寄せください。

*1:テンポ・ジュスト理論(wikipedia 覆面オーケストラの項の脚注から引用)
コブラが信奉する「テンポ・ジュスト理論」は、オランダの音楽学者ヴィレム・レッツェ・タルスマが1980年代に公表した学説で、古典派の時代には指揮棒の1往復を1拍として数えていた(つまり、この理論にもとづいて演奏されると、指揮棒の1往復を2拍として演奏する現在の通例よりも、単純計算で2倍の時間を要することになる)と主張している。ただし、音楽学界でこれを支持する研究者はほとんどいない。コブラ指揮の録音はこの理論に基づいているため、ベートーヴェンの交響曲第9番《合唱つき》が110分(通常では70分余り)、ベートーヴェンの交響曲第5番が76分(通常では35分程度)、モーツァルトの交響曲第40番が69分、モーツァルトの交響曲第25番が52分もかけて演奏されている。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(3) 1950年から1953年までの図形楽譜

(筆者:高橋智子)

 前回は1951年頃からニューヨーク・スクールのサークルに出入りするようになったモートン・フェルドマンの周りで起きた出来事が彼の創作に大きな影響を及ぼした様子を振り返った。今回はフェルドマンが1950年末から1953年の間に書いた図形楽譜の作品について、いくつかの側面から考察する。

1. 図形楽譜の始まり ワイルドライスを待ちながら Waiting for wild rice

 音楽史の書籍や教科書においてフェルドマンは図形楽譜を最も早くに始めた作曲家として紹介されることが多い。特にフェルドマンの「Projection 1」(1950)とアール・ブラウンの「December 1952」(1952)は第二次世界大戦後のアメリカ音楽に関する項目での掲載頻度が高い。

Earle Brown/ December 1952

 ブラウンの「December 1952」は音高、拍子、テンポ、編成といった要素が指定されていない。

 1950年12月の末、ケージがワイルドライス[1]を料理している間、フェルドマンは後に「Projections 1」として結実する図形楽譜のスケッチを書いた。その時の様子をフェルドマンは1983年に行われたインタヴューの中で次のように振り返る。

それがどのように起こったのかわからない。実際、ジョン・ケージと同じ建物に住んでいて、彼が私をディナーに招待してくれた。ディナーの準備はまだできていなかった。ジョンは誰も知る由がないような方法でワイルドライスを料理していた。お湯が沸騰するのをひたすら待って、新たに沸騰したお湯をワイルドライスに注ぎ、それからポットもう一杯分のお湯を追加し、ワイルドライスを湯切りするなどをしていて、ワイルドライスができるまでの長い時間を私たちは待っていた。ワイルドライスを待っている間、私はケージの机にちょっと腰掛けてノートの1ページを取り出し、そこになんの考えもなしに書き始めた。私が書いたのは気ままに書きなぐったグラフ用紙の1ページだった――そこに現れたのは高・中・低のカテゴリーだった。それはまったくの無意識だった――ゆえにもちろんのこと、これについて語ったこともなかった――議論したこともなかった。

I have no idea how it came about. Actually, I was living in the same building as John Cage and he invited me to dinner. And it wasn’t ready yet. John was making wild rice the way most people don’t know how it should be made. That is, just waiting for boiling water and then putting new boiling water into the rice and then having another pot boiling and then draining the rice, etc, etc, so we were waiting a long time for the wild rice to be ready. It was while waiting for the wild rice that I just sat down at his desk and picked up a piece of notepaper and started to doodle. And what I doodled was a freely drawn page of graph paper—and what emerged were high, middle, and low categories. It was just automatic—I never had any conversation about it heretofore you know—never discussed it.[2]

 1966年に行われたフェルドマンとケージの対談によれば、この時のスケッチは同じくその日のディナーに呼ばれていたデイヴィッド・チュードアがすぐにケージのピアノで演奏した。[3] 「Projection 1」は最終的にチェロ独奏の曲として完成するが、この時点ではまだ楽器が特定されていなかったと推測できる。それからフェルドマンはこのアイディアを基にした一連の図形楽譜楽曲の作曲に取り掛かり、1950年12月末に「Projection 1」が完成する。彼の図形楽譜のアイディアに興奮したケージは約1週間かけてフェルドマンのさらに2つのスケッチを清書した。そこでできたのが2台ピアノのための「Projection 3」[4]と、ヴァイオリンとピアノのための「Projection 4」の2曲だ。この2つのスコアを見れば「ジョン・ケージの筆跡と彼が当時使っていたペンだとわかるだろう。If you look at these scores of mine, you will recognize John Cage’s handwriting and the pen he used it at that time.」[5]。以上の経緯でフェルドマンは図形楽譜のアイディアを自分の作品へと仕上げていった。「実のところ、私にはいかなる類の理論もなく、それがどのように現れようとしているのかも考えつかなかったが、もしもあの時ワイルドライスを待っていなかったら、あのようなワイルドな(突飛な)アイディアを思いつかなかっただろう。Actually I didn’t have any kind of theory and I had no idea what was going to emerge, but if I wasn’t waiting for that wild rice, I wouldn’t have had those wild ideas.」[6]とフェルドマンが言うように、図形楽譜の誕生の現場にはいくつかの偶然性が働いていたが、ここでの最大の貢献者は、おそらく一般的なレシピを無視した謎の調理方法でワイルドライスにやたら時間を費やしたケージかもしれない。もしもこの夜のメニューがすぐにできあがる料理だったら、フェルドマンの図形楽譜は生まれていなかった可能性もある。このエピソードに倣い、私たちは手持ち無沙汰の時間を大事にしなければならない。

 現在までに確認されているフェルドマンの図形楽譜による楽曲は全部で17曲。作曲年代は1950年から1953年と、1958年から1967年の2つの時期に分けられる。1954年からの約4年間の空白は、フェルドマンが図形楽譜の在り方に疑問を抱き、図形楽譜にまつわる諸問題を再考していた時期とみなされる。図形楽譜の空白期間とその間の彼の葛藤は後で改めて検討することにして、今回は1953年までの図形楽譜の楽曲を対象とする。

[図形楽譜によるフェルドマンの楽曲]

Projection 1(1950):チェロ独奏 約2分50秒
Projection 2(1951年1月3日):フルート、トランペット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ 約4分40秒
Projection 3(1951年1月5日):2台ピアノ 約1分30秒
Projection 4(1951年1月16日):ヴァイオリン、ピアノ 約4分40秒
Projection 5(1951年):フルート3、トランペット、チェロ3、ピアノ2 約2分10秒
Intersection 1(1951年2月):打楽器なしの管弦楽 約12分30秒
Marginal Intersection (1951年7月):管弦楽、エレクトリック・ギター、オシレーター2、事前に録音されたノイズ 約5分50秒
Intersection 2(1951年8月):ピアノ独奏 約9分
Intersection 3(1953年4月):ピアノ独奏 約2分20秒
Intersection 4(1953年11月22日):チェロ独奏 約3分

  1954年から1957年の間、図形楽譜は一時中断される。

Ixion(1958年8月):室内アンサンブル 約20分20秒
Atlantis(1959年9月28日):室内アンサンブル(2種類の編成で演奏可能) 約8分
Ixion (1960年1月):2台ピアノ 約7分20秒
…Out of ‘Last Pieces’(1961年3月):管弦楽とエレクトリック・ギター 約8分50秒
The Straits of Magellan(1961年12月):フルート、ホルン、トランペット、ピアノ、エレクトリック・ギター、コントラバス 約4分50秒
The King of Denmark(1964年8月):打楽器独奏 約5分10秒
In Search of an Orchestration(1967年):管弦楽 約7分40秒

 半数以上の楽曲の演奏時間が3〜5分程度だが、「Intersection 1」「Intersection 2」「…Out of ‘Last Pieces’」といった10分前後を要する作品も見られ、全体的にばらつきがある。「Projection」 1-5と「Intersection」 1-5は独奏と小規模なアンサンブルを中心としている。この中で最も大きな編成の「Marginal Intersection」では高周波と低周波のオシレーター2つが用いられている。フェルドマンはこの2つのオシレーターを「聞こえないが「感じ」られる。These cannot be heard, but are “felt.”」と説明している[7]。タイトルにある「marginal へりの、辺境の」もふまえると、2つのオシレーターは可聴域の際(きわ)の、聴こえるか聴こえないかの周波数に合わせるのがふさわしいのではないかとClineは指摘する[8]。だが、この曲の唯一の録音「Feldman Edition Vol. 9 Composing by Number: The Barton Workshop plays graphic scores」[9]に収録されている演奏ではオシレーターがはっきりと聴こえる周波数と音量で演奏に用いられていることから、どちらがより正統な演奏方法なのかはすぐに結論を出せない。電気による増幅や伝統的な楽器以外の音源に対して積極的ではなかったフェルドマンは「…Out of ‘Last Pieces’」「The Straits of Magellan」「Marginal Intersection」でエレクトリック・ギターを用いるなど、音色や編成の点で五線譜による楽曲には見られない試みが図形楽譜の楽曲の中でなされている。

2. 中心のない、時間のキャンヴァス

 他の作曲家による意匠に工夫を凝らした図形楽譜に比べて、グラフ用紙のマス目を基本とするフェルドマンの図形楽譜はだいぶ単純で簡素に見える。最もよく知られた「Projection 1」の冒頭はこのサイト「The art of visualizing music」で見ることができる。フェルドマンの図形楽譜におけるグラフ用紙のマス目は大抵がメトローム記号によるテンポ表示と対応している。「Projection」シリーズの場合、このマス目はさらに内部で4分割されていると見なすことができ、1つのマス目を4拍子の1小節分、その内部が1拍として数えられる。グラフ用紙の垂直方向は高・中・低の音域を指示している。具体的な音高の選択は奏者に任せられているので、奏者は指定された音域内ならどの音高を鳴らしてもよい。内部の小さなマス目にはピチカートや開放弦などの演奏記号や、そこで鳴らされるべき音の数がアラビア数字で記されていることもある。このように具体的な音高は指定されず、音域と音が鳴らされるタイミングのみが記されているフェルドマンの図形楽譜の楽曲は、方法は決まっているが結果がその都度異なる不確定性の音楽に分類される。以下の演奏では「Projection 1」の中で鳴らされる音とスコアとが同期しており、これを見ればフェルドマンの図形楽譜のおおよその読み方と、その結果生じる音響の概要をつかむことができる。実際のスコアはモノクロだが、この映像では高音域が黄色系、中音域が赤系、低音域が青系の色に色分けされている。

Projection 1

 先の「Marginal Intersection」のオシレーターの例からもわかるように、彼の図形楽譜は簡素なだけに解釈や分析に対して開かれているともいえる。フェルドマンの図形楽譜について考える場合、史実と美学の両側面からの成り立ち、主に音域の分布と音の持続に注視した楽曲の構造、解釈と演奏実践の可能性といった複数の視点が必要だ。史実については上述のワイルドライスのエピソードと前回とりあげたザ・クラブやセダー・タヴァーンでの出来事が図形楽譜の成立を考察する際のヒントとなる。美学については、前回触れた抽象表現主義絵画、とりわけキャンヴァスを床に置いてそこに絵の具や塗料を直接垂らすジャクソン・ポロックの技法がフェルドマンの図形楽譜の作業手順に直接的な影響をもたらしたと考えられる。以下は1981年に書かれたフェルドマンのエッセイ「Crippled Symmetry」からの引用である。

当時を振り返ると、私の1951年の音楽的な理念が彼の創作方法と類似していたことを今になって実感している。ポロックはキャンヴァスを床に置き、その周りを歩きながら描いた。私はグラフ用紙を壁に貼った。グラフ用紙の1枚1枚が同じ長さの時間の持続の枠にはめられ、実際に視覚的なリズム構造でもあった。ポロックと似ていたのは時間のキャンヴァスに対する私の「全面的な」アプローチだった。通常の左から右へと走るページではなくて、グラフ用紙の横方向のマス目はテンポを表している。――マス目の中のそれぞれの四角形は予め設定された音の入り[10]と等しい。垂直方向の四角形はこの曲の編成を表している。

In thinking back to that time, I realize now how much the musical ideal I had in 1951 paralleled his mode of working. Pollock placed his canvas on the ground and painted as he walked around it. I put sheets of graph paper on the wall; each sheet framed the same time duration and was, in effect, a visual rhythmic structure. What resembled Pollock was my “allover” approach to the time-canvas. Rather than the usual left-to-right passage across the page, the horizontal squares of the graph paper represented the tempo—with each box equal to a preestablished ictus; and the vertical squares were the instrumentation of the composition.[11]

 ここでフェルドマンはポロックと自身の図形楽譜との類似性を明言している。「時間のキャンヴァス」の表現に注目すると、フェルドマンが五線譜ではない媒体に音楽を書き付けた理由の一端が推測できる。一般的に、五線譜は時間の経過を左から右へと可視化する媒体だ。これまで当たり前と思われてきた五線譜の中で左から右へと流れる時間と、それに沿って音の連続体を構成することとは違う方法で音楽を作る1つの策としてフェルドマンはグラフ用紙を壁に貼ってみたのだろうか。フェルドマンがグラフ用紙で行ったのは、キャンヴァスに見立てたグラフ用紙に音を投げつける作業だったのかもしれない。グラフ用紙1枚1枚は一定の長さの時間の枠組みが規定されていて、その中で様々な方向に視線を動かすことができる。グラフ用紙のマス目を行きつ戻りつしながら音を書き付けるフェルドマンの姿はキャンヴァスの周りを歩きながら絵の具を垂らすポロックと重なる。このように考えると、フェルドマンの初めての図形楽譜作品が「Projection 投影」と題されたのも納得できるだろう。

 これまで引用してきたフェルドマンの言葉をここでもう一度考えてみると、彼は図形楽譜の誕生が無作為で、直感的で、衝動的だったと言いたげな主張を繰り返していることがわかる。一見、直感的で衝動的なポロックの絵画技法はこの当時のフェルドマンの意図と一致しているともいえる。フェルドマンは自身の音楽的な時間へのアプローチを「全面的 allover」という言葉で説明していることも、ポロックの1940年代からの作品における中心の欠如の影響だと考えられるだろう。だが、ポロックのポーリングやドリッピングの技法が全くの直感でランダムに行われていたのではなく、実は腕を動かすスピードや高さが意識されていたことを実証する研究結果が絵画研究や物理学の領域においていくつか出ている[12]。同様にフェルドマンの「Projection」シリーズと「Intersection」シリーズには、「全面的なアプローチ」と中心点の欠如を達成するための作者による微調整の痕跡を見ることができる。

 これまでフェルドマンの図形楽譜にまつわる研究といえば抽象表現主義絵画との同時代性や類似性で語られることが多かったが、Clineの『The Graph Music of Morton Feldman』はスケッチと出版譜を徹底的に分析する実証的な手法で一連の図形楽譜作品を解き明かしている。彼の分析によれば、「Projection」シリーズ、「Intersection」シリーズ、「Marginal Intersection」のそれぞれにおける音域の分布と、アンサンブルや管弦楽編成の場合はパートごとの出現頻度にある程度の均衡が見られる[13]。たとえば、ヴァイオリンとピアノのための「Projection 4」の両パート合わせた音域の分布は高音域34%、中音域34%、低音域32%。わずかな差があるものの、3つはほぼ同じ割合と言える[14]。さらにヴァイオリンとピアノとにそれぞれ割り当てられた音の数の割合はヴァイオリン52%、ピアノ48%と、ここでもやはり均衡が見られる[15]。さらにミクロな視点から、Clineの分析は「Projection 4」の全8ページの見開き2ページごとの音域とパートの分布にも同様の均衡が見られることも明らかにしている[16]。この傾向は同時期の他の図形楽譜の作品にも観測される。だが、この分析はフェルドマンが実際に各パートの記号の数を数えていたことを裏付けるわけではない[17]。「むしろ彼は幅広く均整のとれたやり方で記号(訳注:数字や音符もここでの「記号 symbols」に含まれる)を配置しようとしていて、おそらくそれぞれの音域や楽器のパートに1つずつ順番に記号を書き足していった。 It is, instead, that he meant to distribute symbols in a broadly balanced fashion, possibly by adding one symbol to each register location or instrumental part in turn. 」[18] ことがこの分析から推測される。図形楽譜における音域とパートの均衡のとれた分布から、フェルドマンが志向した「全面的なアプローチ」は演奏として鳴り響く音よりも、作曲と記譜の過程において到達されていると考えられる。

Projection 4

Projection 4

 この曲の記譜法は「Projection 1」とほぼ同じ方法で書かれているが、マス目の中に演奏すべき音の数がアラビア数字で記されている。

 慣習的な五線譜の中での一方向の流れに沿っていたら、フェルドマンが言う全面的なアプローチはできない。瞬間的、衝動的に生じた音を拾い上げて書き付けるには、彼にとっては五線譜よりグラフ用紙の方がやりやすかったのだろう。ポロックの腕のコントロールやフェルドマンの音域の均等な分布のように、たとえその実践において作者が実用的な理由で何らかの方策を内に秘めていようと、第二次世界大戦後のアメリカの芸術思潮は即興的な直感と衝動を創作の源泉としていたともいえる。このような傾向についてBelgradは自発性と間主観性の観点から次のように分析している。

戦後の自発性の主流は実存主義的な哲学の欠点をうまく回避し、主観性にまつわるより急進的な場の理論に対する支持の表れとして、実存主義的な精神と肉体の二項対立の痕跡を拒絶する。間主観性の信条と矛盾することなく、自発性は自分の素材との即興的な対話に入り込む戦略を具現した。抽象表現主義の作品に特徴的な閉じられた感覚の欠如を説明しているのは、このような対話――ギヴ・アンド・テイクが決して完結することはなく、完全な理解にも到達しない――の感覚だった。

The mainstream of postwar spontaneity eluded the shortcomings of existentialist philosophy, rejecting its vestiges of a mind/body/dichotomy in favor of a more radical field theory of subjectivity. Consistent with the tenet of intersubjectivity, spontaneity embodied a strategy of entering into improvisational dialogue with one’s materials. It was this sense of dialogue –of give-and-take never completely ended, and full understanding never completely accomplished—that accounted for the characteristic lack of closure in abstract expressionist works.[19] 

 ここで言われている間主観性は人間と人間との関係に限定されるのではなく、人間とその人の創作の素材や方法との関係だと解釈した方がこの文脈に適合すると考えられる。自分の素材と対話し、その対話を完結させず開いておく態度はフェルドマンの創作の中で「音の解放」として現れている。彼は「Projection 2」の解説で「私のここでの欲望は“作曲すること”ではなくて、音を時間に投影し、ここには必要がなかった作曲のレトリックから音を解放することだ。my desire here was not to “compose,” but to project sounds into time, free from a compositional rhetoric that had no place here.」[20]と書いている。彼の一連の図形楽譜の楽曲は演奏の場で鳴り響く音の可能性が開かれている不確定性の音楽だ。楽曲や作品の体裁を取るからには楽譜に記されて固定されているが、フェルドマンが目指していたのは、音があたかも自発的にそこに現れ、あるいは天啓のように作曲家のもとに降臨し、それをすかさず彼がグラフ用紙に書き付ける一連の流れだと想像できる。彼の図形楽譜の作品では演奏ごとに実際に聴こえてくる音が変わるので、その曲は楽曲として固定されていながらも流動性を持ち、開かれた状態を維持することができる。だが、実際の演奏の現場では作曲家が描いたこのような理想的な状況はそう簡単に実現しなかった。

3. 図形楽譜の理想と現実

 フェルドマンの意図を十分に理解し、彼が書いた通りに演奏すれば図形楽譜は当時彼が目指していた音楽を実現するのに最適な方法になるはずだったが、スムーズにことが運んだわけではなかった。図形楽譜はむしろ作曲や演奏にまつわる議論を提起している。フェルドマンの図形楽譜の楽曲に限らず、不確定性の音楽についてしばしば問題になるのが即興との違いだ。フェルドマンは図形楽譜による自分の楽曲が即興ではないことを明言している。

図形楽譜の音楽を何年か書いてみて、最も重要な欠点に気づき始めた。私は音を自由にさせているだけではなかった――演奏者にも自由を与えていたのだった。図形楽譜を即興の芸術と考えたことは一度もなく、むしろ完全に抽象的な音の冒険と思っていた。もしも演奏者がうまく演奏できなかったら、それは彼らの存在を感じさせるパッセージと連続性に私がまだ関与しているせいではないとその時理解したので、このことに気づけたのは重要だった。

After several years of writing graph music I began to discover its most important flaw. I was not only allowing the sounds to be free – I was also liberating the performer. I had never thought of the graph as an art of improvisation, but more as a totally abstract sonic adventure. This realization was important because I now understood that if the performers sounded bad it was less because I was still involved with passages and continuity that allowed their presence to be felt. [21]

 フェルドマンは作曲家と演奏者それぞれの記憶の中で固定されたパターンや連続性、演奏者の手癖を完全に排した抽象的な音楽を目指していたが、音高の選択を演奏者の任意にするだけでは彼が描いた抽象性に到達できなかった。上記の引用の中でフェルドマンは演奏の成否にも言及しているが、いったい何を基準にそれが決まるのだろうか。もしかしてフェルドマンが求めていた具体的な音の響きがあったのだろうか。理想とする音を常に鳴らしたいならば、音高を指定することによって問題はすぐに解決するはずだ。だが、それでは図形楽譜における不確定性の意味がなくなってしまう。着想と創作の段階ではさほど矛盾なく理解して共感できるフェルドマンの図形楽譜は、演奏の段階になると概念と実践両方においての課題が生じる。フェルドマンの図形楽譜のピアノ曲の初演を手がけたチュードアは当時どのようにして演奏したのだろうか。

 チュードアに献呈されたピアノ独奏のための「Intersection 3」はマス目1つあたりのテンポが176に指定されている。高・中・低それぞれの音域のマス目に書かれた数字は一度に演奏する音の数を示している。3/3、6/2といった分数の箇所では1つの音域内で2つの音の塊を作る必要がある。冒頭の中音域の3/3は中音域で3音、もう1つ別の3音の、合計6音を演奏する。曲が終盤にさしかかった369番目のマス目では高音域で10/10、中音域11/9と書かれており、速いテンポの中で一度に40の音を鳴らさないといけないことを意味する。実際の演奏では、この曲は速いテンポでのトーン・クラスターが次々展開されるわけだが、図形楽譜だけを見て、そこに記された数の音を即座に打鍵するのは超絶技巧のピアニストでも不可能だろう。チュードアはこの曲の演奏に先立って五線譜に書き換えた自分用の楽譜を作成していた[22]。チュードアがしたようにあらかじめ五線譜に書き換えておけば、時間をかけて何度も練習してすばやく精確にクラスターを打鍵することができる。これは実用的でとてもよいアイディアだが、作曲家や演奏者の記憶に束縛されない完全に抽象的な音の冒険というフェルドマンの理念との矛盾が出てきてしまう。しかし、演奏家にとっては五線譜に書き換えた楽譜があれば演奏の際の困難さが解消されるのはたしかだ。精確に演奏しようとすればするほど、五線譜に書き換えた楽譜が必須になってくる。もしも五線譜なしにこの超絶技巧の楽曲を演奏しようとするならば、速いテンポの中で指定された数の音を精確に打鍵するのは途端に困難になる。実のところ、聴き手には何が正しくて何が間違っているのか判断できないが、図形楽譜だけの演奏だとこの曲の記譜上の精確さが失われてしまうし、フェルドマンが回避しようとした即興演奏に近づいてしまうかもしれない。「Intersection 3」は作曲家が理想とする、この曲のあり方――作曲家や演奏者の記憶に束縛されない完全に抽象的な音の冒険――を追求すると、ここで要求される超絶技巧ゆえ楽譜通りの正しさから遠のいてしまうという皮肉な結果になる。

Intersection 3

 ピエール・ブーレーズは1951年12月にケージに宛てた手紙の中で、フェルドマンの図形楽譜を「退化 a regression」として批判している[23]。 特にブーレーズが批判したのはフェルドマンの図形楽譜におけるリズムの単純さだ。ブーレーズが指摘するように、指定されたテンポに即してグラフ用紙のマス目に書かれたタイミングで音を鳴らすだけでは複雑なリズムを創出することができない。フェルドマンの図形楽譜に対するブーレーズの率直な感想は「現在、私たちは音楽家であって画家ではありません。絵画は演奏されるために描かれているわけではないのです。Now, we are musicians and not painters, and pictures are not made to be performed.」[24]という一文に集約されている。

 おそらくフェルドマンも上記の矛盾や困難さを十分に自覚していたはずだ。彼はこれらをどのように解決しようとしたのだろうか。次回は同時期に書かれた五線譜の楽曲に焦点を当てて、図形楽譜作品との共通点や違いについて考えたい。


[1] イネ科マコモ属の一年草。可食部である黒い種子が米に似ているためワイルドライスと呼ばれている。
[2] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 153
[3] John Cage and Morton Feldman, Radio Happenings: Conversations, Köln: Musik Texte, 1993, p. 17
[4] Morton Feldman Says, p. 153 フェルドマンは2台ピアノのための「Intersections」を挙げているが、作曲時期と編成から判断するとこの時ケージが清書したのは「Projection 3」の可能性が高い。
[5] Ibid., p. 153
[6] Ibid., p. 153
[7] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 10
[8] David Cline, The Graph Music of Morton Feldman, Cambridge: Cambridge University Press, 2016, p. 30
[9] mode 146, 2005
[10] 自身の図形楽譜に関してフェルドマンはictus(強音、アクセント)という言葉を好んで用いた。彼は音の入りやアタックを意図していたと考えられる。
[11] Feldman 2000, op. cit., p. 147
[12] ポロックの絵画技法と力学との関係についてはブラウン大学のこの記事が参考になる。Scientists reveal the physics of Jackson Pollock, https://phys.org/news/2019-10-scientists-reveal-physics-jackson-pollock.html October 30, 2019.
[13] Cline 2016, op. cit., Chapter 5, “Holism,” pp. 140-162
[14] Ibid., p. 141
[15] Ibid., p. 141
[16] Ibid., p. 156
[17] Ibid., p. 142
[18] Ibid., p. 143
[19] Daniel Belgrad, The Culture of Spontaneity: Improvisation and the Arts in Postwar America, Chicago: The University of Chicago Press, 1998, p. 10
[20] Feldman 2000, op. cit., p. 6
[21] Ibid., p. 6
[22] チュードア研究家のJohn Holzaepfelがチュードアによる五線譜の詳細を論じている。John Holzaepfel, “Painting by Numbers: The Intersections of Morton Feldman and David Tudor,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, pp. 159-172
[23] The Boulez-Cage Correspondence, English version, Edited by Jean-Jacques Nattiez, translated and edited by Robert Samuels, Cambridge: The Press Syndicate of the University of Cambridge, 1993, p. 115
[24] Ibid., p. 116

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は7月15日の予定です)

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (10) 凄絶な人生と五月蠅すぎるジャズ

Georges Cziffra  Improvisations & Unpublished Pieces  Klassicsotaku CD-5109

超個性派ピアニストとしては、やはりこの人を取り上げないわけにはいかないでしょう。ジョルジュ・シフラ。何を弾いてもハンガリー狂詩曲になると毀誉褒貶にまみれ、人気はあったもののあまりまともに扱われなかった鬼才です。彼は、たぶん彼しかできなかったピアノ奏法でエゲツないほどの外連味に溢れた音楽演出をかまし続けました。実は、かっちりまともに弾いた演奏の方が数としては遥かに多いのですが、独自の“しふら節”があまりに強烈で、アクの強いものばかりが取り沙汰されます。ま、当然ですね、強烈なものは強烈すぎますからね。

Georges Cziffra Improvisations & Unpublished Pieces

今回取り上げたのは極めてレアなシフラの演奏集です。シフラ本人と交流を持ち、シフラからピアノも習った香川正人さん(故人)という大ピアノヲタクが、ご遺族から音源の提供を受け、国際シフラ友の会日本支部の会員限定CDとして頒布していたもので、収録曲はこの稿の最後に載せました。注目はスタンダードナンバーによるJazz Improvisation9曲。録音は1978年で、「二人でお茶を」「煙が目に染みる」「ブルー・スカイ」「ダイナ」「聞かせてよ愛の言葉を」「ソフィスティケイテッド・レディー」など9曲を、完全に自分の手癖で弾き飛ばしまくっています。アート・テイタムのソロ演奏の3倍くらい音の多い、はっきりいって五月蠅いくらいのImprovisationです。ワイセンベルクが匿名で弾いたシャンソン集はきちんと編曲された多彩な作品ですが、シフラのは多分その場での即興演奏。どれも似た感じの展開なので続けて聴くと飽きます。が、恐ろしいほどの指と腕の回りです。万が一、ナイトクラブでこんなピアノ弾きがいたら、強烈で五月蠅くって酒呑んでいる気分ではなくなるでしょう。

シフラの即興演奏には彼の壮絶な人生が隠されています。シフラは1921年に極貧バンドマン一家に生まれ、5歳の時には家計を支えるため“神童の見世物”としてサーカスでピアノを弾いていました。客からお題を与えられるとその場で派手な即興演奏をしてみせていたのです。長じてからもパブなどでピアノを弾いて日銭を稼ぎます。ある日「真っ暗闇でピアノを弾け」という仕事を受け、行ってみると今風に言えば“暗闇ピンサロ”だったなんていうこともあったようです。こういう場数で鍛え上げた彼の即興演奏は生きるか死ぬかの半端ない境地。清く正しく音大で学んだ方々とは背負ったものが違いすぎるのです。若きシフラの演奏があまりに凄いため、評判となって音楽学校にも通えるようになりますが、その後、社会主義のハンガリーから国外逃亡し損ねて、3年間も投獄(当然ピアノは弾けない)されたりします。

このCDにはスタンダードナンバー以外にも、シフラの手癖炸裂の即興演奏がいくつか収められています。面白いのは「Arbre de Noël 」(シフラ作曲作品という表示だがかなり即興っぽい)。壮麗な教会の鐘の模倣が2分弱続いた後に、「きよしこの夜」が朗々と奏でられます。前半の鐘の模倣は聴いたものを何でもピアノ曲にしてしまうシフラの芸の一端を窺い知ることができます。惜しいことに冒頭部分の録音に欠損のあるシュトラウスの「芸術家の生涯」による即興は「こうもり」ワルツなども飛び出してかなり盛大なバカテク祭りとなります。ドヴォルザークによる即興はスラブ舞曲op.72 no.2 をベースにしており、随所にシフラ・オリジナルのグッとくる和声変更があります。「アヴィニョンの橋の上」の即興はとても短いですが、前奏部分にイカれた感じの妙なインパクトがあります。

そのほか即興でないのも弾いています。作者不明の小品(18世紀)って誰のでしょうかね。ピアノ書法的にはシフラの模倣作ではなく、本当に18世紀の作品のようです。結構アツい音楽で、楽譜が普及したら弾く人も増えるのではないでしょうか。ショパンのマズルカ2曲はシフラ節ゼロで実にしみじみと奏でられてます。猛烈に五月蠅いナンバーの後には良い中和剤ですし、マズルカ演奏としてもかなり優れているという気がします。実はシフラのショパンのマズルカ演奏は珍しく、これならもっと大量に弾いておいてほしかったと悔やまれます。

このCDは個人がシフラ家との伝手でひっそりと出していたものですので、中古市場にもまず現れないと思います。参考までに収録曲のデータを載せておきます。

Georges Cziffra  Improvisations & Unpublished Pieces

  1. Chopin  Mazurka op.6 no.1
  2. Chopin  Mazurka op.6 no.3
  3. Cziffra  Arbre de Noël
  4. Cziffra  Improvisation on “Les vieilles pierres de l’Abbaye”
  5. Anonymous  Piece (18th century)
  6. Chopin  Etude op,10 no.4
  7. Cziffra  Improvisation on J.Strauss “La vie d’artiste” (start missing)
  8. Cziffra  Improvisation on a Theme by Dvorak
  9. Cziffra  Improvisation on the French song “Sur le pont d’Avignon”
  10. Cziffra  Jazz Improvisation on “Tea for two”
  11. Cziffra  Jazz Improvisation on “Sophisticated lady” (version 1)
  12. Cziffra  Jazz Improvisation on “Smoke gets in your eyes”(version 1)
  13. Cziffra  Jazz Improvisation
  14. Cziffra  Jazz Improvisation on “Blue skies”
  15. Cziffra  Jazz Improvisation on “Sophisticated lady” (version 2)
  16. Cziffra  Jazz Improvisation on “Dinah”
  17. Cziffra  Jazz Improvisation on “Parlez d’amour “
  18. Cziffra  Jazz Improvisation on “Smoke gets in your eyes”(version 2)

補記:国際シフラ友の会 日本支部 ウェブサイト
 上記サイトは香川正人氏が運営していたが、氏の急逝により管理者不在に。
参考資料:シフラ自伝 「大砲と花」

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (9) 騎士さまの飽くことなきショパン攻め~おなまえ最強!ハイペリオン・ナイト 後編~

Chopin by Knight  Hyperion Knight(p)  CD Baby 2010年 (CD番号表示なし)
(参考)Music of Chopin 
 Hyperion Knight(p)  Wilson Audiophile Recordings 2014?年

Chopin by Knight
Hyperion Knight(p)

Hyperion Knightこと“天照騎士”さまは、「前編」で書いた気合の入った編曲集以降、ほとんど忘れられた存在となっていました。そんな中、アメリカのCD Babyという自主製作盤販売支援会社のレーベルからひっそりと「Chopin by Knight」というアルバムを出しました。曲目はショパンの名曲を17曲バラバラに集めたちょっと見には初心者狙いのしょーもない企画でした。

ところが、この内容がトンデモなかったのです。まさにショパンへの華麗なる侵攻。17曲中楽譜通りに弾いているのは2~3曲という自由果敢なアプローチに、私の変態心は随喜の涙を流したのでした。さらにCDの解説には各曲のセレクトや演奏に込めた天照騎士さまならではのこだわりが綴られていました。

演奏内容のご紹介に入る前に、一見バラバラな選曲の理由の一部を……

理由群その1:アメリカのポップスのヒットナンバーになったことのある曲だから
  ⇒ 幻想即興曲、前奏曲op.28-20、別れの曲

理由群その2:その曲のコルトーによる示唆に感動したから
  ⇒ バラード第1番、前奏曲op.28-4

前奏曲op.28-20がアメリカンポップスになっていたのは全く知らなかったです。確かにバリー・マニロウにそういう曲がありました。コルトーの方は、演奏聴いても「だからなんなのさ」ですがね。

さて、それでは選曲理由以上に色々とかましている演奏内容をご紹介しましょう。

ピアノ演奏史を踏まえたこだわりの内容

1曲目は英雄ポロネーズ。これは予想通り、左手のオクターブでズダダダ、ズダダダが続くところは中休みなしというブゾーニの作法です。ただそこで「始めるよ~ん」という感じのタメが入ります。CD解説には「ブゾーニ版の方がより英雄的な《騎兵突撃》感があってよいよね」と天照騎士さまは騎士らしくのたもうております。雨だれは平穏に過ぎますが、幻想即興曲で炸裂。ABA形式のAはフォンタナ版がベースですが時折自筆譜版(ルービンシュタイン版ともいわれるもの)の要素を取り入れます。で、びっくりはBの部分で、後半はほとんど天照騎士さまの独自世界となります。装飾音型の変更だけでなく、合いの手風の別旋律も添加されていて、決して悪くない“甘味料多め”の仕上がりです。練習曲op.25-1は低音下げ1発と妙なジャンプ感、革命はちょっと和音が厚い所があるかな程度。そして夜想曲2番になります。

ショパンの弟子のミクリはショパン本人が晩年に夜想曲2番を弾いたのを楽譜に記録しています。ショパンは多くの曲を二度と同じようには弾かなかったと伝えられていて、このミクリが記録した演奏譜も現行の譜面と大きく違っています(APRから出てたThe Original ChopinというCDで確認できます)。その例に倣い、天照騎士さまは、特に曲の中盤以降、思い切り変えています。一部の変更はミクリの記録したショパン晩年の変更を使いますが、天照騎士さま自作とCharles Beriganというピアニスト作の改変も加え、よりゴージャスな夜想曲第2番を創出しています。曲の終わり方も通常と違います。ミクリが記録したショパン晩年の演奏でも終わり方を変えているので、天照騎士さまのはそれとは少し違いますが「ここも変えてええんでっせ」という確信犯で弾いています。ここまでやれば、立派です。このアルバムはこの演奏1曲でも価値があると言えます。

続く小犬のワルツも原曲からは大きく逸脱します。冒頭で「ありゃ?」と思わせてから、しばらくは原曲通り。中間部を8小節過ぎたところからゴドフスキ編を数小節取り入れ、そのあとはモシュコフスキ編曲版ベース(天照騎士さまのお手加えあり)に進めます。後半は定番の重音地獄。単なるモシュコフスキ編ではなくヨーゼフ・ホフマン編もしくはイシドール・フィリップ編の要素も入っているようです。テンポは気持ち遅めですが、重音弾きに乱れはなく、見事です。

ワルツの7番はABCBAB形式の2・3回目のBで定番のラフマニノフ内声を紡ぎ、2回目のAではカツァリスとは違う内声旋律を響かせます。カツァリスの録音が1981年なので、これも「わかってやってますがな」ですね。軍隊ポロネーズ、前奏曲op.28-4、別れの曲、子守歌は低音が一部1オクターブ下に行ってます。軍隊は気持ちがわからんでもないですが、前奏曲はやり過ぎかなぁ……。練習曲op.10-4、前奏曲op.28-20は一部和音が中入り厚めになっています。夜想曲第1番の中間部にカットがありますが、これも「ルービンシュタインの作法に倣いました」との本人談で、全く違和感はありません。

期待は最後の方にあるバラ1に注がれるのですが、これが見事な楽譜通り。コルトー版の詩的な示唆に共感して弾いているらしいのですが、むしろ「譜面通りにちゃんと弾けるもんね」という天照騎士さまのどや顔が浮かびます。かなり異端のショパンアルバムではありますが、天照騎士さまのピアノ演奏史に対する広い見識とサービス精神にあふれた貴重なショパン攻め記録です。

騎士さまはいかにして或る種のCDを録音するに至ったか

さて実は天照騎士さまはもう1枚ショパンアルバム「Music of Chopin」を出しています。収録曲はソナタ3番、バラード4番、ポロネーズ5番。これが実に立派な演奏。彼にありがちな鈍重な感じもなく、上述のショパンアルバムにあるような楽譜の変更もない。きわめて正攻法な取り組みです。ただ、このアルバムは録音年月日がわかりません。Amazonの商品紹介には「オリジナル盤発売2014年」とあるのですが、解説で使われている写真は1990年のもの。「昔、正統的に弾いてたのに、独自特殊の世界に進んだ」のか「その気になったら正統的な演奏もできるんだぜ」なのか、どっちなのでしょう。私は解説に使っている写真が異様に若いことから1990年頃の録音ではないかと思うのですが……つまり「昔、正統的に弾いてたのに、新たな勝負を求めて独自特殊の世界に進んだ」ですね。

もちろん彼は今でも現役。YouTubeにはいくつか動画がありますが、ビートルズクイーンといったナンバーを弾いて喜ばれているようです。クラシック系ではびっくりするような巨大ピアノでバッハを弾いてます。動画後半で弾く小フーガはたぶん天照騎士さまの編曲ですね。最後が異様に分厚い面白いアレンジです。この調子で果敢なチャレンジを終生続けて行って欲しいものです。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (8) おなまえ最強!ハイペリオン・ナイト~前編

The Magnificent Steinway   Hyperion Knight(p)   golden string(金弦天碟) GSCD 031A 1996年
RHAPSODY  Hyperion Knight(p) with Ensemble members  Stereophile  STPH-010-2  1998年

Hyperion Knight、日本風に言えば“天照騎士” です。本名ですかねぇ、芸名ですかねぇ。安いRPGの勇者でもこんなネーミングはしないかな。私の知る限り古今東西のピアニスト中、最強のおなまえですね。(語感的にはマッコイ・タイナーとか強そうですが……)

The Magnificent Steinway Hyperion Knight(p) 

そんな最強の天照騎士さまは1996年に「The Magnificent Steinway」という編曲ものばかり集めたCDを出しました。アメリカの金弦天碟というマイナーレーベルから出たために全く知られませんでしたが、なかなかに気合の入った主張を展開しています。もっとも注目すべきは天照騎士さま本人が編曲したパッヘルベルのカノン。「この作品のblue-collar bloodline(肉体労働者的血統?)にひるむことなく、むしろダルベール、ブゾーニ、ケンプのバロック作品編曲の偉大な世界に遡った」と訳の分からん注釈付きの渾身の編曲です。楽譜も公開されているので拝読しながら聴いてみますと、前半はなんて事のない編曲なのですが、あの16分音符の有名フレーズが出る所(山下達郎でおなじみ)から、重音のメロディ進行を両手で交互に分担しながら、上下で広く和音を補強するという厄介な書法を入れ、そのあとはちょっとジョージ・ウィンストンを思わせるようなアレンジ部分が続き、やがて装飾的な音階進行が加えられて、ちょっとダサく盛り上がって終わります。ウーーーむ。どこがブゾーニやねん。どこがダルベールやねん。あの真ん中あたりの分厚いところか?「審判団はこの演奏に敢闘賞を与えるべきか協議の結果、見送ることにしました」って感じかな。パッヘルベルのカノンのピアノ編曲は個人的にはJerry Lanningのものが最も原曲に忠実かつピアニスティックで優れていると思いますが、その対極にある問題多編曲として天照騎士さまの編曲は楽しむことができます。

このアルバムにはカノンよりも注目すべきアレンジが実は2つあります。まずはチャイコフスキー=グレインジャーの花のワルツ。グレインジャーの編曲は良くできてはいるのですが、冷静に聴くとカデンツァ的な部分が長すぎますし、曲の終わり方もグレインジャー独自の作曲で、これが正直いま3。そこで天照騎士さまは曲の進行を極力チャイコフスキーの原曲通りにし、コーダ部分もチャイコフスキーの原曲通りに自分で創って弾いています。手元にあるグレインジャー編の楽譜(全16ページ)でざっくり言うと、p.2、11-12、16はほぼカットです。で、この方がはるかに良いです。コーダの独自編曲部分はもう少しやりようがあったかなと思いますが、やはり原曲の方が音楽の流れと盛り上がりが数十段良い。無名に終わっている改編ですが、今後、花のワルツを弾く人は天照騎士さまのを手本とすべきでしょう。

もうひとつは名目上はオスカー・レヴァント編曲になっている剣の舞。実態はシフラとレヴァントとおそらく天照騎士さまの混合編曲です。シフラの編曲は原曲から離れすぎ、レヴァントのはシフラのを聴くとおとなしすぎ、たぶんそう思った天照騎士さまが花のワルツ同様、原曲の流れを重視して創り上げたものでしょう(解説には何の言及もなし)。曲の構成をA/B/C/A/CodaとするとAはシフラ編。Bの1回目はレヴァント編、Bの繰り返しはかなり複雑な天照騎士さま編、AにつなぐCはレヴァント編、Codaはレヴァントと天照騎士さま編です。曲の流れはほぼ原曲通りで、聴いてる分には確かにこちらの方が良い。Aの部分で左手にミスが多いと一瞬思いますが、良く聴いていると意図的なものでミスでないことがわかります。演奏自体もこのアルバムの中で抜群によく、剣の舞のピアノ演奏ではシフラと双璧と私は思います。

他の楽曲についても補足すると、ムソルグスキー=ラフマニノフの熊蜂でもなぜか1ページ目だけに天照騎士さまはちょこちょこ手を入れています。この改編は悪くない。アール・ワイルド編のヴォカリーズは非常に良い演奏ですが、冒頭主題部分でなぜか低音を16分の1拍早く弾くという演出をしていて若干の違和感があります。

もちろん「普通」の録音もあるが……

さて、かように積極果敢なCDをリリースした天照騎士さまですが、ピアニストとしての力量は若干問題があります。このアルバムの少し前に「展覧会の絵+ヒナステラのソナタ」というアルバムを出しているのですが、「鈍くて太めの単色ペンでまじめに描きました」風のつまらない内容なのです。この「The Magnificent Steinway」も実は全体的にはそんな感じの演奏が多いです。ローゼンタールのシュトラウス幻想曲はなどは、こんな鈍重にしか弾けないなら止めときゃいいのにと思います。もちろん例外もあります。剣の舞とか岸辺のモリーとか、ね。私の邪推ですが、彼は自分の演奏の“ぬぐえないつまらなさ”に気付いていて、そこを払拭すべくこの手を入れまくった編曲集を出したのではないかと思います。

RHAPSODY
Hyperion Knight(p)

このアルバムに続いて、1998年に天照騎士さまはガーシュインアルバムを出します。そこでも、ラプソディーインブルーを独自編成(木琴鉄琴など打楽器多め)のアンサンブル版で弾いてます。これはこれで妙で面白い。さらに同じ編成でガーシュインの3つの前奏曲も弾きます。それ以外はピアノ独奏で演っているのですが、ワイルドの編曲などをかなり好きに弾いています。ただガーシュインでは割と軽快に弾いていますので、音楽のノリがどちらかというとそちら側にある人なのかもしれませんね。

で、今回執筆にあたり色々探しているうちに、天照騎士さまのトンデモナイCDに遭遇します。皆様の敬愛するあの方で好き放題した確信犯的自己主張盤 。その顛末はまた次回。

補記:「The Magnificent Steinway」はその後、発売元を変えながら何回かリリースされていて、Fimというレーベルから同名のタイトルで出ていますし、CD Babyから「Classical Knight」というタイトルでも曲の順番を変えて発売されています。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。