あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(5) 1950年代中期、後期の楽曲

(筆者:高橋智子)

 前回はフェルドマンの図形楽譜による楽曲と同時期に作曲された五線譜による楽曲のいくつかをとりあげた。まばらなテクスチュア、特定の音程の繰り返し、2オクターヴ以上に及ぶ極端な跳躍などを主な特徴としてあげてみたが、彼のこの時期の五線譜の楽曲は謎めいていて、なんとも言い難い。今回は1950年代半ばから後半にかけての作品と、彼の周りに起こった出来事をたどる。

1. ニューヨーク・スクールの離散

 1950年にフェルドマンがケージと同じロウアー・イーストサイドのボザ・マンションに移り住んだことをきっかけに発展した、音楽におけるニューク・スクールのコミュニティは1954年に実にあっさりと終焉を迎える。この年、ボザ・マンションの建物が取り壊されることとなり、フェルドマン、ケージ、カニングハムら、ここの住人たちは引越しを余儀なくされた。フェルドマンとブラウンは引き続きマンハッタンにとどまる一方、ケージはチュードアらとともにマンハッタンから1時間15分ほど離れたロックランド郡ストーニー・ポイントに移り住んだ。ケージらの新たな住まいであるストーニー・ポイントの家はブラック・マウンテン・カレッジ[1]時代からのケージの友人で児童文学作家のヴェラ・ウィリアムズと建築家のポール・ウィリアムズ夫妻が作った芸術家コミューン、ザ・ランド The Landと呼ばれていた[2]。1970年にマンハッタンに戻るまでケージたちはここに住み続けた。フェルドマンはストーニー・ポイントの家にケージを訪ねたことがあるが、視力の悪い彼にとってケージの家に続く急斜面はとても危なかった。このような理由から、フェルドマンがここを訪れたのはたった一度だけだった。[3]このグループの中で一番若い、当時まだ10代だったウォルフはハーヴァード大学で古典文学を学ぶため、やはり彼もマンハッタンを去らなければならなかった。ハーヴァードに進学したウォルフがニューヨークを訪れることができたのは長期休暇に限られていたことから、彼と他のニューヨーク・スクールのメンバーとの直接的な交流も当然ながら以前ほど頻繁にできなくなった。作曲に数学的な思考と方法を用いることに否定的だったフェルドマンと、数学を修めた後にシリンガー・システム[4]による作曲を学んだブラウンとの間に音楽をめぐる諍いがあったものの、ニューヨーク・スクールの離散はバンドの解散理由でよく用いられる「音楽性の違い」ではなく、上記のようなそれぞれの生活や進路の事情で互いに密接に付き合っていた時期の終わりを迎えたのだった。

 後にフェルドマンとブラウンは和解し、1966年にユニヴァーサル・エディションが発行したブラウンの作品カタログにフェルドマンは「アール・ブラウンEarle Brown」と題した文章を寄せている。その中でフェルドマンは自身とブラウンとの音楽家、作曲家としての違いをこのように記している。「私自身とケージによる前衛コミュニティに対する影響は主として哲学的だが、ブラウンによる影響はさらに具体的で実践的だ。 While the influence of Cage and myself on the avant-garde community has been largely philosophical, Brown’s has been more tangible and practical.」[5]1950年代、ブラウンはフェルドマンと同じく新たな記譜法を模索していた。「時間記譜法 time-notation」はブラウンが考案した記譜法とその概念の1つである。時間記譜法では音高、音域、ダイナミクスや演奏法が指定されている。音価に関してはたいていの場合、楽譜上の空間的な長さと配置から読み取って演奏する。このようにして、ブラウンは事前に規定された枠組みの中での柔軟性や曖昧さを実現しようとした。音域と演奏される音の数とタイミングをマス目に記して演奏者を困惑させたフェルドマンの初期の図形楽譜よりも、ブラウンの時間記譜法は、先のフェルドマンの文章の引用にあるように具体的で実践的だといえる。「Music for Cello and Piano」(1955)はブラウンの時間記譜法による最初期の楽曲の1つで、拍子記号は書かれていないが、音価は五線譜に引かれた線の長さから読み取ることができる。チェロとピアノのパートがどのように重なるのかは通常の五線譜と同様に視覚的に把握できる。ブラウンは1967年にアテネで行われた現代音楽祭でフェルドマンの「De Kooning」(1963)を指揮していることからも、ニューヨーク・スクール時代の不和とグループの離散を経てもこの2人の付き合いが続いていたようだ。

Earle Brown/ Music for Cello and Piano (1955)

The Earle Brown Music Foundation
http://www.earle-brown.org/works/view/19

2. やはりなんとも言い難い1950年代中期の楽曲 Three Pieces for Piano(1954)

 ボザ・マンションが取り壊された1954年はフェルドマンの音楽にも変化が見られた年だ。1954年から1957年までの4年間、フェルドマンは即興と混同されがちな図形楽譜での試行錯誤を一旦休止して五線譜による楽曲に専念した。前回とりあげた五線譜によるなんとも言い難いいくつかの楽曲から、半音階的な音高操作、特定の音程(2度と7度、完全5度と4度、完全8度[オクターヴ])の頻出と反復、極端に広い幅での跳躍、散発的なテクスチュアといった1950年代前半の彼の音楽のいくつかの傾向を見出すことができた。基本的に1954年代以降の五線譜による楽曲もこれらの特性を引き継いでいるが、さらなる新たな視点が彼の音楽の理解に必要となってくる。それは音楽的な時間である。あるいはもっと正確にいうならば、その楽曲が内包する時間の特性と、それを演奏者や聴き手として経験する際の特殊な感覚ともいえるだろう。

 フェルドマンの音楽が内包する時間と、この音楽をとおして私たちが経験する時間は従来の音楽的な時間や日常生活の時間とどのような点で異なっているのだろうか。フェルドマンの音楽における時間の特性を探る前に、まずは音楽的な時間についてしばしば用いられる基本的な考え方を参照する。なぜなら、フェルドマンの音楽の時間が今までの音楽における音楽的な時間とどう違い、どの点が特殊で風変わりかを知るには彼の音楽以前の「従来の」または「慣習的な」音楽的な時間の考え方について知る必要があるからだ。やや大局的な話ではあるが、20世紀以降の音楽における時間の特性の解明を試みたKramerは近代西洋社会に根ざす進歩的で合目的な価値観に支えられた線的な時間について次のように述べている。

西洋的な思想は何世紀にも渡って著しく線的だ。原因と結果、進歩、目的志向といた概念が少なくともルネサンス期の人文主義の時代から第一世界大戦までの人間生活のあらゆる側面に浸透してきた。技術、神学、哲学は人間生活を向上させるために追求されてきた。資本主義は少なくとも選ばれし者にとって物質的な向上の枠組みをもたらすために追求されてきた。科学はニュートンとダーウィンによる時間の経過に沿った線的な理論に支配されている。私たちの言語でさえゴールと目的に言及する言葉が幅をきかせている。

Western thought has for several centuries been distinctly linear. Ideas of cause and effect, progress, and goal orientation have pervaded every aspect of human life in the West at least from the Age of Humanism to the First World War. Technologies, theologies, and philosophies have sought to improve human life; capitalism has sought to provide a frame- work for material betterment, at least for the few; science has been dominated by the temporally linear theories of Newton and Darwin; even our languages are pervaded by words that refer to goals and purposes. [6]

 ここで述べられている線的な要素や価値観を音楽に見出そうとするならば、それは西洋芸術音楽の礎ともいえる調性であり、「調性の黄金時代は西洋文化の線的思考の高まりと同期している。Tonality’s golden age coincides with the height of linear thinking in Western culture.」[7]厳密にいうと、調性によってもたらされる動きの感覚はメタファーにすぎず、音楽において実際に動くものとは楽器から発せられる振動と私たちの鼓膜に届く空気の分子である[8]。だが、西洋芸術音楽にある程度親しんでいれば、調性音楽の聴き方を知らず知らずに身につけており、音楽によってもたらされる感覚を前進する動きのメタファーとして認識している。

調性音楽の聴き方を身につけている人々は恒常的な動きを知覚する。それは旋律の中での音の動き、カデンツに向かう和声の動き、リズムと拍子の動き、音量と音色の進行だ。調性音楽は恒常的な緊張状態の変化を扱うので決して静止しない。

People who have learn how to listen to tonal music sense constant motion: motion of tones in a melody, motion of harmonies toward cadences, rhythmic and meter motion, and dynamic and timbral progression. Tonal music is never static because it deals with constant changes of tension.[9]

 旋律の動き、様々なリズム、音色や音量の変化も全てが時間の経過とともに起きる。実際には振動数の差異に過ぎない現象であっても、私たちはこれらの旋律やリズムによる出来事が音楽の中に起きて変化しながら進み、最終的にどこかに落ち着くまでの一連のプロセスを期待している(調性音楽の場合、落ち着きや終わりの感覚はカデンツが担っている)。例えばソナタ形式における展開部や遠隔調への転調など、形式的に予定調和を裏切る出来事が曲の途中に予め仕込まれていることが多いが、それでもほぼ期待を裏切ることなく進み、最終的に落ち着くところに落ち着いて聴き手を安心させてくれる。調性音楽の線的な時間はこのような性格の音楽的な時間と運動の感覚を意味する。だが、無調の音楽とともに線的な時間の感覚が希薄になっていき、どこに行くのかわからない旋律、解決しない和音、規則性を見出すのが難しいリズムによる音楽が20世紀前半頃から現れてくる。これに伴って、線のメタファーで音楽的な時間を語ることが困難になり、円環や点や面のメタファーが音楽的な時間について考える際に用いられるようになる。

 調性音楽の「線的な時間」に対して、Kramerは20世紀の無調以降の音楽における時間の性質をいくつかに分類している。カデンツによる明確な終止感を持たない音楽は「無方向の線的性質 nondirected linearity」[10]による音楽的な時間だ。「複合的な時間 multiple time」[11]は、1つの曲の中にいくつかのプロセスが存在し、それらは目的地を目指すが、その目的地は曲の様々な場所にあるため単一ではない複合的な時間を感じることができる時間を指す。カールハインツ・シュトックハウゼンのモメント形式 Moment formに倣い、独立した断片が起承転結とは違った感覚で始まって止む、あるいは単に起きて休止する時間をKramerは「モメント時間 moment time」[12]とした。進行感覚、志向性、運動それ自体と、いくつかの運動がもたらす対照性の感覚が欠けていて、時間の継続的な推移を遮断する音楽の時間は「垂直的な時間 vertical time」[13]と呼ぶことができる。この垂直的な時間はフェルドマンの音楽にも大いに関係のある概念で、今回とりあげる楽曲のいくつかにも当てはまる。音楽と時間に関する議論では、前進する感覚があまりにも希薄で、茫洋と広がるドローンのような音楽には無時間性という言葉もしばしば使われる。密度の極めて低いテクスチュアや無音の部分が多くを占め、とりたてて何も起こらないのに時間だけは長い音楽や、静謐さを主とする音楽には退屈[14]の概念さえも用いられる。音楽的な時間についての議論は恣意的、主観的、経験的な視点がどうしても入り込んでしまう領域であるが、フェルドマンの音楽のように、何かがおかしいけれどそれが何に起因するのかわからない時や楽譜から読み取れる情報に限界がある場合に参照すると有用な視点であり、音楽を現象として捉える際の一助にもなる考え方だ。

 フェルドマンの音楽に話を戻そう。前回と同じく、ここでとりあげる曲もやはりなんとも言い難い。前回はフェルドマン自身の言説にも度々出てくる「音そのもの」に着目して半音階的な音の操作を探った。ここではまずフェルドマンが散発的なテクスチュアの作風をさらに追求する発端となった「Three Pieces for Piano」(1954)を見ていく。

 「Three Pieces for Piano」の第1曲には1954年3月12日、第2曲には1954年2月、第3曲には1954年10月[15]の日付が記されている。作曲から5年後の1959年3月2日にチュードアのピアノでニューヨーク市のサークル・イン・ザ・スクエア・シアターにて初演された。楽譜はペータース社から1962年に出版された。全3曲とも、この時期のフェルドマンの楽曲に特徴的な演奏指示「ゆっくりと――ほんの少しのペダルかペダルを使わずとても控えめに Slow—very soft with little or no pedal」に即して演奏される。拍子記号は記されていないが、3曲とも1小節あたり16分音符3つ分の音価で揃えられているので3/16拍子と見なすことができる。しかし、後述するように、ここでの3/16拍子の拍子記号と、楽譜に規則正しく引かれた小節線は見方を変えると本来の機能を果たしているとはいえない。

 第1曲は単音を中心としていて、曲中で最も音数の多い19小節目は左手3音、右手3音の計6音からなる和音だが、16分音符1つ分の音価で控えめに打鍵されるため、その密度の高さをそれほど実感できない。右手の最高音が単音で同じ音を反復する箇所が見られるものの(25小節目のG#6と27小節目のG#7、26小節目と28小節目のB4)、それぞれの音は非常に断片的で、フレーズどころか流れや継続性を見出すことが難しい。49-50小節目と53-54小節目に右手がオクターヴでA4とA5を、左手がG3とC4を4音同時に鳴らして曲が終わる。前回、このような曲を表す場合には出来事という言葉が便利だと述べたが、この曲の場合も各々の断片がそれ自体で自己完結した出来事のようにも見える。

 この曲を最もよくわからなくしているのが随所に挿入される全休符の小節、つまり演奏される音が記されていない小節である。この全休符の小節によって、音楽が時間の流れとともに動き、変化を遂げながら発展し、途中で盛り上がりを見せて最後はどこかに落ち着いて終わるという感覚が粉砕されている。この曲は楽譜からは3/16拍子と読み取ることができるが、規則的なリズムの変化はなく、楽譜を見ないで聴いているといつ音が鳴るのか、鳴らないのか、全く予想がつかないので盛り上がるどころか聴き手はむしろ緊張感と不安に襲われる。この曲が内包する音楽的な時間はKramerのいう直線的な時間とは対照的な性質だろう。いつ打鍵されるのかわからない音はそれ自体で完結している刹那的なモメント時間の性質を帯びていると同時に、時間の継続的な推移の感覚を遮断する点で垂直的な時間でもあるといえる。下記に第1曲から3曲までの全休符の挿入を図にまとめた。色のある部分は何かしら音符(装飾音と、音を出さずに打鍵して共鳴させる音も含む)が記されている小節、白い部分は全休符の小節である。出版譜のレイアウトに倣い1段あたりの小節数を6小節とした。

Three Pieces for Piano 音のある小節と全休符の小節

Three Pieces for Piano Ⅰ

123456
789101112
131415161718
192021222324
252627282930
313233343536
373839404142
434445464748
495051525354

Three Pieces for Piano Ⅱ

123456
789101112
131415161718
192021222324
252627282930
313233343536
373839404142
434445464748

Three Pieces for Piano Ⅲ

123456
789101112
131415161718
192021222324
252627282930
313233343536
373839404142
43

 第1曲、第2曲に比べて第3曲は息の長いフレーズが展開されるように見えるが、第3曲も他の2曲同様に断片的な部分が次々と現れるため、実際に聴いていると継続や運動の感覚は希薄である。テンポが遅いので聴き手も演奏者と同じく3/16拍子での32分音符や64音符を正確にカウントできないわけではないものの、自然に音楽の流れに身を任せることのできる3拍子の感覚をこの曲の中でつかむのは簡単ではない。先にも述べたように、この曲では拍子の感覚や小節線がほとんど無効化されているともいえる。規則正しく割り付けられた小節の中に書かれた音符は、全休符に阻まれながらも拍節の感覚を飛び越えようと五線譜の中で試行錯誤しているようだ。

Feldman/ Three Pieces for Piano Ⅰ (1954)
Feldman/ Three Pieces for Piano Ⅱ (1954)
Feldman/ Three Pieces for Piano Ⅲ (1954)

3. 交わらない4つの時間 Piece for 4 Pianos (1957)

 休符に遮られる「Three Pieces for Piano」とは異なり、「Piece for 4 Pianos」は曲の最初から最後まで音が響きわたる。1957年に作曲されたこの曲は同年4月30日にニューヨーク市のカール・フィッシャー・コンサートホールで初演された。この時の4人のピアニストはケージ、ウィリアム・マッセロス、グレーテ・スルタン、チュードア。1962年にペータース社から出版された楽譜には以下のような演奏指示が書いてある。

最初の音は全てのピアノが同時に鳴らす。それぞれの音の持続は演奏者の選択に任せられている。全ての拍はゆっくりだが、必ずしも等しくはない。ダイナミクスは最小限のアタックとともに控えめに。装飾音を速く演奏しすぎてはならない。音と音の間に記された数[16]は休符と同じ意味を持つ。

The first sound with all pianos simultaneously. Durations for each sound are chosen by the performer. All beats are slow and not necessarily equal. Dynamics are low with a minimum of attack. Grace notes should not be played too quickly. Numbers between sounds are equal to silent beats.[17]

Feldman/ Piece for 4 Pianos (1957)
この録音ではフェルドマン自身がピアニストの1人として演奏している。

 フェルドマン自身が清書したと思われる「Piece for 4 Pianos」の出版譜は大譜表5段からなる。上記のとおりテンポは「ゆっくり」以外は明示されていない。拍子記号、小節線も記されていない。ピアノ1、ピアノ2といったパート配分はなく、4人の演奏者全員が同じ楽譜を見て演奏する。装飾音が付された音符と符桁(ふこう:音符と音符をつなぐ桁の部分)でつなげられた音符以外は符尾が記されておらず、音価の不確定な楽譜である。符桁でつなげられた数音のまとまりも1つの音あるいは和音と見なして曲中に現れる音の出来事を数えると全部で62となる。途中で何度か挿入されるフェルマータが曲のいくつかの部分に区切る役割を持っている。このフェルマータは音符だけでなく、何も書かれていない箇所(通常の五線譜では全休符の小節に値する)にも記されており、フェルマータ fermataの本来の意味である「停止」や「休止」に近い用いられ方である(現在、楽典の教科書等ではフェルマータは「その音を十分に長くのばす」と記されていることが多い)。フェルマータをもとにしてこの曲を区切ると5つの部分に分割することができるが、4人の奏者がそれぞれのペースで演奏を進めるため、全休符に値する箇所でのフェルマータであっても完全な無音の状態にはならない。

 曲の中で用いられている音の音高に注目してみると、音の垂直の重なり、つまり和音を形成する音の音程は2度と7度、完全4度と完全5度、増減4度と5度、完全8度(オクターヴ)が頻出する。これらは和音の外声部(その和音を縁取る最高音と最低音)として、あるいは14-18までのDのようにユニゾンで配置されていて、この曲の中でも比較的聴き取りやすい特徴的な音程でもある。ただし、曲が進むにつれて前後の音が混ざり合うため、楽譜を見ながら聴いていてもどの部分が演奏されているのかを特定するのはあまり簡単ではない。

Piece for 4 Pianos 音の一覧

 表の1段目は各音(断片、出来事と呼んでもあるいはよいだろう)の通し番号。2段目は右手、3段目は左手に記された音高。ピアノの鍵盤の真ん中にあたるCをC4とし、音名とともに記された数字は音域を表す。

セクション1

12345678910
G4, A5E4, B4G4, A5E4, B4G4, A5E4, B4G4, A♭5G4, A♭5G4, A♭5G4, A♭5
B♭2B2, F#3, G3B♭2B2, F#3, G3B♭2B2, F#3, G3C4C4C4C4
111213 fermata
C5, C6D5, E♭6 
B0D#3, E3F#2  

セクション2

141516171819202122 fermata23
D5, D6D5, D6D5, D6D5, D6D5, D6 A5B♭3  B♭3C6
D4D4D4D4D4C3F#2   
fermata ×3

セクション3

242526 fermata2728fermata ×4
E6, C7F4, A♭4, E5 C6C5
D#3, A#3A3F#1 E♭2

セクション4

2930313233343536
D#5, D#6F4, G7A5A5A5E♭4, F#5, C#7G#3, E♭6, G5, B3E4, G5
E1, B1 A3A3A3F1, F4, E♭1B♭1F3
3738394041424344
C#6E5, E♭6A#4, C#6E♭5, G5, B5, E7F4, D#5G#5 B♭6, G#4
G#4, A4G#3, A3G#2, B3F#3, C#4, D4A#2, C#3, E3G#3E♭2A3

セクション5

4546474849505152
C5, B3E♭5C5, B3E♭5C5, B3E♭5C5, B3E♭5
D♭2, D♭2, D♭2, D♭2, 
5354fermata ×355fermata ×2
C5, B3E♭5A5
D♭2,  
56575859fermatafermata6061 fermata
A3A4B3, C4, D4F7E5, E6E4, G4, B♭4, F#5
E♭3D♭3G♭2, F3B3F#2, B♭2, D♭3, A3A♭2, C#3, E♭3, G3
62 fermata
 
E2

 前回とりあげた「Piece for Piano 1952」同様、この曲も個々の音の響きの特性を活かす曲である。余計な手を加えずにその音が持つ響きの特性を最大限に発揮させようとする手法はフェルドマンの「音そのもの」を追求する態度を反映している。特に音価の定まっていない自由な持続の楽曲の場合、フェルドマンは個々の音を旋律のようなまとまりを形成する際の部分として見なさず、音の響き自体が楽曲を生成する方法を試みている。フェルドマンはこの考え方と手法を実際に自分の教え子にも説いていたようだ。作曲家のトム・ジョンソンは60年代後半に作曲のレッスンのためフェルドマンのもとに通っていた当時の出来事について書いている。ある時、フェルドマンは彼に「トム、提案がある。しばらく曲を書くな。和声をじっと聴き、それについてただ考えるのだ。そして、和音をいくつか集めて持ってくるのだ。”Tom, I have a suggestion. Don’t write any music for a while. Just listen to harmonies and think about them, and bring me a little collection of chords.”」[18]この課題を出されてからジョンソンは毎日のように試行錯誤を重ねるが、彼が見つけた和音はフェルドマンやストラヴィンスキーや他の作曲家の音楽のように聴こえるものばかりだった。[19]それから2、3週間後にジョンソンは7つの和音を書いてフェルドマンのもとに持って行った。この時書いた7つの和音をもとに、1969年にジョンソンはピアノ曲「Spaces」を作曲している。

それらの和音は全部似たような響きだったが、私は全部気に入っていたし、これを上回る解決策はもう見つからなかった。いささか慄きながらも和音をフェルドマンに見せた。彼はこれらの和音を様々な組み合わせで10回以上弾き、しっかりと聴いていた。それは彼のいつものやり方で、私にも求められているやり方でもあった。最後に彼は視線を上げてこう言った。「悪くないね。これは本当にあなたの音楽だ。あなたはこの小さな練習から多くを学んだのです。」フェルドマンは決して生徒を落胆させなかったが、ほめることもめったになかったので、ここでの彼の肯定的な反応は私にとってはとても意義深かった。

They all sounded similar, but I liked them all, and I couldn’t find any better solution. With some trepidation, I showed my chords to Feldman, who played them over about 10 times in different combinations, really listening, the way he always did, and the way he wanted me to. Finally he looked up and said, “You know, that’s not bad. This is really your music. I think you learned a lot from this little exercise.” Feldman was never discouraging, but he did not pass along compliments very often either, and his positive reaction here was very meaningful to me.[20]

Tom Jonson/ Spaces (1969)

 ジョンソンとのレッスンの中でフェルドマンが様々な配置で和音を10回以上弾きながら吟味する光景は、おそらく「Piece for 4 Pianos」のような音の響きに根ざした曲を作曲する際にも見られたはずだ。フェルドマンの楽曲全体にいえることだが、実際に楽譜を詳細に分析していくと特定の音や音程の強調や、音域やパート間の均衡を取るといった操作が行われていることはこれまでこの連載でも何度か指摘してきた。しかし、上記のエピソードから、フェルドマンの作曲にはやはり直感と身体的な感覚も多くを占めているのだと考えられる。作曲の際にピアノを用いていたフェルドマンにとって、ピアノから発せられる音を聴く聴覚と同じくらい、打鍵する時のタッチも音楽の命運を握るほど大事な要素だったのだろう。楽譜上で音価を明確に規定しないでおけば音のアタックと減衰を成り行きに任せることもできる。「Piece for 4 Pianos」はひとたび放たれた音の成り行きを無理に制御しない、邪魔しない音楽だともいえる。しかも4人の奏者がそれぞれのペースで演奏するため、そこには4つの交わらない時間が並存している。この独特の時間を創出するには、どのように演奏すればよいのだろうか。フェルドマンは次のように答えている。

聴かなければうまくいく。多くの人が耳を傾けがちで、そうすればより効果的な時間に入っていけると思っているのだと私は気付いた。だが、この曲の精神は単に効果的な何かを創出することではない。その音を聴き、それを自分自身の参照点の中でできるだけ自然に、美しく演奏するだけでよい。もしも他の演奏者の音を聴いているならば、この曲のリズムも凡庸になってしまう。

It works better if you don’t listen. I noticed that a lot of people would listen and feel that they could come in at a more effective time. But the spirit of the piece is not to make it just something effective. You’re just to listen to the sounds and play it as naturally and as beautifully as you can within your own references. If you’re listening to the other performers then the piece tends also to become rhythmically conventional.[21]

 もしもお互いを聴きながら演奏すると通常のアンサンブルの楽曲のようになんらかの周期性を持った慣習的なリズムが生まれてしまう。それを避けるために、フェルドマンは4人の演奏者に各自のペースで演奏させた。

 フェルドマンがピアニストとして参加している録音(上記のYouTube音源参照)での演奏時間が7分25秒であることから、テンポも音価も具体的に指定されていないこの曲のおおよその演奏方法が推測できる。出だしの和音は4人全員が揃って弾き、それ以降はそれぞれのペースで次の音に移るため、楽譜にその音が1度しか記されていなくても時間差でその音が4回鳴らされる。例えば、14-18の音の部分ではD4(装飾音)、D5(装飾音)、D6からなるユニゾンとしてDが5回書かれているので、これを4人の奏者がそれぞれ演奏すると全部で20回Dの音が聴こえてくることになる。録音では56秒前後からこの部分が始まる。時間がある人はDがどのように鳴らされているのかDを20回数えながら聴いてみてほしい。さらに余裕があれば、途中から前後の音がどのように混ざっているのかにも注意して聴いてみてほしい。56秒前後からの約40秒間はこの曲の中でも最も不思議な時間を感じられる部分のはずだ。ここでは同じ音が矢継ぎ早に不規則な間隔で鳴らされるため、時間が戻っているのか進んでいるのか、あるいは止まっているのかわからない。この曲でフェルドマンがテープ音楽の方法を参照していた可能性は極めて低いが(1954年にケージ、ブラウンとともにフェルドマン唯一のテープ作品「Intersection for Magnetic Tape」を作った時も乗り気ではなかった[22])、ここで聴こえる音響的な効果はテープを狭い範囲で何度も巻き戻して再生させたものと似ている。時間差で同じ楽譜を演奏するという極めて単純な方法であるものの、「Piece for 4 Pianos」は直線的な時間とは明らかに異なる時間を創出している。Kramerによる分類に倣うならば、この曲には音が打鍵されるたびに時間がリセットされるモメント時間と、運動や志向性の希薄な垂直時間の性質を帯びていて直線的な時間とは明らかに異なっている。4人の奏者がそれぞれのペースで演奏する点で、この曲では複数の独立した時間が展開されるといってもよい。

 複数の演奏者が同じスコアを見て演奏するが、曲を進めるペースが各演奏者に委ねられている曲としてフェルドマンの「Piece for 4 Pianos」よりもはるかによく知られているのがテリー・ライリーの「In C」である。この曲は「Piece for 4 Pianos」の7年後、1964年に作曲、初演された。「In C」は53からなる各モジュールの反復回数が基本的に奏者の任意とされているので複数のモジュールが混ざり合う。「(互いの音を)聴かない方がうまくいく」フェルドマンの場合と異なり、アンサンブルによって得られる音楽的な効果を重視したこの曲では、少なくとも1回か2回はユニゾンの状態を作り出すことが望ましいとされ[23]、他の演奏家を完全に無視して自分の演奏だけに集中することは認められていない。[24]どちらの曲も演奏者がそれぞれのペースで同じ楽譜を演奏する点で共通しているが、フェルドマンの「Piece for 4 Pianos」では4人の演奏者による息のあった共同作業はまったく求められておらず、彼らはむしろ孤独を追求しなければならない。

Terry Riley/ In C(1964)

色々な編成による録音があるが、1968年のコロンビアからリリースされたレコードがこの曲の初録音。ライリーはサックスで参加している。

In Cスコア https://nmbx.newmusicusa.org/terry-rileys-in-c/

 フェルドマンの音楽における時間の感覚と概念は「Piece for 4 Pianos」以降も変化すると同時に、彼の創作に付いて回る重要な事柄である。1960年から始まる符尾のない音符のみによって構成された「Durations」シリーズや「Vertical Thoughts」シリーズといった持続の自由な楽譜による楽曲は、線的な時間の感覚から完全に隔絶された独特の時間の感覚を持っている。1970年代後半から始まる長大な作品もフェルドマンの音楽における独特の時間の感覚に基づいている。時間とともに移ろい、展開する音楽は時間芸術の1つとされているが、フェルドマンの音楽における時間は展開も発展もないことが多いので、従来の考え方を疑うところから始めなくてはならない。今回はそのほんの始まりの部分に触れたに過ぎず、時間の問題はこの連載でこれからも言及する。

4 久しぶりの図形楽譜「Ixion」(1958)

 1953年からの数年間、五線譜の作品に専念していたフェルドマンだが(とはいえ上述の「Piece for 4 Pianos」のように風変わりな五線譜も書いていた)、1958年の「Ixion」をきっかけにして図形楽譜を再開させる。その主な理由をClineは次のように論じている。1つは彼の周りの作曲家たちが不確定性の音楽と図形楽譜に関心を持つようになったことだ。[25]既にケージは「Water Music」(1952)、「Music for Piano 1」(1952)、「Music for Piano 2」(1953)など不確定性や図形楽譜による曲を書いていたが、1957年の「Winter Music」(1957)と「Concert for Piano and Orchestra」(1957-58)でより革新的な方向へと発展する。[26]フェルドマンの創作における精神的支柱の1人でもあったエドガー・ヴァレーズは1957年頃に突然ジャズに目覚めてオクテットによるセッションのための図形楽譜を書いてミュージシャンに配り、ブラウンの主催でそれを実際に演奏するワークショップを行った。[27]アメリカ以外での不確定性や図形楽譜への関心の高まりは、1954年と1956年にチュードアがヨーロッパ・ツアーに出てニューヨーク・スクールのメンバーの作品を演奏したことに起因する。フェルドマンは1950年12月に既に図形楽譜のアイディアをスケッチし、1953年には演奏上の様々な問題を解決できなまま図形楽譜をやめてしまっていたが、その間の世の中の趨勢は彼とは逆の方向に流れていたのだった。

John Cage/ Concert for Piano and Orchestra (1957-58)
Edgard Varèse/ Jazz Workshop (1957)

 もう1つの理由はマース・カニングハムからの音楽の依頼だった。1958年、カニングハムは新しいダンス作品「Summerspace」の音楽をフェルドマンに依頼する。この新作ダンスの舞台美術と衣装はロバート・ラウシェンバーグが手がけた。

Summerspace概要
https://dancecapsules.mercecunningham.org/overview.cfm?capid=46033

Summerspace 2001年に行われた上演の様子 ここでの音楽は2台ピアノ版。
https://dancecapsules.mercecunningham.org/player.cfm?capid=46033&assetid=5702&storeitemid=8832&assetnamenoop=Summerspace+%282008+Atlas+film%29+

Feldman/ Ixion (Ensemble version) (1958)

 マース・カニングハム・ダンスカンパニーのメンバーで、当時ブラウンと結婚していたキャロライン・ブラウンは「Summerspace」初演時の苦労を次のように語っている。「(「Summerspace」は)当時の自分にとって極めて難しい演目だった。—ほとんどがターン、ターンの連続で、私の大嫌いなものばかり!彼(カニングハム)はゆっくりとしたターン、すばやいターン、ジャンプしながらのターン、崩れ落ちるターン、ターンの複雑な組み合わせを私に振り付けした。… for me at that time, extremely difficult material—mostly turns, turns, my bete noire! He gave me slow turns, fast turns, jumping turns, turns ending in falls, and complex combinations of turns.」[28]彼女の回想からわかるように、このダンスではターンの動きが重要視されていた。だが、舞台美術と音楽はダンスの動きに呼応していなかった。

 ラウシェンバーグの舞台美術と衣装は「点描的 pointilistic」なイメージで着想された。6人のダンサーはラウシェンバーグが製作した大きなキャンヴァスによる舞台美術と同じ点描的な柄の衣装を着て踊る。舞台美術とダンサーたちの衣装を同じ柄にすることで、彼らの舞台上の存在がカムフラージュされる効果を生む。「点描的」というイメージを伝えられていたフェルドマンは五線譜ではなくて図形楽譜での作曲を選んだ。これを機にフェルドマンは約5年ぶりに図形楽譜での作曲にとりかかる。

 「Ixion」には2つの版があり、1958年8月17日にコネティカット州ニュー・ロンドンでのアメリカン・ダンス・フェルティヴァルで「Summerspace」が初演された際は13から19の奏者によるアンサンブル版が演奏された。アンサンブル版の編成はフルート3、クラリネット、ホルン、トランペット、トロンボーン、ピアノ、チェロ3から7、コントラバス2から4。1960年の再演時には2台ピアノ版がケージとチュードアによって演奏されている。現在、このダンスが上演される際は2台ピアノ版が使用されることが多いようだ。テンポは1つのマス目あたり、当初およそ♩=92が指定されていたが[29]、カニングハムのダンスが15分から20分程度の時間を要するため、実際の演奏の際にはこれより遅いテンポで演奏するか、ある特定の箇所を繰り返すこともあった。

 この曲の楽譜には「Projection」(1950-51)シリーズ、「Intersection」シリーズ(1951-53)などの初期の図形楽譜と同じく、グラフ用紙のマス目に演奏される音の数が書かれている。初期の図形楽譜の楽曲の大半において高・中・低の音域の分布と各パートの分布の均衡が保たれた全面的なアプローチがなされていたが、「Ixion」では中間の短い部分と終結部を除いて全てのパートが高音域のみで演奏するよう指定されている。だが、初期の図形楽譜同様、具体的な音高の決定は奏者に委ねられている。音域を高音域に限定することで演奏者の選択肢が狭まる。こうすることで、理屈上、作曲家が理想とする音響を実現する可能性が高まる。このような演奏者に対する選択肢の限定はフェルドマンの初期の図形楽譜に見られた即興音楽との誤解や、演奏に演奏家の手癖やパターンが反映されることを回避するために取られた策ともいえる。音域を高音域に限定することの利点として、全てのパートが比較的スムーズに1つのテクスチュアを作ることが挙げられる。楽器による音色の違いはあるものの、様々な音色と音域が一緒くたになった初期の図形楽譜の楽曲よりも、音の響きに統一感がもたらされる。

 「Ixion」ではラウシェンバーグの点描的な舞台セットと衣装と同じく、音楽でも点描的な効果を狙っている。「Projection」シリーズもどちらかというと点描的な音楽だが、それぞれの音がはっきりと独立している自己完結した点の集まりだ。対して「Ixion」の場合は個々の点(それぞれのパートの音色)が重なったり、これらの音の境界を曖昧にして混ざりあったような効果を創出する意味での点描的な効果を生み出している。ラウシェンバーグの舞台美術とフェルドマンの音楽はともに遠目に見た時、あるいは聴いた時に1つのテクスチュアが浮かび上がる効果を狙っていたのだろう。

 「Ixion」でも演奏に際して困難が生じる。アンサンブル版の場合、単音楽器である管楽器のパートに7と記されていれば、非常に素早く任意の7音をマス目に収まるように演奏しないといけない。これによって回転するような素早いパッセージが達成できる。ピアノは和音やグリッサンドで即座に対応できるが、単音楽器の場合は演奏の難易度が上がる。当時のフェルドマンは管楽器の事情をそれほど深く考慮しなかった可能性があり、ホルンのパートの1マスに7、トランペットのパートの1マスに10と記されている箇所がある。アンサンブル版で行われた1958年の初演時には、やはり演奏者がこの楽譜に当惑したため、急遽ケージが五線譜に書き直した。ケージはその時の様子を「この楽譜を慣習的な方法に――覚えている?4分音符に――書き換えた。それはこの曲のあらましではなくて、演奏者たちがすぐに演奏できるようにするためだった。I translate it into something conventional—with quarter notes, you remember? —which was not what the piece was but which permitted the musicians to quickly play it.」[30]と語っている。チュードアが「Intersection 2」(1951)、「Intersection 3」(1953)を五線譜に書き換えて演奏したように、「Ixion」においても最終的には演奏の際に五線譜への書き換えが行われたのだが、この曲をきっかけにフェルドマンは図形楽譜の作曲を再開した。だが、これ以降のフェルドマンの図形楽譜には変化が見られ、例えば「… Out of ‘Last Pieces’」(1961)では図形楽譜と五線譜を組み合わせることによって演奏の際の曖昧さを少しでも減らす工夫がなされている。

 1954年からの五線譜による楽曲ではフェルドマンは従来のリズムや拍子とは異なる感覚の音楽を創出する一歩を踏み出したといってもよいだろう。「Piece for 4 Pianos」では音価を不確定にして演奏者に裁量を与える一方、1958年以降の図形楽譜は1950年から1953年までの図形楽譜と比べて記譜にやや具体性が帯び、奏者の選択の幅を狭めている。フェルドマンの楽曲の変遷は記譜法の変化と連動していることは初回に述べたとおりだ。次回とりあげる予定の1960年からの楽曲にはどのような変化が見られるのだろうか。


[1] Black Mountain Collage Museum + Arts Center http://www.blackmountaincollege.org/
[2] John Cage’s Stony Point House https://greg.org/archive/2017/05/03/john-cages-stony-point-house.html
[3] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 262
[4] 作曲家で理論家のジョゼフ・シリンガーが考案した作曲法。音価などのパラメータを数値化して作曲に援用する。Josph Schillinger Society https://www.schillingersociety.com/
[5] Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 43
[6] Jonathan D. Kramer, “New Temporalities in Music,” in Critical Inquiry, Spring, 1981, Vol. 7, No. 3 (Spring, 1981), p. 539
[7] Ibid., p. 539
[8] Ibid., p. 539
[9] Ibid., pp. 539-540
[10] Ibid., p. 542
[11] Ibid., p. 545
[12] Ibid., pp. 546-547
[13] Ibid., p. 549
[14] Elidritch Priest, Boring Formless Nonsense: Experimental Music and the Aesthetics of Failure, : NY: Bloomsbury Academic, 2003 はこの本のタイトルが示す特性を持つ楽曲や音楽実践を例に、聴取や音楽的な時間の問題を論じている。
[15] Morton Feldman: Solo Piano Works 1950-64, Edition C. F. Peters, No. 67976, 1998. Volker Straebelによる巻末の校訂報告より。
[16] フェルマータの下に数字が記されている。
[17] Morton Feldman, Pieace for 4 Pianos, 1962, C.F. Peters Corp., 1962.
[18] Tom Johnson, “Introduction to “Spaces,”” in March, 1994 https://www.cnvill.net/mftomj1.htm
[19] Ibid.
[20] Ibid.
[21] Feldman 2006, op. cit., p. 88
[22] David Cline, The Graph Music of Morton Feldman, Cambridge: Cambridge University Press, 2016, pp. 45-46
[23] Keith Potter, Four Musical Minimalists: La Monte Young, Terry Riley, Steve Reich, Philip Glass, Cambridge: Cambridge University Press, 2000, p. 112
[24] Ibid., p. 113
[25] Cline 2016, op. ct., p. 48
[26] Ibid., p. 48
[27] ヴァレーズのジャズへの関心と彼の図形楽譜についてはOlivia Mattis, “The Physical and the Abstract: Varèse and the New York School,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, pp. 57-74に詳述されている。
[28] Caroline Brown, Chance and Circumstance: Twenty Years with Cage and Cunningham, New York: Alfred A. Knopf, 2007, p. 217
[29] アンサンブル版の演奏の際、ケージは曲中のセクションごとにテンポを変える、特定の箇所を繰り返すなどしてダンスの時間の長さと合わせていた。Cline 2016, op. cit., p. 215
[30] John Cage and Morton Feldman, Radio Happenings Ⅰ-Ⅴ, Köln: Edition Musik Texte, 1993, p. 181

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は9月15日の予定です)

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (17) 弾いてはいけない旋律 ~Google様ありがとう2~

VLADIMIR HOROWITZ The Unreleased Live Recordings 1966-1983 CD30 Orchestra Hall, Chicago April 8, 1979 SONY CLASSICAL
LUISADA SCHUMANN Jean-Marc Luisada(p) RCA SICC 19025 2018年 ほか

(イントロは稲川淳二調でお読みください) みなさん、この世には、“弾いてはいけない旋律”があるのをご存知でしょうか。おそろしい、おそろしい山の神によって封じられた禁断の旋律。旋律はね、確かにそこに書かれてるんですよ。誰にだって見えるんですよ。でも弾いてはいけない。弾いてはいけないんです。弾けば、山の神のお怒りが……アァ、おそろしい、おそろしい。今日はですね、そんなお話です。

さて、弾いてはいけない旋律が存在するのは、シューマンのフモレスケop.20です。この曲の楽譜を観ずに演奏を聴いた人が、その旋律に気付くことは、10-6.5÷58×10≒9割がたありません(数式の根拠は後述)。では気づく1割はどういう場合か。それは禁を犯し、山の神の戒めに背いた猛者たちのプレイに運よく巡り合った場合のみです。

弾いてはいけない旋律のせいでしょうか。シューマンのフモレスケ op.20は「シューマンのピアノ曲の中でも優れた作品の一つ(ピティナ・ピアノ曲事典)」と言われる割には国内版の楽譜が全音からも音楽之友社からも出ていません。かろうじて春秋社のシューマン集の第4巻に収められている程度です。この旋律の存在に気付かせないようにしているのでしょうか。あぁ、おそろしや、おそろしや。

R. Schumann – Humoreske

さて、フモレスケの構成はWikipediaに従えば7つの部分からなります。このうちの第2部 「Hastig(性急に) ト短調、4分の2拍子」の譜面を観ると、通常のピアノの2段楽譜の真ん中にもう一段、(Innere Stimme)と書かれた旋律があります。Innere Stimmeとは「内なる声」。これが「弾いてはいけない旋律」なのです。ただし、この旋律をどう扱うかはシューマン自身は何の指示も残していません。春秋社から出ている井口基成版の譜面には「この“Innere Stimme”ということころは実際には弾かれない。しかし演奏者は音列の動きの中にこの声を感じとっていなければならない」と注釈があります。では「弾いてはいけない」とは誰の戒めなのか。ヘンレ版楽譜の解説にそれは記されています。1883年にシューマンの山の神クララがフモレスケについて書いた手紙。要約すれば「この旋律を弾いてはいけないわ。感じるのよ。夫だってそう思っていたに違いないわ。」 つまり、この旋律は、

Don‘t Play, Feeeeeel !! 

なのです。この旋律を弾くことは、クララ神の逆鱗に触れるのです。弾かずに感じるものなのです。

でも、この旋律、いくら演奏者が Feeeeeel !!してても聴き手にその存在が伝わるのでしょうか。よく見るとタイがあったりスラーがあったり休符があったりします。確かに右手の細かな音型の中からInnere Stimmeの音を拾うことは出来ますが、タイ、スラー、休符は無理のような気がします。では実際の演奏はどうか。ここで第7回に続いてGoogle Play Music(GPM)様の登場です。GPMで「Schumann Humoreske Hastig」で検索すると58種類の演奏が出てきます。

分類演奏者名(GPMの表記のまま)人数
「内なる声」弾かず (Feeeeelは困難)Weiss、グリーンバーグ、アシュケナージ、ルプー、クエルティ、Ghraichy、ジョルダーノ、Carbonel、Ohmen、Fröschl、アラウ、W.ケンプ、コロンボ、ダルベルト、アックス、Ciocarlie、Fejérvári、Cantos、ロス、Golovko、Kano、ローズ、クーパー、Yang、カテーナ、フランクル、デームス、河村、Beenhouwer、Ehward、Cai、Lin、Cognet、ゴンサレス、ゴラブ、ル・サージュ、マルティ、Collins、Maltempo、Horn、Cheng、Granjon、F.ケンプ、Liao、Cha、Baytelman、アンデルジェフスキ、ベルンエイム、Gamba、ジョルダーノ、Laloum51
「内なる声」の一部分だけを弾くHorowitz
「内なる声」を弾いてしまうリヒテル、クイケン、Gorbunova、ルイサダ、シュミット、メルレ

山の神クララが「弾くな」と言っているのに弾いちゃってる人、いますねぇ。しかも大物まで。

VLADIMIR HOROWITZ The Unreleased Live Recordings 1966-1983

この中ではやはりというか流石がHorowitz(録音はライブで3種類)。彼は「内なる声」の出だしの一部だけを弾き、「あれれ?もう一つ旋律がありそでなさそでなんだろな???」という状況を創り上げます。これなら聴き手も多少Feeeeel!できるかもしれません。見事な演出法です。特に1979年4月8日のライブで弾いた際は、1回目は「内なる声」を少し弾くものの、繰り返しの際はほとんど弾かないというニクい演出もしてきます。この“繰り返しでは弾かない”はこの日の演奏だけで、その直後の2回の演奏会では繰り返しでも「内なる声」を部分演奏します。ただ、Horowitzは「内なる声」の後半の休符のところに音符を付け加えて旋律線を創ってしまうということもします。ですので、譜面に書かれた「内なる声」を完全に感じ取るのは不可能でしょう。ですので「内なる声に気付く計算式」でHorowitzは0.5カウント。GPM上の58人の演奏で、0.5+6=6.5人が「内なる声」を奏でるので先述の計算式となります。

LUISADA SCHUMANN
Jean-Marc Luisada(p)

さて、完全に弾いちゃった6人の中で「内なる声」を最も綺麗に歌わせてるのがルイサダ(新録)です。時折、旋律を鳴らすタイミングを拍子から微妙にずらしたりして「内なる声」を情感豊かに際立たせます。タイやスラーや休符もきちんと表現しています。聴き手もこの演奏で初めてシューマンの書いた「内なる声」の実態がわかるのです。山の神が何と言おうが、作曲家が書き込んだ音符をきちんと伝えるんだという決意が伝わってきます。シュミットもメルレもGorbunovaも同様に弾いてはいますが、ルイサダの方が「内なる声」の扱いが丁寧と思います。リヒテルはまさにHastig(性急に)といった感じでこの第2部に挑み、高速フレーズをバックに「内なる声」を打ち響かせます。でも「内なる声」の表出具合としてはちょっと荒いかなぁ。右手の高速フレーズが内なる声と同じ音を叩くときの音が大きすぎて、「内なる声」が付点付きのポップな旋律に聴こえてしまうところが多々あります。まぁ他者と比べて圧倒的にテンポが速くて勢いがあるので仕方ないのかもしれません。もっとも奇妙な演奏は、年代物のピアノフォルテで演奏したピート・クイケン盤。何度聴いても連弾に聞こえます。フモレスケの他の部分の演奏ではこんな聴こえ方はしないので偶然かとは思いますが、この書法が作曲当時のピアノなら醸せた効果だったとしたら、それはそれで面白いことかもしれません。

弾いてはいけない、と言われてすごすご引き下がるようではいけません。他の奴が弾かないなら俺が弾く、俺のピアノでFeeeeeel!!!させてやる。人前で芸をする人はそれくらいの根性が必要です。なお、何の予備知識もなしにこの譜面を見ると「Innere Stimme」は“単なる内声の旋律”に見えるので、ただ素直に弾いちゃった人も6人の中に含まれているような気がしますが、ま、そこは気にしないで行きましょう。

(補記)

  1. 弾いていない58人の中に細かく動く右手のフレーズから「内なる声」を出そうとしたのではないかと思わせる人は何人かいます。たとえばFilippo Gambaとか。しかし、タイや休符含めて感じさせようとした、までは行っていない気がします。
  2. 諸々の引用は文中に記してあります
  3. 井口基成版の注釈の出典はわかりません。クララの手紙は未公開資料だったので、井口が知っていた可能性はあまり高くない気がします。井口本人の解釈の可能性もありますが、詳細不明です。
  4. ありがたいGoogle Play Music様はまもなくサービスが終了します。どうやらYouTubeに吸収合併されるようです。使い勝手が落ちて欲しくないなぁ。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (16) アメリカ巡業万歳 ~100年の時を超えて~

Anton Rubinstein  Marius van Paassen(p) ATTACCA Babel 8741-4 1988年頃
Live at Carnegie Hall Wibi Soerjadi(p) PHILIPS 456-247-2 1997年

19世紀ロシアの大ピアニストにして作曲家アントン・ルビンシテインのop.93は、「色々な作品集」と題され、おそらくは書き溜めていた大小さまざまな24曲が寄せ集められています。この中に1曲、桁外れに規模が大きく、全曲演奏すると30分近くかかる大変奏曲があります。その名も「Variations sur l’air Yankee Doodle」。和訳しましょう、「アルプス一万尺による変奏曲」です。楽譜はIMSLPにありますのでご覧いただければと思いますが、荘重な序奏に続く主題、そして40くらいの変奏からなる力作です。

作曲のきっかけは1872年のアントン・ルビンシテイン・アメリカ大巡業でした。この時の演奏旅行は8か月に及び、演奏会の数はなんと215回。8か月と言うと240日くらいですから、連投に次ぐ連投の地獄の“営業”だったと思われます。しかし、おかげでしこたま儲けたそうで、帰国後に現地で聴いたメロディを基に気をよくして書いたとされるのがこの変奏曲です。変奏曲というわりには、主題があまり崩されずに繰り返し出てきます。かなりの時間「アルプス一万尺」のてんこ盛りとなります。これが実はなかなかにキツい。

【キツいとこその1】

日本人にはこの曲は「アルプス一万尺 小槍の上で アルペン踊りを踊りましょう」の歌詞が幼時体験的に染みついています。なのでメロディが聴こえるたびに呪文のように歌詞が脳内に木霊し、アルペン踊りを踊りたくなります(*1)。さらに筆者の場合はもっと深刻で、昭和3年生まれの父親が酔っぱらうと「どうせやるなら でっかいことやろう 奈良の大仏 屁で飛ばそう」と歌っていたものですから、大量放屁誘発音楽にしか聴こえません。前述したように変奏曲のくせにメロディーが温存されて繰り返し出てきます。キツいです。さらにこれらの歌詞に続く部分は「らんららんららんらんらん」ですから、脳内御花畑が満開咲き乱れとなります。とてもキツいです。ちなみにWikipediaによれば原詞もあまりろくな内容ではありません。

【キツいとこその2】

かように人口に膾炙されまくった脳天気快晴音楽なので、この曲を人前で弾くこともさることながら、練習することすら……恥ずかしい……感じになります。とはいえアントン・ルビンシテインの作品ですから結構難しいのです。なのにアルペン踊り(筆者は大量放屁)の連呼ですから、「いいのか俺、こんなことしていて本当にいいのか、もっと他にやるべきことがあるのではないか」と、レパートリーにしようと思った自己嫌悪との戦いがピアニストの前に立ちはだかります。ここまでピアニストにその在り方を迫る難曲は、グレインジャー編曲のチャイコフスキーのピアノ協奏曲独奏版(序奏部だけで見事終了)、クルサノフ編曲の「渚のアデリーヌ」くらいかも知れません。

Anton Rubinstein
Marius van Paassen(p)

かような困難を克服し(?)、1987年にこの曲を録音したのはオランダのピアニスト、Marius van Paassenです。デビューアルバム「20世紀音楽の中の動物たち」が即完売になった経歴を持ち、最近は自作曲のアルバムなどを出しているようです。1986年にルビンシテイン作品のコンサートを開き、翌年このアルバムを録音します。Paassen氏はその間1年以上アルペン踊りを踊り続けたと思われます。さすがのPaassen氏もこの曲の指示する繰り返しはすべては行いません。全曲を23分30秒で弾いていますが、もし原曲の繰り返しをすべて行っていたら30分程度になったと思われます。だって、無理ですよ、この曲……らんららんららんらんらん……ですからねぇ。ともあれ、よくぞ、ここまでやってくれたものです。

Live at Carnegie Hall
Wibi Soerjadi(p)

さて、アメリカ巡業から帰国後の作曲なので、ルビンシテイン本人はこの長大変奏曲をアメリカでは弾いていないと思われます。では、こんな感じの曲をアメリカ人の前で弾いたらどんなリアクションになったのか。それを彷彿とさせるアルバムがあります。Paassenと同じオランダのピアニスト、Wibi Soerjadiがルビンシテインのツアーからおよそ120年後の1996年11月22日にカーネギーホールで開いたコンサートのライブ盤です。Soerjadiは19世紀以来の伝統に則り、その場のお客さんにウケそうな曲、たとえば人気ミュージカルナンバー、映画音楽などを豪華絢爛なピアノ曲に仕立てて弾くことを“お約束”にしています。で、この日のコンサートのラストを飾ったのが、Soerjadi自作の「アメリカ幻想曲(*2)」。盛大なアルペジオとオクターブ進行でアメリカの楽曲をド派手に飾り付けた7分弱のお見事お馬鹿ピアノショーピースです。当然この日の演奏会のラストの出し物。19世紀ッぽい盛り上がるイントロに続いて「星条旗よ永遠なれ(国歌の方)」がブ厚い和音と駆け巡るアルペジオで始まると、会場からはやんややんやの歓声と大拍手! その後、アメリカの古典的人気ナンバーが次々と出て、ラスト2分くらいは、いよっ、待ってましたぁ!「Yankee Doodle(アルプス一万尺)」のオンパレード!あの手この手でアルペン踊りをデコレーションしてから最後にもう一度国歌を朗々と歌い上げて、19世紀スタイルの華麗なるエンディングでフィニッシュ。会場は歓喜の絶叫に包まれます。ピアニストも聴衆もいいノリで、この日の演奏会はまさに“熱狂的”だったと伝えられています。ほんと、見事な“営業”です。

筆者にとっては大量放屁の誘発音楽でも、海を越えた世界ではそのパワーは国民のアイデンティティとなり、愛国の坩堝の絶頂へと誘う。音楽というものは本当に奥が深いとしみじみ感じ入る2曲でございました。

*1)昔から山好きの間では議論となっているが、アルペン踊りがどういう踊りかは全く不明である。また「小槍」は北アルプスの槍ヶ岳の脇に実在する岩峰で標高は3030m、ちょうど一万尺となる。ただし、岩登りの専門家しか登れない急峻な岩峰で、その頂上は極めて狭く、とても踊りを踊ることは出来ないといわれている(ネット上にはチャレンジ動画多数)。なお「小槍」を「子山羊」と聞き間違えて動物虐待ソングと思うのは定番のあるあるである。

*2)冒頭部分に欠落があるが、Soerjadiが別の機会で弾いた「アメリカ幻想曲」の動画がある。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (15) だってスタッカートなんだもん

Carl Filtsch THALBERG-CHOPIN-LISZT  Leonhard Westermayr(p) MŪNCHENER MUSIK SEMINAR MMS 2616 1998年
The Art of the Piano Transcription Kevin Oldham(p) VAI VAIA 1104 1995年

スタッカートは、通常その音符の音価の半分くらいの長さに音を短く切って弾くことをいいます。ピアノでもポンと跳ねるように短く鍵盤を推すとスタッカートができます。では、音が延びるダンパーペダルを踏みながらスタッカートを弾くとどうなるでしょう。ピアノ演奏の教科書には、音が延びるペダルを踏んでもスタッカート奏法で弾けば音の響きや音色が変わり、適切なペダリングによってスタッカートが表現できると書いてあります。でも、それ、本当ですか? 演奏者が思うほど、ペダルを踏んだらスタッカートは表現できないのではないでしょうか? 

ショパン・夜想曲13番の初版楽譜(Maurice Schlesinger社)から。

たとえば、ショパンの名曲、夜想曲第13番ハ短調 op.48 no.1の最初の部分の左手の伴奏はスタッカートで弾けと指示があるのを、聴いただけでわかる人、いますか? この曲の冒頭から23小節間、哀しく美しくメロディーを支える伴奏部の音にはみなスタッカートの印が付いているのです。しかも同時にペダルも踏めと私の知る限り全ての版の楽譜に書いてあります。改めてお尋ねします。ショパンの夜想曲第13番の冒頭から23小節間の左手が全部スタッカート指示付きだというのが、聴いてわかる人、いらっしゃいますか? ルービンシュタインもチェルカスキーもアシュケナージもポリーニもアルゲリッチも改めて聴きましたが、まったくスタッカートには聴こえませんでした。きっと私の耳が鈍感なのでしょう。

Carl Filtsch THALBERG-CHOPIN-LISZT
Leonhard Westermayr(p)

で、世の中いろいろなピアノ弾きがいるわけで、「だってここスタッカートで弾けって書いてあるじゃん」と、本気でスタッカートで弾いた演奏があります。弾いたのは1976年ドイツ生まれのLeonhard Westermayr、とっても無名ですが数枚のCDは出しているようです。彼は1998年にCarl Filtsch(カール・フィルチュ、ショパンの弟子で14歳で亡くなった)のピアノ曲の世界初録音アルバムを出します。このアルバムの余白にショパンやタールベルク、リストの曲を入れていて、その中にショパンの夜想曲13番があります。冒頭から23小節、Westermayrはペダルを使わずに左手をスタッカートで弾き続けます。その朴訥なポツポツ感たるや、この曲の麗しい美しさを吹き飛ばし、すねたおネエの世迷い言のようになります(イメージCV:深沢敦)。でも「だってスタッカートなんだもん」の熱い主張は伝わってきます。Westermayrは同じアルバムに収録されたショパンの即興曲第1番の中間部でも左手のスタッカーティッシモをかなり克明に出してきます。この辺のこだわりは面白いものです。ちなみに同アルバムに収録されてるリストのハンガリー狂詩曲第2番では自作のちょっとホロヴィッツぽいカデンツァを弾いています、

The Art of the Piano Transcription 
Kevin Oldham(p)

さて、スタッカートへのこだわりならば、デビューアルバムが「TUTTO STACCATO」(全部スタッカート)、続くアルバムが「SOLO STACCATO」(スタッカートだけ)であるMalco Falossiを挙げるべきなのですが、何度聞いても彼の演奏はスタッカート重視に聞こえません。アルバムタイトルの英語訳が「All Detached」であることから、奏法としてのスタッカートを単純に意味しているのではないのかもしれません。では、こだわりのスタッカート弾きがないかと言えば、思い当たる演奏が一つ。33歳で病死したアメリカの作曲家Kevin Oldhamが遺したリスト編曲のバッハ「前奏曲とフーガ イ短調 BWV.543」の録音です。この演奏はスタッカートというよりは徹底したノンペダルという方が正しいかもしれませんが、延ばす音と短く切る音を明確に弾きわけ、おそらくはダンパーペダルはほとんど使わずソステヌートペダルを多用して驚異的な演奏を繰り広げています。曲の冒頭から遅いテンポのスタッカート弾きに驚きます。私の持っている譜面にはそこに「(legato)」という表意記号があるのですが、legatoとは全くかけ離れたアプローチで開始します。その後も曲全体に渡り16分音符の動きはほぼスタッカートで弾き、より長い音価の音符との弾き分けを明確にしていきます。特にフーガが凄い。オルガン曲のピアノ編曲、しかも編曲者がリストであるために随所に手ごわい書法が待ち構えているのですが、完璧なスタッカートコントロールで各声部を紡ぎ、バッハの音楽の多層構造を一層明らかにしながら迫ってきます。恐ろしい指の制御力です。ふと、もしグールドがこのリスト編曲の録音を遺していたらこんな演奏になっていたのではないかという幻も過ります。Oldhamはこのアルバムの他の演奏でも、ノンペダルっぽいパラパラした感触の演奏をいくつか行なってますが、衝撃度・完成度ではBWV.543が頭抜けています。

ピアノのスタッカートは多くの弾き方があり、それとペダリングの組み合わせで、様々な表現が可能です。しかしそんなこと抜きにして、露骨に分かりやすくスタッカートを描くことも、ピアニストの採ってもよい戦略と思います。だって、スタッカートなんだもん!

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

7月の新刊情報(務川慧悟、徳山美奈子、ゴドフスキー、佐藤暖、ハワード、ルクー、芥川也寸志)

大変お待たせしました。7月の新刊のお知らせです。なお、以下の新刊楽譜の発送は7月28日(火)より順次行います。(務川慧悟の自筆サイン入り楽譜は少々お時間をいただきます)

ラヴェル/務川慧悟 編曲:「マ・メール・ロワ」(ピアノ独奏)

 2019年、ロン=ティボー=クレスパン国際コンクールのピアノ部門で見事な演奏により第2位を受賞したピアニスト、務川慧悟。彼が編曲した「マ・メール・ロワ」(作曲:ラヴェル)のピアノ独奏版が待望の出版となります。ラヴェルの音楽と務川慧悟自身のピアニズムとラヴェルのエッセンスを損なうことなく見事に融合しています。務川慧悟自身の運指も掲載し、演奏難易度は初級から中級者向け。自分だけの密やかな楽しみに、発表会のために、演奏会のためにと様々な場面で幅広い方々に楽しんでいただけることでしょう。務川慧悟自らが行った詩の日本語訳にも注目です。表紙絵は、イラストレーターのくらはしれいさんによるものです。
 販売記念として70部限定で務川慧悟の自筆サイン入り楽譜も販売します。以下のページからご購入いただけます。なお、務川慧悟の自筆サイン入り楽譜はお客様のお手元に届くまでに少々お時間をいただきますことご了承いただきますようお願い申し上げます。

【先着70名!サイン入】ラヴェル/務川慧悟 編曲:「マ・メール・ロワ」(ピアノ独奏)
【通常版】ラヴェル/務川慧悟 編曲:「マ・メール・ロワ」(ピアノ独奏)


オスカー・シュトラウス/レオポルド・ゴドフスキー:「ラストワルツ」(解説:マルク=アンドレ・アムラン)

 この編曲は、今日では滅多に名前を聞くことのないオーストリアの作曲家オスカー・シュトラウス(シュトラウス家とは無関係)のオペレッタ「最後のワルツ」が基になって生まれました。
 1970年頃、ゴドフスキー自編自演のピアノロールをマルク=アンドレ・アムランの父であるジル・アムランが発見、その後、ジル・アムランによる採譜がアメリカのとある小さな出版社から出版され、それから数年後には自筆譜が見つかり遂に正式出版となるかと思いきや、なぜか現在に至るまで出版されることはありませんでした。「ラストワルツ」の謎に迫ったマルク=アンドレ・アムランによる解説付きです!

【楽譜詳細】オスカー・シュトラウス/レオポルド・ゴドフスキー:「ラストワルツ」(解説:マルク=アンドレ・アムラン)


ラヴェル/佐藤暖:序奏とアレグロ(ピアノ独奏)

 ピアノのための編曲作品の世界に魅了され、数々の知られざる編曲作品を取り上げているピアニスト・佐藤暖。佐藤暖はヴィンチェンツォ・マルテンポ編曲の「ダフニスとクロエ」(作曲:ラヴェル)の世界初演を行い大変な注目を集めています(編曲者本人は「あまりにも難易度が高すぎたのでこの編曲は今後演奏するつもりもない」と語っています)。
 マルテンポ編の「ダフニスとクロエ」に触発された佐藤暖は同作曲家の「序奏とアレグロ」の編曲の構想を始め、2年半の月日を経てようやく完成。既にルシアン・ガルバンが「序奏とアレグロ」の編曲を行っていたことを知った佐藤暖は、自身が初編曲者でなかったことにいささか落胆したそうですが、佐藤暖はラヴェルのオリジナル楽曲に見られる彼独自のピアノ書法をふんだんに取り入れることを心掛け、ここにラヴェルの”新たなピアノ作品”が誕生しました。

【楽譜詳細】ラヴェル/佐藤暖:序奏とアレグロ(ピアノ独奏)


徳山美奈子:Fin et Début (終わりと始まり) 作品53(1台4手ピアノ連弾)

 本作は2019年、作曲者が父を亡くした年の春、霊園の霧に咲く桜から着想を得て書かれた音楽です。作曲家は本作について以下のように語っています。

この世が一段明かりを落としたようにほの暗くなる、夕暮れの青い時間から始まり、漆黒の夜の悲しみの後、遥かに朦朧とした桜が立ち現れる。その幽玄の彼方の微かな明るさに向かって、亡き父は歩いて行く。微笑みの別れ。死は終わりではなく、新たな生の始まりを感じてほしい。Débutの部分には、日本のうた「さくらさくら」が薄く香る

 2019年12月6日、東京「サロン•テッセラ」にて、委嘱者の杉浦菜々子、小川至により初演。作曲者の多重録音による自作自演録音が主要音楽配信サービスで配信されています。徳山美奈子による上村松園の絵に基づくピアノ作品(連作)の出版を予定しています。ご期待ください。

【楽譜詳細】徳山美奈子:Fin et Début (終わりと始まり) 作品53(1台4手ピアノ連弾)


ギヨーム・ルクー:ピアノ作品集(解説:澤渡朋之)

 1870年1月20日、ベルギーのヴェルヴィエに生まれ、1894年1月21日にこの世を去った天才作曲家ギヨーム・ルクー。短い生涯でしたが数々の名作を残しています。本曲集には、これまで出版されることがなく、自筆譜へのアクセスも大変難しかったピアノ作品が収録されています。
 ルクーがフランクに出会う二年前に書かれたTempo di Mazurka pour piano、モダン・シャンソンのような味があるAllegro marcato pour piano、ショパン、グノーやドリーブを意識して書かれたコミカルなBerceuse et valse (pot-pourri-intermède comique)、ルクーの都会的センスと巧さを感じさせるTrois Pieces pour piano、ルクーの生涯最後の作品と言われているBerceuse、以上5タイトルが本曲集に収録されています。
 また、英国在住のライター&研究家、そしていくつものリリース作が英グラモフォンに絶賛されているSonetto ClassicsのCEOである澤渡朋之が本曲集に寄せて解説を執筆しています。本曲集の難易度は初級者から上級者までと幅広いものとなっています。

【楽譜情報】ギヨーム・ルクー:ピアノ作品集(解説:澤渡朋之)

Allegro marcato pour piano (ヴェルヴィエ音楽院所蔵)

レスリー・ハワード:ヘンデルとモーツァルトのアリアに基づく2つのピアノ編曲

 フランツ・リストのソロピアノ全作品を録音しギネス記録にも載ったピアニスト、レスリー・ハワード。彼は音楽学者そして作曲家でもあり、彼の編曲作品が「トゥーランドット」の回想「ラディゴア」に続いて出版です。うっとりとする歌心溢れた旋律が魅力的で、またジギスモント・タールベルクも得意とした3本手の技法も顔を覗かせており、リストのスペシャリストであるレスリー・ハワードが得意とするピアノ書法が盛りだくさんです。もちろん、アンコールにもピッタリの作品です。

収録曲
ヘンデル:オラトリオ『快活の人、沈思の人、温和の人』より
Handel: Come, but keep thy wonted state
(from L’Allegro, il Penseroso ed il Moderato)

モーツァルト:歌劇「ツァイーデ」より
Mozart: Ruhe sanft, mein holdes Leben
(from Zaide)

【楽譜情報】レスリー・ハワード:ヘンデルとモーツァルトのアリアに基づく2つのピアノ編曲


芥川也寸志/江崎昭汰:祝典組曲 no.3 行進曲(Marcia in do)- ピアノ連弾版

 芥川也寸志の知られざる名曲、ウインド・オーケストラのための「祝典組曲 no. 3 Marcia in do」がピアノ連弾でお楽しみいただけます。史上初の芥川也寸志作品のピアノ連弾編曲作品です。以下は編曲者の江崎昭汰による序文の抜粋です。

2020年1月末、株式会社スリーシェルズ代表の西耕一さんから同年2月16日に開催される演奏会「日本の作曲家 秘曲探訪 第2回」の第1部に演奏者として参加してみないかとお声かけを頂きました。ちょうどその頃、芥川也寸志のウインド・オーケストラのための「祝典組曲 no. 3 Marcia in do」を愛聴しており、この曲をピアノでも演奏してみたい、そして、ピアノ1台4手連弾用に編曲をして演奏会で取り上げたいという思いが強くなり芥川真澄さんの許諾のもと編曲に取り掛かりました。

【楽譜情報】芥川也寸志/江崎昭汰:祝典組曲 no.3 行進曲(Marcia in do)- ピアノ連弾版

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (14) 2020年度 魔煮悪音楽大学入学試験問題 問題と解答 ~どうみてもヘンな奴Marco Falossi その2~

【設問1】

次の図表は、イタリアのピアニスト、マルコ・ファロッシが1997年に発表したCD「SOLO STACCATO」の解説に掲載されたものです。図表をよく読み、以下の問いに答えなさい。

クリックで拡大
  • 図表の(1)と(2)に入る対になる適切な語句をそれぞれ答えなさい
  • それぞれ二カ所ずつある図表の(a)~(e)に入る適切な語句を答えなさい
  • (3)のBlumenfeldの項目は図表の右半分のデータがありません。その理由を答えなさい
  • 図表の最終行は各項目の数値の縦の合計が記されています。(4)の2項目の数値が多い理由をマルコ・ファロッシの歴史的背景を交えて説明しなさい。

【設問2】

ヒアリング問題です。次の楽曲はある生物の姿を図形楽譜化したものです。曲をよく聴き、描かれている生物の名前を答えなさい。解答にあたっては机上配布した五線紙をメモとして利用するのは構わない。

補記:この問題集で紹介した参照用のヒアリング音源はYouTubeのものであり、映像を見ると答えが映ってしまうので、受験生がこの過去問題に取り組む際は必ず音声だけを聴くようにしてください。

【解答解説編】

みなさん、今年の入試問題は如何でしたか? 魔煮悪をお受けになろうという方でしたら、さほど悩むところはなかったのではないでしょうか。日ごろから大手の提供する基礎的なCD以外にもきちんと目を配って勉強しているかどうかが問われますね。

では設問の1を解説しましょう。この問題を解くカギは図表の数値が何を表しているかを読み解くところですね。図の右側にTOT.(計)とDUR.(尺)とありますね。おおむね尺が長いほど計の数字が多い、つまり曲が長いほど多いもの、ということがわかります。聴衆の鼾、ではありませんよ、もうお分かりですね、そう、音符の数です。そうすると図表自体は10の項目の音符の数を楽曲ごとに表したものとわかります。しかも楽曲はピアノ曲。ここまでくれば問1と問2はおのずと解けると思います。ぢっと手を見て考えてください。はい、(1)の答えは「左手」、(2)は「右手」ですね。当然2カ所ずつある(a)~(e)はそれぞれ、小指、薬指、中指、人差し指、親指となります。ピアノ曲の演奏において左右の10本の指がそれぞれ何回鍵盤を叩いて音楽を構築しているかを計数して掲載した、おそらく音楽史上初のCD解説書からの設問ですね。歴史的な奇書ですから魔煮悪を受けるような方なら何度も目にされていることでしょう。私の解説を待つまでもなく問1~2は脊椎反射的に書き込めるようでないと、魔煮悪に入ってから苦労することになりますよ。

さぁ、ここまで来れば問3はサービス問題。作曲者がBlumenfeldで右半分のデータがない、すなわち左手だけで弾く楽曲、そして尺は4分程度。答えは「Blumenfeldの左手のための練習曲 op.36を演奏したため」ですね。魔煮悪の採点基準からすると単に「左手用の曲を弾いた」だけでは減点対象になりますよ。曲名をしっかり書き込むこと。さらに“Godowskyに献呈された”と加えれば付加点が期待できますね。

問4、これは難問です。合否の分かれ目はこの問題にあるといっていいでしょう。しかもファロッシの歴史的背景を交えて説明しなさい、とありますのでイタリアのピアノ教育史の知識も必要ですね。正解はこの解説を著したイタリアのイケメンバカテクピアニスト、フランチェスコ・リベッタ先生の論述に沿って書くのが模範解答となるでしょう。たとえば、

「ファロッシは、名教師カルロ・ヴィドゥッソの流派であるピエロ・ラッタリーノの下でピアノを学んだ。同じ流派にはあのポリーニもいる。ヴィドゥッソは音符一つ一つに大きな重要性があると考えたため、門弟たちはみな美しい響きを求めて、音符一つ一つを丁寧に読み取り紡いでいく傾向にある。ファロッシはこの考え方をさらに推し進め、楽曲の演奏において各指が音符をいくつ弾いているかを計数した。その結果、手の筋構造から考えて最も弱い左右の薬指の弾く音符が少なく、最も強靭な左右の親指が最多の音符を奏でていることが明らかになった。これは指の完全かつ自律的な制御という視点から重要な示唆を含んでいる。」

となるでしょう。多少、ファロッシとリベッタ先生の独自理論の面もありますが、CD史上類を見ない指ごとの打鍵数計上文献の歴史的意義に触れておくことは、魔煮悪の道には欠かせない通過儀礼と考えます。なお、ファロッシはアルバムタイトルにもあるようにスタッカート奏法にこだわり、全曲この奏法で弾いているようですが、ピアノは延音ペダルを踏むとスタッカートの意味が薄れてしまいますね。ま、それでも感触的には確かにパラパラとした音創りで、伽藍のような響きや音楽としての感情の大きなうねりよりも、粒立ちの良い音で楽曲自体をサラサラっと構築しています。このパラパラサラサラ感が指ごとのスタッカート打鍵数の計上というこだわりに繋がっているのでしょうね。

設問2のヒアリングテストは如何でしたか? 弾かれている音楽をすぐに脳内で楽譜に起こせましたか? 魔煮悪のヒアリング試験ではメモ用に五線紙も配られているので、速記が得意な人は試験中に譜面に起こしても構いません。この問題のポイントは、楽譜のどこで折り返して次の段に行くのか、ですね。正しい所で次の段に行けば自ずと楽譜が図形化されてきます。さて、その形は。はい、蝶々ですね。ただ、ちょっとナイトラウンジピアニストの指鳴らしっぽいので、蛾、と答えてしまう人も多いのではないでしょうか。しかしこの音像からは明らかに明るい陽射しを感じます。まぎれもなく蝶々です。楽譜面だけに囚われていると音楽そのものの本質を見失ってしまうという、ま、深遠なテーマを孕んだ引っ掛け問題ですね。気を付けましょう。魔煮悪の教育現場で重要視される楽曲は譜面として存在していないものが沢山あります。演奏音源だけを聴いてすぐに再現演奏ができる、耳コピ譜面が作れる、は入学後の高成績につながりますので、ぜひともこの学力を磨いていただければと思います。

それでは、受験生の皆さんの奮闘努力を心より期待し、来年には立派な魔煮悪生になっていることをお祈りいたします。

出典:SOLO STACCATO Marco Falossi (p) 伊 IKTIUS IKT 022  1997年

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(4) 五線譜による1950年代前半のなんとも言い難い曲

(筆者:高橋智子)

 前回はフェルドマンの図形楽譜の成り立ち、彼が図形楽譜で意図していた音楽、ジャクソン・ポロックの絵画技法との関係、演奏の際に生じる矛盾とデイヴィッド・チュードアによる解決方法などをとりあげた。今回はフェルドマンが図形楽譜作品と並行して作曲した1950年代前半の五線譜で書かれた楽曲について考察する。

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吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (13) ご尊顔を奏で奉る悦び(頭蓋骨付き)~どうみてもヘンな奴Marco Falossi その1~

Mozart  TUTTI  I  FRAMMENTI(断片全集)、SONATA K.545、333 Marco Falossi(p) 伊iktius IKT025
(参)SOLO STACCATO  Marco Falossi(p) 伊iktius IKT022 1997年 より Figura sonora teshio

えー、みなさま、本日はようこそお越しくださいました。

こちらにありますのは音符で描かれました皆様ご存じ聖モー様のシルエットでございます。なんと、奏でるだけで200余年の時を超え音楽聖人モー様のご尊顔に触れることができる聖遺物中の聖遺物、「Figura sonora Mozart」と申します。まずは聖モー様の額からそっと始めましょう。するとほどなくK.332の第2楽章が聴こえてまいります、なんと麗しい。ありがたいことです。ここで忘れていけないのは、高いB-flatの音をしっかりと保持すること。聖モー様の御髪です。この音を途切れさせると河童……もとい、トンスラになってしまいますのでご注意を。優しく後頭部を撫でれば、いきなり秘所、御鼻筋から御目の尊きライン、信者の皆様には随喜の瞬間でございましょう。そして神のごとき御耳のあたりで聴こえてくるは再びK.332。後頭部を優しくなでれば、ああ、これこそ至福、聖モー様の唇に触れまする。きっと多くの信者の方はここで気が遠くなられてしまうことでしょう。なにとぞお気をお確かに。そして顎から首筋でまた再びのK.332。秘所を去った哀しみに溢れておりまする。あとは首から下。ごゆっくり聖モー様の作品の余韻にお浸りください。え、最終段の譜面の書き方と実際の演奏の音が違っている?本来もう1段譜面がないといけないのに図形優先で誤魔化しているって? 黙らっしゃい!なんと畏れ多い。神罰が下りまするぞ。くわばらくわばら。
この聖遺物の有難みがご理解できないお方には、「Figura sonora teschio」のしゃれこうべ責めから勉強していただかないといけませんな。
それではお次の方、どうぞ。

Mozart TUTTI I FRAMMENTI – Marco Falossi(p)

さて、この有難さの極みのような楽曲を作曲し演奏したのはイタリア人ピアニストのMarco Falossi。彼が1999年に録音したモーツァルトアルバムは企画・内容ともにあまりに特異的でした。収録されているのはピアノソナタK.545とK.333、そしてピアノ作品の断片44曲(断片全集と銘打ってます)、それと上記の楽曲含むモーツァルトネタの自作曲2曲です。一見するとモーツァルトの肖像図形楽譜や全集と豪語している断片集に目(耳)を奪われますが、このCDの衝撃は紛れもなくソナタの演奏にあります。まず、ソナタK.545。ピアノ初心者用の定番楽曲として有名ですが、Falossiはとにかくやたらと速い。しかし速いことならグールドの前例があります。問題は第2楽章、繰り返しがあると片方がPresto並みの速さになり、繰り返しのない後半は高速と低速がコロコロ入れ替わります。もう何がなんやらわかりません。繰り返しを全部やって3分21秒ですから恐れ入ります(ちなみにピリスは6分04秒)。終楽章も突然の停止や急加速急ブレーキという仮免すら受からないような演奏です。K.333のソナタもかなりの快速演奏。しかも所々で入る妙な“間”。第1楽章の最後辺りでは楽譜も一部変えてます(こういうバージョンがあるのか???)。第2楽章は最終小節以外は比較的穏当に弾いています。ところが第3楽章では途中の短調になる数小節(65小節~、175小節~)をいきなり緩徐楽章並みのローテンポで弾くという荒業をかましてきます。当然、その短調部分が終わると何事もなかったかのような快速進行です。もう、おじさんはついていけません。

CDではソナタの後にモーツアルトのピアノ小品断片が44トラック入っています。本当に「断片」なので曲によっては5秒で突然終わります。フーガの作りかけなど対位法的作品が多く、しかも短調のものが多いのも目立ちます。これが全曲完成してたら結構凄いことになったんではないかと思わせる断片もあり、儚い夢に遊ぶことができる44トラックです。これはこれで史料価値は高いですね。

アルバムの最後を飾るのはFalossiが創った2曲。一つが最初にご紹介した「Figura sonara Mozart」。Falossiは最近もこの曲を弾いていてYouTubeで演奏映像を公開しています。もう一つはモーツァルトの断片をつなぎ合わせて再構成した「Pasticcio su framment di Mozart」。特に派手なお遊びをすることなく聴いた感じは“まともにモーツァルトの曲”です。ひねくれものの私からするとちょっと物足りないかな。

いずれにしろこのアルバムは、どうみてもヘンな奴 Marco Falossiならではの超個性的仕上がりです。逆に山のようにモーツァルト演奏・企画がある中で光彩を放つなら、このくらいやらないと意味がないという深い教えも包含しています。ま、放った光彩が何色だったか、どこまで届いたかは別として。

で、このヘンな奴。このアルバムの少し前にもっとイカレたアルバムを出しているのですが、それはまた次回。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (12) トラック少牌は大チョンボの香り

Kresleriana – Alexandre Bragé(p)  art clasiccs ART-276  2013年
ROBERT SCHUMANN – Marc Ponthus(p)  BRIDGE 9514 2019年

この2枚のCDには共通した奇異があります。シューマンのクライスレリアーナは全8曲なのにブラージェの盤のトラック数は7、同じく幻想曲op.17は3曲からなるのにポンザスの盤のトラック数は2。足りないのです。このトラック数の足りないところに二人の熱い想いが込められています。まさにトラック少牌が変人……いやいや個性派の証なのです。

シューマンも驚きのフランケンシュタイン的トラック錬成

Kresleriana –
Alexandre Bragé(p)

第6回で紹介したブラージェが2013年に出した「Kreisleriana」は、前半がバッハのパルティータ6番、後半がクライスレリアーナという組み合わせです。バッハは線の細さと粘り気が混在する演奏で、特に悪戯をするわけでもなく、実にきちんと弾いています。逆に言えば無名のピアニストにちゃんと弾かれても「だから何のさ」です。強いて言えばAirの引っかかるようなフレージングが変なのと、終曲のGigueがわりと遅めで、Gigueというより「終曲のFugue」という重さで弾いていることが特徴でしょうか。

で、アルバムタイトルのクライスレリアーナです。冒頭に挙げたように全8曲なのにトラックは7つしかありません。7曲目と8曲目が1つのトラックになっているためです。ここでトンデモないことをブラージェは仕掛けて来ます。

それではまず順に1曲目から。時折、妙なアクセントや加速を見せるギクシャク感のあるアプローチです。続く2曲目は1838年版の方を弾きます。最後に主部のメロディーが帰って来るところで、独自の駆け上がりフレーズを入れます。これはそんなに悪くない。エンディングも少し音を足してます。3・4曲目はノーマルな仕上りですが、3曲目の28小節目で音型が前後と違うところは無視してます(私は賛成)。5曲目は中間部のテンポをかなり落として、一瞬、レチタティーヴォか?と思わせるような演出をします。6曲目、Etwas bewegter(やや早く)の後半部分、妙に跳ねて速くなります。これは違和感大だなぁ。そして7曲目。10小節目くらいからの熱くなる部分を、弱めのいわばアラベスク調で弾きます。これはこれで面白い。で、いよいよトラック融合部分。ブラージェは7曲目の最後の7~8小節と8曲目の頭の8小節を細かく切り刻んでから交互に並べて直して一体化するという、神をも恐れぬ所業をかましてきます。確かにこれではトラック分け出来ません。誰もやらない工夫をと、考えに考えたのでしょう。その意気や見事。結果は、違う2曲を切り刻んで交互に細かく並べ直したものですから、音楽的にはぐっちゃぐちゃ。少なくとも私の頭上には疑問符の大星雲です。でも、よくやった。「他人さまとわかりやすく違ってなんぼ」が芸の基本だとの覚悟が伝わってきます。ま、おかげで8曲目は実態上、8小節目の途中から始まります。

そんなブラージェですが2013年のこのアルバム以降、リリースが(たぶん)なく、ネット上でも最近の動静が探れません。どうしているのでしょうね。またどこかで個性炸裂玉砕気味のアルバムを出してくれるとよいのですが……。

ペダルで融合?する楽章と確信犯的楽譜改変

ROBERT SCHUMANN –
Marc Ponthus(p)

さて、もう一人のトラック少牌はポンザスです。どちらかというと現代音楽専門のピアノ弾きのようですが、なぜかシューマンアルバムを2019年に出しました。確かにシューマンは19世紀前半において過激な現代音楽作曲家でしたから波長が合うのかもしれません。で、当然のように色々仕掛けて来ます。

なんといっても注目はトラックの減少ポイントです。ポンザスは幻想曲の第2楽章(*)と第3楽章を1つのトラックにまとめているのです。彼はCD解説で語っています。「この曲の第3楽章は第2楽章の枠組みの中で共鳴するのだ。」と。そしてポンザスは第2楽章終わりの変ホ長調の主和音をペダルで延々と引き延ばし、その響き中でハ長調の主和音から始まる第3楽章を弾きだすのです。和音的にとってもばっちい世界が広がります。その後、和音が変わってもペダルはしばらく踏みっぱなし。うーーーむ、これが「枠組の中の共鳴」なのか? 素人のヲジサンにはわからんぞ。さらに「第2楽章で高まった活力の遠い共鳴もある。」として、第3楽章の随所でやたら速いテンポや激しめのフレージングをかましてきます。特に最後の1ページの速さは相当なものです。嗚呼、私の頭上にはまたもや疑問符の大星雲が轟々と渦を巻き始めました。ちなみにポンザスは幻想曲の第1楽章でも自己主張を展開します。特に中ほどのハ短調の部分(Im Legendenton)で楽譜のリズムパターンから離れた独自の伴奏音型で攻めてきます。その直後には第3楽章へのつなぎを予見させるような“延々とペダル踏みっぱなし”攻撃も仕掛けます。良いか悪いかは遥か上空の棚に上げて、実に個性的なシューマン幻想曲です。

同じ盤にはクライスレリアーナと子供の情景も併録されています。クライスレリアーナの第1曲の中間部などは他者からは聴いたことのない妙な高速アプローチをかましますが、一番主張の明解なのは終曲。この曲の主題は楽譜上は、

なのですが、ポンザスは「この曲のヴェールに覆われた激しさを解放する。」として、

と変えてしまいます。確かにリズムや旋律は明解になりました。しかも早めのテンポで弾きますので、スケルツァンドな感じは強くなっています。ここは幻想曲の第3楽章以上に明解な自己主張かもしれません(しかもこの方が弾くのが簡単!)。CDは最後に子供の情景を弾いていますが、なぜかまったく素直なアプローチで特筆するところはありません。

楽譜は絶対不可侵な聖域ではなく、演奏家は自己の生存意義をかけて独自のアプローチを仕掛ける。その功罪はともかく「なんか他人と違うことを確信犯として行う」演奏家をきちんと拾い上げて行きたいものです。……ま、たいていはダメダメなんですけどね。

* シューマンの幻想曲op.17の各曲を「楽章」と呼ぶかは意見が分かれるところ。本稿ではポンザス自身が解説の中で「movement」という表現を使っているため。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (11) 毒蛇様の安物合成強力睡眠薬(神経毒エキス配合)

Beethoven  Piano Sonatas Vol.1  No.32 in c-minor op.111  Maximianno Cobra TEMPUS collection (CD番号なし)2009年
Liszt Piano Sonata/Cobra Piano Sonata op.7    Maximianno Cobra TEMPUS collection (配信) 2010年

Beethoven Piano Sonatas Vol.1 No.32 in c-minor op.111 Maximianno Cobra

「テンポ・ジュスト理論(*1)」というトンデモ音楽理論による超遅演奏で2002年頃に話題になった指揮者マキシミアンノ・コブラ。話題がシュンと萎むと変態的遅演奏に付き合ってくれるオーケストラがいなくなったのか(真相不明)、15年前くらいから発表するオケ曲CDがサンプリング音源による電子音合成演奏になっていました。すっかり“あの人は今”レベルになったコブラでしたが、黙々とサンプリング音源による音盤製作は続けており、いつのまにかピアノ曲もその毒牙にかけていたのです。

コブラのベートーヴェン・ソナタ第1集(第2集以降は全く出ていない)には、32番のソナタ1曲だけが収録されています。皆様ご存知のように、フツーは後期3大ソナタとかいって30、31、32番の3曲でCD1枚です。さあ、演奏時間を見てみましょう。

・第1楽章(繰り返しあり) 14分49秒 (参考:鍵聖ぽるりーに 8分53秒)
・第2楽章(繰り返しあり) 33分41秒 (    同     17分23秒)

……アホか。第2楽章なんぞ通常の第9の第4楽章よりも長いやんけ。われ、ええかげんにせぇ!

と、まぁこうなるわけです。では、聴いてみましょう。正直、第1楽章は耐えられます。コブラの超遅演奏の誉め言葉に良く使われる“作曲者の書いた一音一音の構造が克明に聴こえる”とか“あまりに遅い演奏からかえって深い思索を巡らすことができる”という利点がわからなくもないです。しかし、第2楽章。33分41秒の第2楽章。これを聴くと…………あ、寝てた、まだやってるな、これどの辺だ?遅すぎてわからん……な…………あ、また寝てもうた、まだやってるぞ、深い思索の世界を……zzzzzzzzzz……終わっとるやんけ……酒呑んで寝るか。続きはまた明日。

素晴らしい! ゴールドベルク変奏曲の数段上を行く催眠効果。聴く者の音楽聴取集中力を根底からえぐり取って永遠の眠りに誘うが如き、至高の睡眠薬です。不眠に悩む皆様へ必需CDとなるかもしれません。しかも。音はチープなサンプリング音源。それだけでもガッカリ感満載で催眠効果抜群です。さすがコブラ。ここでWikipediaの「コブラ科」から「毒」の項を引用しましょう。

本科の構成種が有する毒は神経毒と呼ばれる種類のものである。高い即効性を持ち、獲物となる動物の神経の放電を塞ぐことで、麻痺やしびれ、呼吸や心臓の停止をもたらし、ひいては死に至らしめる。

……あまりに深い納得感。まさに名は体を表す。マキシミアンノ・コブラの演奏の精髄はこの一文に凝縮されています。とにかく「死に至らしめ」られないうちに聴くのを止めるのが最善の策でしょう。

まぁ、ディスってばかりいてもなんですので。こんなコブラの爆遅第2楽章の個人的な賛成点をひとつ。第2楽章の変奏の中で、32分の12拍子L’istesso tempoのところがあります。通常の演奏で、この付点だらけの快速部分のせせこましくてせっかちな感じに凄く違和感がありました。そこをコブラは♩=60で演ります。鍵聖ぽるりーに様が♩=90くらいですので1.5倍増しですね。で、コブラのこの部分のテンポ感、わりと納得して落ち着きます。もちろん全体構成と前後との比較の中での問題なのですが、ここだけはそう悪くない、というのが素直な感想です。

なぜか超遅ではない自作曲に見る自家撞着

Liszt Piano Sonata/Cobra Piano Sonata op.7    Maximianno Cobra

さて、コブラの鍵盤音楽CDはベートーヴェンの32番以外に何点かあります。これらは今、主にCDではなく配信でリリースされています。たとえばモーツァルトのソナタ集。遅い、とはいえ想定の範囲。サンプリング音源がピアノではなくチェンバロですが、バッハのゴールドベルク変奏曲や平均律もあります。ピアノ音源によるものでは、リストのソナタを46分32秒かけて演るものもあります。これは意外と耐えられます。ま、通常の当社比150%増しくらいで済んでいるとこともありますし、リストのピアノ書法が遅いテンポゆえによく聴き取れるという利点は確かにあります。ただ冒頭のAllegro energicoがあまりに弱々しかったり、第3部の冒頭のフーガ風の部分がひどく淋しげだったり、場所によってはなぜか通常演奏とあまり変わらないテンポ感だったり、サンプリング音源制作の安っぽさが全開したり、と耐え難きを耐える箇所が次々と聴き手に試練としてのしかかってきます。でも、ギリ許せるかな、という演奏です。ただ、詳しくは学んでいませんが、指揮法の観点から発生したと思われるテンポ・ジュスト理論を本当にピアノ曲にまで敷衍してよいのか、大いに疑わしい所ではあります。たぶん大元の音楽学者の論文には「どんな音楽でもOK!」の理論武装があるのでしょうが、それを読み解く気力はありません。

で、問題はリストのソナタに併録されているコブラ自作のピアノソナタです。曲としてはありがちな近現代ソナタ(そんなにゲンダイオンガクではない)で、単一楽章12分くらいの作品です。これ、聴いていて超遅感はありません。高速フレーズも随所にあります。すると現実的に既存の楽曲から高速性を奪いまくったテンポ・ジュスト理論の信奉者が何やってるんだという突っ込みどころが満載となります。テンポ・ジュスト理論の自家撞着がこの自作ピアノソナタの演奏には見え隠れしている気がします。そういう観点からこの曲はリリースしない方が良かったのではないかとジジイの老婆心が鎌首をもたげました。コブラには自作の交響曲の録音もあるようです。ピアノソナタの出来からしてとても聴く気にはなれませんので、真摯に聴いた!という奇特な方はテンポ・ジュスト理論との関連性を検討した上でMuse press社までご感想をお寄せください。

*1:テンポ・ジュスト理論(wikipedia 覆面オーケストラの項の脚注から引用)
コブラが信奉する「テンポ・ジュスト理論」は、オランダの音楽学者ヴィレム・レッツェ・タルスマが1980年代に公表した学説で、古典派の時代には指揮棒の1往復を1拍として数えていた(つまり、この理論にもとづいて演奏されると、指揮棒の1往復を2拍として演奏する現在の通例よりも、単純計算で2倍の時間を要することになる)と主張している。ただし、音楽学界でこれを支持する研究者はほとんどいない。コブラ指揮の録音はこの理論に基づいているため、ベートーヴェンの交響曲第9番《合唱つき》が110分(通常では70分余り)、ベートーヴェンの交響曲第5番が76分(通常では35分程度)、モーツァルトの交響曲第40番が69分、モーツァルトの交響曲第25番が52分もかけて演奏されている。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。