あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(9) 自由な持続の記譜法の変化-2

2 De Kooning(1963)自由な持続の記譜法の変化

 「De Kooning」はホルン、打楽器、ピアノ(チェレスタ兼)、ヴァイオリン、チェロの4人奏者による室内楽編成。この曲は自由な持続の記譜法による新たな作品群の始まりの曲と位置付けられる。これまでの自由な持続の記譜法の楽曲では、すべての音符が五線譜上に垂直に重ねられて配置されていた。「De Kooning」では新たに破線と矢印付き垂直線が用いられるようになった。破線は音符と音符をつないで演奏順を明確に指定する。矢印付き垂直線は同時に鳴らされる音符を示す。この2つが「De Kooning」から始まった自由な持続の記譜法に生じた変化である。破線と矢印付き垂直線はスコア冒頭の演奏指示でも説明されている。

1)破線は楽器が連なる順番を示す。
2)先行する音が消え始めたら各楽器が入ってくる。
3)矢印付きの垂直線は同時に鳴らす楽器への合図を示している。
4)それぞれの音は最小限のアタックで。
5)ダイナミクスは終始とてもひかえめに。
6)装飾音はゆっくり演奏される。
7)ピアノとチェレスタ(1人の奏者で)
8)打楽器(奏者1人)は以下の楽器を演奏する。
 大型ヴィブラフォン(モーターなし)
 チャイム
 バスドラム(ティンパニのスティック)
 中型テナードラム(フェルトのスティック)
 アンティーク・シンバル

1) Broken line indicates sequence of instruments.
2) Each instrument enters when the preceding sound begins to fade.
3) The vertical line with an arrow indicates the instrument cueing in a simultaneous sound.
4) Each sound with a minimum of attack.
5) Dynamics very low throughout.
6) Grace notes to be played slowly.
7) Piano-Celesta (1 player).
8) Percussion (1 player) requires the following instruments:
 large vibraphone (without motor)
 chimes
 bass drum (timpani sticks)
 medium tenor drum (felt sticks)
 antique cymbals[1]

Feldman/ De Kooning (1963)

score: https://issuu.com/editionpetersperusal/docs/ep6951

Feldman/ De Kooning
Feldman/ De Kooning 演奏動画[2]

 Bernardは、この曲の記譜法から始まった破線と矢印付き垂直線の役割と特性を次のように指摘する。「これら(訳注:破線と矢印付き垂直線)は作曲家が小節線に頼らずとも連続性と同期性を区別できるようにする they enable the composer to make a distinction between the successive and the simultaneous without recourse to bar lines.」[3] 役割を持っている。2つの線の特性については、「実際の鳴り響きの中に反映されている、これらのむしろ余白の多い外見は絵画よりもドローイングを思い出させる Their rather spare appearance, reflected in their sonic realization, is more reminiscent of drawings than paintings」[4]。この2種類の線は記譜と演奏における実用的な側面と、ドローイングのあり方に通ずる概念的な側面をあわせ持っているといえる。矢印付き垂直線の矢印は大抵が下向きで記されているが、上向きで記されている箇所がある(セクション23、24、25、26、27、30)。演奏指示には上向き、下向き矢印の違いについて言及されておらず、先行研究でもこの点を指摘しているものは見つからなかった。単にスコアでの見やすさの問題かもしれないが、この書き分けについてまだ判然としない。

 フェルドマンはここでもダイナミクスとアタックはとても控えめに、装飾音はゆっくり演奏するよう指示している。破線と矢印付き垂直線以外での記譜にまつわる大きな変化として、小節線と拍子記号があげられる。この2つは通常の楽曲および記譜法では珍しくないどころか必須事項だが、フェルドマンの楽曲群では久しぶりに登場するので特筆すべき変化とみなしてよいだろう。全7ページのスコアは冒頭の番号なしの部分と、作曲家自身によって番号が付けられた1-32までのセクションで構成されている。楽曲の構成は下記のように図示することができる。

冒頭 | セクション1-15 | セクション16 | セクション17-32 | 最後の1小節

 それぞれのセクションの趣も長さも様々だが、この曲のちょうど真ん中に位置するセクション16はやや特殊な役割を持っている。セクション16には小節線と拍子記号が登場する。しかし、突然この曲が拍節の感覚や明確なリズムを持ち始めるわけではない。ここでの小節線と拍子記号は正確な長さの沈黙をもたらす役割だ。小節線、拍子記号、メトロノーム記号が記されている箇所には全休符が書き込まれており、音はひとつも鳴らされない。このセクションは自由な持続の記譜法によって記されている部分と小節線で区切られた部分から構成され、この2つが交互に配置されている。Aを自由な持続の記譜法の部分、Bを小節線で区切られた部分とすると、セクション16を以下のように表すことができる。

セクション16 見取り図
| A || B1 | B1 || A || B2 | B2 || A || B3 | B3 || A || B4 | B4 | B4 ||
B1: 6/8拍子 ♩. = 52 B2: 5/4拍子 ♩ = 76 
B3: 3/2拍子 二分音符= 52 B4: 3/2拍子 二分音符= 76

 セクション16の構成は音が鳴る部分(A)が測られた沈黙(B)によって断ち切られている。こうすることでAの各部分は互いの連続性や関係性を構築せず、各々が独立して存在し続ける。曲全体の構成に戻って考えると、この曲は2つの記譜法が混ざったセクション16を中心とするシンメトリー構造を形成しているともいえる。

 スコアを見ての通り、この曲も他のフェルドマンの楽曲と同じく、どの部分に着目すべきかを見定めるのが難しい。今回は頻出する音高、各パート間の音の動きや受け渡しの様子に着目して各セクションを見ていく。各セクション内の音のアタックの数も記した。この数は各セクションの長さの目安となり、和音1つで終わるものから、1ページ以上にわたるものまで、その長さは様々だ。

冒頭:アタック数9
アンティーク・シンバル→ピアノ→ヴァイオリン→チャイム→チェロ→ホルン→チェロ→ピアノ→バスドラムの順番で、この曲のほぼ全てのパートが登場する。各パート間は極端に離れた音域で配置されているので、演奏順を示す破線は鋭角な輪郭を描く。最初に鳴らされるアンティーク・シンバルのG#6がピアノで異名同音のA♭6に受け渡される。その後、ヴァイオリンとチャイムとチェロを挟んでホルンがG#3を鳴らす。このセクションの最後のアタックであるバスドラムがトレモロを鳴らし、セクション1へと移行する。

セクション1:アタック数4
前のセクションに引き続きホルンのG#3とヴァイオリンの開放弦でのA4が矢印付き垂直線で結ばれている。この2音の余韻の中で残りのパートが音を鳴らしていく。前のセクションに続いてここでもホルンがG#3を、チェロがフェルマータの付いたF#2を鳴らす。

セクション2:アタック数2
ホルン、ヴァイオリン、チェロが矢印付き垂直線で鳴らされる。ここでもホルンはやはりG#3を鳴らす。この後に続くチャイムのD♭4-C5の2音は冒頭のセクションにも登場するが、この2音の前後の音がそれぞれのセクションで異なるため、音を聴く限りでは同じ和音が再び現れた感覚は希薄である。楽譜上で初めて同定できる。

セクション3:アタック数4
ホルン、ピアノ、チェロによる和音から始まる。アルペジオで鳴らされるヴィブラフォンの和音(G3-F#4-B4-F6)の余韻の中でセクション4へ移行する。このセクションからピアノ兼チェレスタが構成音の多い和音を鳴らし始める。

セクション4:アタック数5
先のヴィブラフォンの和音の最高音F6がホルンのF3に受け渡される。ここではチャイムD6→チェロC#3→チャイムD6が破線で谷を描いている。

セクション5:アタック数2
ホルンのA♭3とヴァイオリンの開放弦G4で始まる。ホルンのA♭3はG#3と異名同音の関係にあることから、聴取からではわかりにくいが、スコアを見ると一目瞭然で、曲の開始以降からセクション5までの間はG#/A♭が強調されているとわかる。

セクション6:アタック数2
これまでは出だしはホルンが必ず加わっていたのに、ここで様相が変わる。ホルン以外のパート(アンティーク・シンバル、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ)が矢印付き垂直線によるテュッティで鳴らされると、そのエコーのようにホルンがF3を鳴らす。

セクション7:アタック数6
旋律とはいえないまでも、チェロがG4-F3-E♭2の3音からなるまとまった動きを見せる。この3音の下行音型は音高を変えて次のセクションにも登場する。

セクション8:アタック数14
前半では最も長いセクション。いくつかの注目すべき出来事が起きている。冒頭のホルンのA♭3はチャイムを挟んでチェロに受け渡され、最終的にヴィブラフォンに行き着く。それぞれ音域が異なるので耳では認識しにくいものの、スコアを見ればこの3音のつながりをはっきり認識できる。セクション7と同じくチェロの3音からなる下行音型が音高を変えて(G♭4-E3-F2)現れる。最後はE♭が3つのパート間(チャイムE♭4-チェレスタE♭3-チェロ開放弦E♭2)で受け渡されて終わる。

セクション9:アタック数5
チェロの下行音型が変化してD♭3-G4-F3の山型の音型ができ、ここにヴィブラフォンのG4が加わった4音のまとまりとなる。

セクション10:アタック数3
構成音7つのピアノの和音、ヴァイオリン、ホルンが矢印付き垂直線で結ばれて複雑な響きの和音を鳴らす。その後、チェレスタとヴィブラフォンがエコーのように連なる。

セクション11:アタック数1
ヴァイオリンとチェロによる音域の離れた2音が鳴らされるのみの儚いセクション。

セクション12:アタック数3
出だしのヴァイオリンのC4はセクション10のチェレスタのC4とヴィブラフォンのC6を引き継いでいる。チャイムのG#4はセクション13と14のホルンのG#3を予示すると解釈できる。しかし、この解釈もスコア上に止まる。実際の鳴り響きでは音域と音色が異なるため、同定するのが難しい。

セクション13:アタック数2
スコアのページが切り替わるので把握しにくいが、チャイムのD#6にホルンのG#3が続き、完全5度の音程を形成している。曲の開始からしばらくの間、G#が強調されていたことをここで思い出すことができる。

セクション14:アタック数2
ここでもホルンがG#3を鳴らす。このセクションではピアノの左手がチェロと矢印付き垂直線で結ばれ、右手はバスドラムと結びついている。音を聴いているだけではわからないが、スコアを見ると垂直線が使い分けられているとわかる。

セクション15:アタック数2
セクション14から派生したピアノの和音が装飾音として2度鳴らされる。その後のフェルマータはこの曲の前半がここで終わったことを告げる。

セクション16:アタック数19
このセクションは前述したように、音が鳴る場面と、小節線と拍子記号が用いられた全休符の数小節が交互に配置されている。ホルン、チャイム、チェロが同時に鳴らされると、ピアノとチェレスタがC#をオクターヴで打鍵する。チェロのピツィカートのF2と開放弦のF#を経て、さらに高い音域のC#オクターヴ(C#5、C#7)がピアノで再び鳴らされる。その後、6/8小節で2小節分の沈黙を挟み、ピアノの和音にアンティーク・シンバルが連なる。よく見ると、ピアノの和音にタイが記されていることに気付く。このタイは次に続く4/5拍子の2小節に及んでおり、2小節間の全休符は厳密には完全なる無音や沈黙ではなく、ピアノの和音の響きがまだ残っている状態だ。その次にホルンのF3が鳴らされ、テナードラムがその後を追う。3/2拍子で2小節分の沈黙を挟み、今度は音域の広いピアノの和音がチャイム、チェロ、ヴィブラフォンによる単音と交互に現れる。ピアノの3番目のアタックはこのセクションの初めにも出てきたC#オクターヴ(C#5、C#7)で、この音をチェロが異名同音のD♭3で引き継ぐ。3/2拍子で3小節分の沈黙がセクション16を締めくくる。

セクション17:アタック数3
セクション17から曲の様相がやや変化する。おおよその傾向を述べると、ピアノ、チェレスタ、ヴィブラフォン、チャイムが特定の和音を繰り返し、その合間に他の単音楽器が連なるパターンが顕著になる。セクション17はチェレスタの和音B3-C4-E4-C#5、ホルンのD3、チェロのE♭2で始まり、チャイムとチェロがそこに続く。

セクション18:アタック数5
ここで現れるピアノの和音C4-E3-C#5はセクション27までの範囲で中心的な役割を担う。「中心」という言葉は、全面的なアプローチによってそれぞれの音を均等に扱おうとするフェルドマンの創作態度にそぐわないかもしれないが、この和音が高い頻度で現れることを考えると、やはりここでは他の音よりもひとつ抜きん出た役割を持っていると解釈できる。ピアノの和音以外に注目すべき点はチェロとホルンのA♭だ。この曲の冒頭で異名同音であるG#がチェロ以外の全パートで鳴らされ、特にホルンにはG#3とA♭3がその後のいくつかのセクションで用いられている。だが、このG#とA♭の回帰はスコアを熟読しているから見えてくる事柄であって、実際の演奏を聴いている最中にははっきりと思い出せないだろう。せいぜい、ぼんやりと記憶の糸を手繰るしかない。このような、完全に思い出せないものの、なんとなく以前聴いたような、観たような感覚はフェルドマンとデ・クーニングの作品に共通する、記憶よりも忘却を促す性質に起因している。

セクション19:アタック数4
先の和音C4-E3-C#5がチェレスタで、A♭はチェロで現れる(音域はA♭2)。これらの音が繰り返し現れることによって以前聴こえた音に対する記憶を念押ししてくるかのようにも見えるが、まったく同じものを繰り返しているわけでもない。構成音と音域は同じだが、その前のセクションではピアノで鳴らされた和音が今度はチェレスタになって音色が変わっている。

セクション20:アタック数4
C4-E3-C#5の和音がピアノに戻り、さらにチャイムのE♭が加わって、今までとやや違う響きとして現れる。チェロは引き続きA♭2を鳴らす。バスドラムのロールで終わる。

セクション21:アタック数7
セクション20からのバスドラムのロールの最中にセクション21が始まる。C4-E3-C#5の和音はここではチェレスタに交替し、1オクターヴ下のC3-E3-C#4で鳴らされる。この和音はヴィブラフォンのC4-E3-C#5へ引き継がれる。これらの和音の合間にチェロとチェレスタがそれぞれA♭3を鳴らす。

セクション22:アタック数5
C3-E3-C#4の和音はピアノに戻り、1オクターヴ上のC4-E3-C#5でホルンのB2を伴って鳴らされる。チャイムのD♭4-C5はここで初めて登場するのではなく、冒頭部とセクション2で既出である。さらにセクション17では転回したC4- D♭5として現れている。しかしながら、ホルンで頻繁に鳴らされるA♭と同様、このチャイムの和音を以前のセクションの記憶と照合して思い出すことのできる聴き手はどれほどいるだろうか。また、作曲家自身も、今聴いている音をそれ以前に聴いた音と結びつけて聴いてほしいとは思っていなかっただろう。

セクション23:アタック数3
引き続きピアノでC4-E3-C#5の和音がチェロのF2を伴って鳴らされ、チャイムのD♭4-C5が最後に鳴り響く。

セクション24:アタック数1
チェロの開放弦D3を伴ったチェレスタの和音C4-E3-C#5のアタックだけで完結している。

セクション25:アタック数1
テナードラムのロールと同時にフェルマータ付きのホルンA♭2が鳴らされる。テナードラムはセクション26へと途切れなく続く。

セクション26:アタック数1
テナードラムのロールの中でピアノのC4-E3-C#5の和音とチェロのB2が同時に鳴らされる。

セクション27:アタック数2
引き続きピアノのC4-E3-C#5の和音が登場するが、ここではヴァイオリンの開放弦B4を伴う。B4はチェレスタのB5に受け渡される。

セクション28:アタック数4
同時に鳴らされるホルン、ピアノ、チェロで始まる。その後のチェレスタの和音はこれまで繰り返されてきた和音にB3が加わり、構成音4つのB3-C4-E3-C#5ができあがる。この和音はセクション29、30の中心的な役割を担う。この和音にチェロのB♭2が続く。B♭はこの後のセクションでも何度か現れる。

セクション29:アタック数1
引き続きチェレスタのB3-C4-E3-C#5が今度はバスドラムのロールと共に打鍵される。

セクション30:アタック数16
これまで短いセクションが続いていたのに、突然長いセクションが始まる。矢印付き垂直線で繋げられた和音、破線で描かれた極めて鋭角的な輪郭、装飾音、太鼓類のロールなど、この曲のあらゆる要素がここで一気に噴出したスコアの外見も激しい。ピアノに交代したB3-C4-E3-C#5の和音はこれが最後の出番となり、このセクションの後半に現れるチェレスタのC#3-E3-F3-A♭3がこの後のセクションでも何度か繰り返される。単音の動きで注目すべきはB♭の頻出だ。チェレスタのB♭5、ヴァイオリンの開放弦でのB♭4、アンティーク・シンバルのB♭6が破線で結ばれて鋭角線を描いている。その後に続くピアノのD2-C4-C#4は、音域や音色を変えて曲の終わりまで何度か登場する。また、この3音のうちの2音C#とCが、冒頭部、セクション2、17、22で登場したD♭-Cの異名同音である。このことから、D♭-CあるいはC#-Cも随所に現れるA♭と同じく、漠然としたスコアの中で一定の特性を持っているといえるだろう。

セクション31:アタック数4
チェレスタがB3-C4-E3-C#5の和音を鳴らす。チェロのD♭2とチャイムのD4が破線で結ばれて、さらにその後セクション32の冒頭でホルンがC3を鳴らすことから、先ほど指摘したD-C#-Cの存在をここにも感じることができる。

セクション32:アタック数16
セクション32の最後に小節線が引かれ、メトロノーム記号も記されている。この最後の1小節を本稿ではコーダとみなす。ここには拍子記号が記されていないが、全音符が書かれていることから2/2拍子と考えてよいだろう。各パートの音の動きに目を向けると、ホルンのC3を伴ったピアノのC#4-E5-F4-A♭4の和音で始まる。この和音の後、ホルンがC3を1回目は装飾音で、フェルマータを挟んだ2回目は装飾音ではない音価で鳴らす。このC3にピアノの低音域でのクラスター状の和音が続く。2つ目のピアノの和音にはチャイムのC4、チェロのD♭2、ホルンのC3が連なり、バスドラムのロールに行き着く。再びピアノのクラスター状の和音が装飾音で鳴らされた後、またもホルンのC3が2回登場する。最後の1小節はホルンが引き続きC3、チャイムE♭4、ヴァイオリンの開放弦E4、チェロD♭2がひきのばされて終わる。このセクションではCが各パートと様々な音域で現れ、他の音高よりも抜きん出た存在だとわかる。

 数に基づくまとまった推察や結論を出すには至らなかったものの、「De Kooning」における音の動きをできるだけ詳細に記述してみた。この曲から始まった破線と矢印付き垂直線によって、自由な持続の記譜法の外見に鋭角な輪郭線が加わった。各パートの音のなりゆきを予測できなかった、これまでの自由な持続の記譜法の楽曲と比べて、「De Kooning」において音の動きをたどることはそれほど難しくない。それぞれの音の動きを見てみると、他の楽曲と同様、やはり反復やオクターヴ重複といった方法で特定の音が強調されていることもわかった。しかし、同じ単音や和音であっても、その都度違う音域や音色で登場するので、音を聴いているだけではどの音がどこで何回現れるのかを把握しにくい。この曲でもフェルドマンは常に「今」を中心に据え、その前後、つまり過去と未来とのつながりを断ち切らせようと試みている。記憶を阻む様々な仕掛けによって、この曲は出来事を覚えるよりも忘れることに重きを置いているともいえる。もちろん、これらの仕掛けは曲を聴いただけで見破ることはできない。

次のセクションでは「Chorus and Instruments」(1963)の記譜法と演奏解釈から、この曲における時間と空間の性質を考察する。


[1] Morton Feldman, De Kooning, Edition Peters, No. 6951, 1963
[2] このアンサンブルによる演奏ではホルンがFで演奏されているが、スコアの演奏指示にはホルンをin Fで読むとは書かれていない。また、フェルドマンのほとんどのスコアの管楽器パートは実音表記のため、この演奏のホルンは楽譜の読み間違いの可能性が高い。しかし、自由な持続の記譜法による室内楽曲がどのように演奏されているのか、とりわけ演奏者間のアイ・コンタクトなど、演奏中のコミュニケーション方法を見る際にこの演奏は参考になる。
[3] Jonathan W. Bernard, “Feldman’s Painters,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 199
[4] Ibid., p. 199

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は12月30日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(9) 自由な持続の記譜法の変化-1

 前回は1960年代前半のフェルドマンの創作を語るうえで鍵となる概念「垂直 vertical」について考察した。フェルドマンは自身による文章やケージとの対話の中で「垂直」が何を意味するのかを語っていた。フェルドマンの言説や関連する論考から、絶え間なく現れる「今」によってもたらされる時間の経験が「垂直」なのだと解釈できる。今回は「垂直」な時間から派生したと思われる記譜法の変化を、画家ウィレム・デ・クーニングに捧げた室内楽曲「De Kooning」(1963)を中心に考察する。

1 記憶よりも忘却を促す作用−フェルドマンとデ・クーニング

 これまで何度かにわたって解説してきたように、1960年代のフェルドマンの楽曲の多くは音符の長さ(持続、音価)が演奏者に委ねられた「自由な持続の記譜法」で書かれている。この記譜法で記される音符には符尾(音符の棒)と符桁(音符の旗)がない。この記譜法はこの時代のフェルドマンの楽曲を特徴付ける要素の1つでもある。自由な持続の記譜法を用いることで、フェルドマンは拍子や規則的なリズムの制限を受けない可塑的な音楽を実現しようとしていた。フェルドマンが自由な持続の記譜法による一連の楽曲で追求していたのは、規則的な拍節に即して経過する従来の音楽的な時間とは異なる「垂直な時間」だった。これまでにとりあげた「For Flanz Kline」(1962)や「Piano Piece (to Philip Guston)」(1964)は、どちらも起承転結を完全に欠いた独自の時間の感覚をもたらす楽曲である。時間の経過について語る時、私たちは「時間が進む」と言う。だが、フェルドマンのこれらの楽曲における時間は「進む」感覚が希薄だ。音が鳴って消えて、次の音が現れる。この繰り返しから楽曲ができている。符尾のない音符が配置されたスコアに目を通すと、フェルドマンが自由な持続の記譜法で行ったことは、音符を五線譜に書くというよりも音符を紙上に置いていく行為に近いと言える。自由な持続の記譜法は1960年頃から約10年間続き、1950年代の図形楽譜が次第に複雑になってきたのと同じく、自由な持続の記譜法にも変化が見られる。「音をあるがままにする」方法を模索していたフェルドマンだったが、1963年の室内楽曲「De Kooning」では今までよりも一歩踏み込んで音が鳴らされる順番に介入し始める。

Feldman/ De Kooning(1963)

 「De Kooning」はタイトルから見てわかるとおり、フェルドマンの友人で抽象表現主義画家のウィレム・デ・クーニング Willem De Kooning (1904-97)に捧げられている。もともとこの曲はハンス・ネイムスが監督、撮影したデ・クーニングのドキュメンタリー映画[1]の音楽として作曲されたが、映画音楽というよりも独立した室内楽曲として位置づけられている。楽曲と記譜法を検討する前に、芸術と創作に関してフェルドマンとデ・クーニングがどのようなつながりを持っていたのかを見てみよう。フェルドマンはデ・クーニングが実際に絵を描いている様子を驚きとともに振り返っている。

デ・クーニングの映画を観たのならわかるはずだが、デ・クーニングの絵を観ていて魅力的だったのは、彼の絵を観るとそれらはとてもとてもすばやく見えるのに、彼が描いている姿を見てみると、彼がとてもゆっくりと描いているということだ。彼がよく使っていた大きな筆で、このようにして(訳注:ゆっくりとした動きで描くことによって)描き進めると、ここで何かが削ぎ落とされていく様子が見えてくる。その一連の方法によって、彼が描く様子はジェスチャーのように見えるだろう—だが、そうではない。それはスローモーション状態にあり、魅力的だ。私はその様子を信じられなかった。私はこの映画に関わり、毎日スタジオにいた。それでもまったく信じられなかった。とてもゆっくりなのに、すべてが速く見えたのだ。非常に興味深い。

However, if you saw a movie of de Kooning, what was fascinating about watching de Kooning paint was that when you look at his pictures they look very, very fast but if you see him paint, he paints very slowly. Because of the way he would use a big brush, he would go like this and you would see that something is thinning out here, it seems gestural—but it’s not. It’s in slow motion. It’s fascinating. I didn’t believe it. I did this movie and I was in the studio every day. I just didn’t believe it. Very slow and everything looked like speed. Very interesting.[2]

 疾走するような荒々しい筆遣いの痕跡がいくつも重なっているデ・クーニングの絵画だが、フェルドマンがスタジオで目撃したのは、実にゆっくりとした動作で描き続ける画家の姿だった。絵にはスピードが感じられるのに、そのスピード感や疾走感はゆっくりとした動きから生まれているという事実にフェルドマンは驚愕した。上記のフェルドマンの回想はその驚きが率直に表されている。デ・クーニングの絵画の中の速さと画家が絵を描く動作との関係をフェルドマンの音楽にひきつけて考えてみると、1960年代の自由な持続の記譜法による楽曲の特性を思い出すことができる。例えば第7回でとりあげた「For Franz Kline」から聴こえてくるのは、楽譜に整然と並んだ音符とは正反対の、様々な方向からそれぞれの楽器の音が絶えず鳴り響く静かな混沌だった。この曲では楽譜の外見と実際に聴こえてくる音との乖離が指摘される。「De Kooning」でも同様の乖離が見られるのだろうか。あるいはこの曲から始まった自由な持続の記譜法の変化にともなって、これまでとは違う新たな側面を見つけることができるのだろうか。この点については後ほどスコアを用いて検討するとして、次に、デ・クーニング側から見たフェルドマンの音楽について、フェルドマンとも親交のあった美術家で批評家のブライアン・オドハーティ[3]の論考を参照してみよう。

特にこの時期(訳注:1950年代中頃)のデ・クーニングの絵画はいくつもの取り消しによって散らかった状態で、トランプのカードでできた家は絶えず吹き倒されている。役者の感覚で言うならば、この絵がフィクションで、情熱に溢れた夢でもあると確証する声を絵にもたらすのは、このような吹き倒しなのだ。だから私はしばしばデ・クーニングの表現主義を「表現主義を欠いた表現主義」と呼んでいる。その声はほとんどかき消されそうな反復と残響に苛まれている。

A de Kooning painting, particularly of this period, is a mess of cancellations, house of cards continually being blown down. It’s the blowing down that brings this voice into the picture, certifying it as a fiction, as a dream of passion, in the actor’s sense. Which is why we often call de Kooning’s Expressionism “expressionism without expressionism.” The voice suffers such replication and echoes that it is almost extinguished.[4]

 ここでオドハーティは、抽象表現主義の様式がそれぞれの画家の間で既に確立された1950年代中頃のデ・クーニングの作品を「表現主義を欠いた表現主義」と称している。例えば、後にこの論考の中で語られる1955年のデ・クーニングの作品「Gotham News」を観てみると、フェルドマンがこの絵から感じ取った「速さ」と、オドハーティが見出した「いくつもの取り消しによって散らかった状態」が何を指しているのかがいくらか具体的に想像できるだろう。

De Kooning/ Gotham News (1955)
https://www.dekooning.org/the-artist/artworks/paintings/gotham-news-1955_1955 – 49

 「Gotham News」において、キャンヴァス一面に広がるすばやく荒々しい筆致(しかし、フェルドマンの記憶によれば実際はゆっくりとした動作で描かれている)は輪郭やかたちを形成する間もなく次々と現れる。何かのかたちができるかと思いきや、トランプのカードでできた脆い家のようにそれはすぐに吹き飛ばされて倒壊してしまう。倒壊による破片が片付くことなく次の家、つまりかたちや輪郭が姿を現すが、またも完成前に倒れてしまう。この繰り返しによってデ・クーニングの絵画が構成されている。オドハーティの言葉を借りると、デ・クーニングの1950年代中頃の作品を「いくつもの取り消しによって散らかった状態」と評することができる。さらにオドハーティはフェルドマンの音楽が提起する「表面」の概念に着目して絵画と音楽両方における時間と空間の問題を考えていく(「表面」については次回考察する予定)。ここでの思索はフェルドマンの音楽がもたらす時間と、「散らかった状態」に喩えられるデ・クーニングの絵画における空間を理解する一助となるだろう。フェルドマンの音楽がもたらす時間の特性を音楽以外の領域(ここではデ・クーニングの絵画における時間と空間の特性)に敷衍する試みとして、まず、オドハーティはフェルドマンの音楽を以下のように描写する。

 モートン・フェルドマンの音楽――ほとんど聴こえない音楽――から求められる注意は表面という概念を提起している点で一貫している。これは示唆にあふれている。たとえしっかり集中できなくても、人は音がどこから生じるのかを認識している。「どこ」はひとつの考え方として私たちに提示される。音は進むのではなく、同じ場所で積み上がって蓄積するだけだ(ジャスパー・ジョーンズのナンバーズ[5]のように)。このことは過去を覆い隠し、さらにはそれを破壊しながら、未来の可能性を消し去る。関係性の概念(リズムなど)を剥奪されて、現在というものがそこにあるすべてのように見える。沈黙による持続、音のしぶきと塊がある。このようにして、ある種の垂直な動き(蓄積)、水平な動き(連続しているが関係性ではない――因果関係を欠いている)が存在している。フェルドマンの音楽における空間はこれらの座標の各々がはぐらかし合って描かれる。互いに矛盾しているのでこれらの座標は打ち消し合う。また、互いに矛盾する必要がないのでこれらの座標は互いに立ち入ることもない。そういうわけで、この音楽は存在しもしないグリッドの考え方に悩まされている。ここでもたらされるのは時間の中の音楽だけでなく、時間の新たな概念だ。

The attention demanded by Morton Feldman’s music—which almost cannot be heard—is so uniform that it suggest the idea of a surface. This has large implications. One knows where the sounds are coming from, even though one can’t quite focus it; “where” is presented to us as an idea. Sounds don’t progress but merely heap up and accumulate in the same place (like Jasper Johns’ numbers). This obliterates the past and, obliterating it, removes the possibility of a future. Deprived of relational ideas (rhythm, etc.), the present seems to be all there is. There are durations of silence and sprays and clusters of sound. There is thus a sort of vertical movement (accumulation) and a horizontal movement (succession but not relationships—a missing causology). The space in Feldman’s music is described by the way each of these co-ordinates equivocates. They cancel each other because they are contradictory, and preserve each other because they need not be. The music, then, is haunted by the idea of a grid that does not exist. What is offered is not just music in time, but a new conception of time. [6]

 一読しただけでは文意を捉えるのがわかりにくい記述ではあるが、これまで本稿で解説してきたフェルドマンの「垂直」の概念と、彼が忌避しようとした「水平」あるいは連続性を思い出すと、ここでオドハーティが言いたかったことはそれほど難解でもないだろう。1960年以降の自由な持続の記譜法によるフェルドマンの音楽がもたらす時間は、過去や未来を退け、「現在」あるいは「今」が際限なく蓄積される。これは、それぞれの出来事や瞬間は前後とのつながりや関係を持たないことも意味する。音楽と異なり、絵画の場合はキャンヴァスの線や点や色が痕跡として残るので、見方によっては各々の部分を他の部分と組み合わせて関係性を見出すことも可能だろう。このような絵画の物体としての可視性にもかかわらず、オドハーティはデ・クーニングの絵にフェルドマンの音楽における時間に通じる特性を見出そうとする。これまでに本稿では1950年代の五線譜による楽曲や1960年代の自由な持続の記譜法による楽曲を明確な参照点のない「なんとも言い難い曲」と呼んできた。この「なんとも言い難い曲」も時間の観点で解きほぐすと、その生成のメカニズムがぼんやりと浮かび上がってくる。オドハーティによれば「フェルドマンの音楽では記憶と忘却が制御されている。あるいは、むしろ忘却を促している there is a control of remembering and forgetting, or rather a prompting to forget.」[7]。覚えることよりも忘れることが推奨される聴き方は、楽曲の構成要素を有機的に関連付けながら全体を構築する近代の器楽曲の「望ましい」聴取とは対極に位置する。フェルドマンの音楽では部分と全体の視点は意味をなさず、今ここで聴こえる音がその曲そのものである。したがって、それ以前に聴いた音、今聴いている音、これから聴く音を結びつけて全体像を構築する必要がない。ここでは「現在は未来かもしれないし、過去かもしれない The present may be the future or the past.」[8]。この判然としない時間と時制は「フェルドマンの楽曲に感じられる、論理と不可解が正確かつ狡猾に重なっている感覚 the feeling one has in Feldman’s work of an exact and maddening superimposition of logic and enigma」[9]と言い表すこともできる。

 以上のようにオドハーティはフェルドマンの音楽における時間の特性の解明を試みた後、「フェルドマンの音楽が空間について非常に洗練された観念を構築するのとちょうど同じく、デ・クーニングの1950年代初期と中頃の絵画が時間についての洗練された観念を構築する just as Feldman’s music constructs a very sophisticated idea of space, de Kooning’s paintings of the early and mid-fifties construct a sophisticated idea of time.[10]」と述べ、これまでの音楽と時間の議論を音楽における空間、絵画における時間にまつわる議論へと発展させていく。ここで急に空間が現れる点にオドハーティの論理の不明確さが否めない。だが、音楽的時間の特性が「垂直」や「水平」といった視覚的な表現や比喩(第8回で引用したコップに硬貨を投げ入れるエピソード)を用いて語られてきたことを考えると、時間についての思索を言語化する場合、視覚的、空間的要素を伴うなんらかのイメージや事物のあり方に依拠せざるを得ない側面があるのも確かだ。オドハーティーはさらに次のように続ける。

通常、空間を見て、時間を聴く。時間を見て、空間を聴くことはできるだろうか? これは共感覚の考え方ではない。というのも、ここでは異なる感覚の交差や統一が求められているわけではないからだ。これは形式的な分類である。

Ordinarily one sees space and listens to time. Can one see time and listen to space? This is not a synaesthesic idea, for it demands not crossover or union of senses, but their formal separation.[11]

 オドハーティは共感覚の観点で時間と空間を論じているわけではないと明言する。ここでの彼の議論は聴覚と視覚、時間と空間、音楽と絵画をひとまとめにして共通項を見出そうとしているのではなく、それぞれの事柄を現象や感覚の次元にまで掘り下げた結果、見えてくる特性を抽出しようとしている。この態度はおそらくフェルドマンがデ・クーニングら抽象表現主義の画家たちに抱いていた共感とも重なるだろう。媒体や方法の差異は分類や形式上の差異にすぎず、音楽であれ、絵画であれ、そこからどのような経験と感覚がもたらされるのかを突き詰めていくと、時間と空間の問題にたどり着いてしまう。媒体は違っていても、フェルドマンの音楽がもたらす記憶と忘却の関係はデ・クーニングの「Gotham News」におけるそれらの関係と近しい。なぜなら、「このようにして(訳注:何度も塗り重ねて)その絵は思い出すこと(何かを過去から遠ざけること)と忘れること(過去に上描きすること)との断絶によって満たされている The picture is thus full of discontinuities between remembering (keeping something from the past) and forgetting (painting over it)」[12]からだ。デ・クーニングの絵の中でいくつもの記憶と忘却の積み重ねがキャンヴァス全体を占める様子は、フェルドマンの曲の中で音が次々と現れてそれまでの記憶を打ち消していく様子と重なるといえるだろう。

 実際にフェルドマンの「De Kooning」において、記憶と忘却は実際にどのように作用しているのか、それを描き出すためにどのような記譜の方法がとられているのだろうか。次のセクションではスコアと音源を参照しながら、この曲に迫ってみる。


[1] デ・クーニングのドキュメンタリー映画「デ・クーニング De Kooning」はジャクソン・ポロックのドキュメンタリーと同じコンビ、ハンス・ネイムスとパウル・ファルケンベルクによって1963年に制作された。残念ながら、現在オンラインでは公開されていない。
[2] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 58
[3] Brian O’Doherty (1928-) https://imma.ie/artists/brian-odoherty/ – the_content
[4] Brian O’Doherty, American Masters The Voice and Myth in Modern Art: Hopper, Davis, Pollock, De Kooning, Rauschenberg, Wyeth, Cornell, New York: Dutton, 1982, p. 145
[5] Jasper Johns, Numbers in Color (1958-59) https://www.albrightknox.org/artworks/k195910-numbers-color
[6] O’Doherty 1982, op. cit., pp. 165-166
[7] Ibid., p. 166
[8] Ibid., p. 166
[9] Ibid., p. 167
[10] Ibid., p. 167
[11] Ibid., p. 167
[12] Ibid., p. 167

吉池拓男の名盤・珍盤百選(28) バイデン大統領就任記念 星条旗異聞

Moment with Annette Annette DiMedio(p) Direct-to-Tape Recording DTR8704CD 1994年
Arrangements and Variations for Digital Piano  Gordon Green  CENTAUR CRC 2187  1993年
HIGH FIDELITY OOM-PAH-PAH FOR NON-THINKERS Guckenheimer Sour Kraut Bandほか Jasmine JASMCD 2697 2019年

「Moment with Annette」というアルバムには極めて痛……もとい、極めて珍しい特徴があります。収録曲の解説を演奏者自身が書いていること自体は珍しくありませんが、このアルバムの曲目解説は「演奏者であるAnnette様が創ったポエム」なのです。例えば、(私の拙訳ですみませんが・・・)

橋の上に立ち 月に誘われて水面を見下ろす

彼の影が静かな水に映り 夢が叶う

二人はリズミカルに動き 心の旋律は一つになる

うーーーむ、いったい橋の上で夜中に何をしてるんでしょうかね。さて、このポエム、何の曲の紹介でしょうか、わかりますか? 実はこれ、ショパンの夜想曲第13番ハ短調なのです。ちょっとはづかしいでしゅね。

お次は、

時の流れの中 私の魂は舞い上がる

悲哀と後悔が快く過ぎ行く

私という存在の最奥に飛び込む

そこで歓喜、情熱、そして究極の平和を見つける

このポエムで何の曲だかわかった人、はい、いらっしゃいますか? いたら天才というかもうほとんどエスパーか霊能力者ですね。これはヒナステラのピアノソナタ第1番第2楽章の解説ポエムなのです。収録されているすべての曲(*1)にAnnete様のポエムが付いています。ポエムを読んでも、演奏理解の参考には(たぶん)全くなりません。むろん楽曲の情報性も皆無です。

Moment with Annette – Annette DiMedio(p)

ポエムだらけのアルバムはジャケ写もご覧の通り。ピアノの上に乗っかってグラビアモデルの定番「下から見上げ目線」のポーズ。うーーむ、ちょっと、なんだよなぁという感興と同時に、古い世代のおっさんである筆者は、大切な楽器の上に乗っかるという行為自体に抵抗感が沸き上がります。(ちなみにお前お前お前もだぞ、ピアノに乗るな!)

ではこのアルバム、演奏自体はどうなのか。とある1曲を除いて、まったくフツーの出来です。ダメとか下手とか個性的とかいうのでもありません。ブックレットのポエムほどの破壊力はないのです。では、そのとある1曲とは……まずポエムをご紹介しましょう。

太鼓のリズム シンバルの炸裂 

音の花火を持ってきてください

赤と白と青が空に満ち 大気に歓喜と祝典が溢れるように

うん、これは少しだけ何の曲かわかりますね。そう、スーザ作曲「星条旗よ永遠なれ」です。Annette様はアルバムの最後で星条旗を弾いています。星条旗と言えば、かの魔神Hの定番。多くのピアノ弾きの人生を狂わせたり、昭和の御代には「星条旗を弾くような奴は芸術家にあらず」などと蔑みの象徴にもなっていたりした有名編曲があるのですが、Annette様はなんと自作編曲(arr: DiMedio)を披露しています。しかしこのAnnette様編曲のベースは明らかに魔神Hのもの。なので正確には、Sousa=魔神H=Annette様という表記にすべき仕上がりです。ではどの辺を変えているのか。星条旗の形式をABCBCBとすると、まずAはかなり魔神H編に近いです。続く1回目のBは割と独自性の高い編曲で、魔神H編から低音部のリズムパターンを減らす代わりに、高音部の装飾を手の交差で左手で取り、さらに合いの手的な旋律線を加えて、より複雑な印象を与えます。Cはまるっきり魔神H。注目の2回目のBは魔神Hよりはズンチャッ、ズンチャッのマーチリズムが立っていて複雑ながらも素直な印象です。ただ残念な事にメインメロディーをごく一部弾くことを諦めています。最後の3回目のBはほぼ魔神H編です。特筆すべきこととしてAnnette様の演奏はテンポが吹奏楽演奏並みに速いこと。魔神H御自らの演奏は確かに衝撃的なのですが、冷静に聴けば星条旗の吹奏楽演奏と比べるとかなりテンポが遅い。その点Annette様は一般的な印象通りのテンポ感で飛ばして行きますので、これは爽快です。時折左手に現れるオクターヴ下降音型の速さも頑張っています。

さてこのAnnette様、まだご健在です。しかもこの星条旗の動画を2014年に公開しています。正直、これはあまり観て欲しくない動画です。テンポがずうんと遅くなり、演奏時間自体1分近く伸びています。それなのにオクターヴ進行は滑らかではなく、相当残念感満載ですので、編曲法の確認程度にとどめてください。

Arrangements and Variations for Digital Piano – Gordon Green

さて、Annette様の“詩情”溢れる星条旗を聴いた後は、より個性的な星条旗で心を潤しましょう。もっと過剰なピアノ系星条旗が聴きたいという貴方には、Gordon Greenの星条旗よ永遠なれがオススメ。電子ピアノによる打ち込み演奏ですが、ほぼカオスに近いような莫大な音数が詰め込まれており、冒頭部分など3~4人がそれぞれのピアノで勝手な音楽を同時に弾いている(そのうち1人は間違いなく星条旗よ永遠なれですが……)ような感じ。ま、コラージュと言えばコラージュっぽいですがね。途中からはバラバラ感はなくなり、ひたすら過剰装飾と過剰トレモロのさすが打ち込み電子ピアノという世界が繰り広げられます。ラストには恐ろしく速いトリルが延々と鳴らされますが、ピアノの速すぎるトリルはホイッスルか電波障害音にしか聴こえません。ピアノ作品は音が多すぎるとほんと美しくないですねぇ。

HIGH FIDELITY OOM-PAH-PAH FOR NON-THINKERS

逆にココロ暖まる星条旗をという貴方には、Guckenheimer Sour Kraut Bandの星条旗よ永遠なれがオススメ。この管楽バンドは1949年に結成されてカリフォルニアを中心に人気を博し、36年間活動を続けて3枚のアルバムを遺しています。彼らが1958年に発売した「MUSIC FOR NON- THINKERS」*2)は、お得意のポルカやワルツに加え、ハンガリー狂詩曲第2番なども演奏しているアルバムです。ここで演奏されている星条旗よ永遠なれが実にスバラシイ。特に、構成的言うとABCBB(2回目のCは省略してます)の2回目のBに男声独唱が入るのですが、ここが得も言われぬ絶妙な味わい。素晴らしい調性感覚で、心豊かに和みます。

すっかり星条旗尽くしになってしまいました。ま、とりあえずは梅田譲新大統領就任記念ということにしときましょう。

*1)Moment with Annette収録曲
Rachmaninoff:Etude Tableaux op.39-5/Scriabin:Etude op.2-1,op.8-12/Chopin:Nocturne op.9-2, op.48-1/Debussy:La Cathédrale engloutie/Prokofiev:Toccata op.11/Ginastera:Piano Sonata no.1 op.22/Sousa (arr:DiMedio) The Stars and Stripes Forever

(*2) Guckenheimer Sour Kraut Bandの「MUSIC FOR NON- THINKERS」は現在「HIGH FIDELITY OOM-PAH-PAH FOR NON-THINKERS」というタイトルのCDに、他のバンドのLP盤と共に収録されいます。LP発売時のジャケット写真は彼らの雰囲気をよく表しています。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(8) 垂直な経験、垂直な時間 1960年代前半の楽曲-3

3. 打ち消し合う記憶 Piano Piece (to Philip Guston)

 ピアノ独奏曲「Piano Piece (to Philip Guston)」(1963)は1963年3月3日に作曲された。初演にまつわる情報は現在のところ明らかになっていない。タイトル通り、この曲は当時フェルドマンと親しくしていた画家のフィリップ・ガストンに捧げられている。当時、フェルドマンは自宅アパートの壁にガストンの「Attar」(1953)を掛けていた。この2人の親しい付き合いはフェルドマンが抽象表現主義絵画に傾倒し始めた1951年にケージを介して始まった。しかし、1970年10月〜11月にニューヨーク市のマルボロ・ギャラリーで開催されたガストンの個展「Philip Guston: Recent Paintings」を訪れたフェルドマンは、ガストンがカリカチュア風の具象画に転じたことに失望し、2人の約20年にわたる友情がここで終わってしまう。「Piano Piece (to Philip Guston)」はまだ2人が互いに共感し合っていた時期に書かれた。1966年にフェルドマンが『Art News Annual』第31号に寄稿したエッセイ「Philip Guston: The Last Painter」[1]によれば、彼らは「ほとんど何もない想像上の芸術について語り合ってばかりいた。we all talked constantly about an imaginary art in which there existed almost nothing.」[2]おそらくケージの影響もあるだろうが、彼らは「無」について問題を共有していたようだ。音楽の場合、「最小限のアタックによって音はその出自が失われたといえる we would say the sound was sourceless due to the minimum of attack」[3]。フェルドマンは、音の出自が失われた状態が「重さを完全に欠いた絵画について説明している This explains the painting’s complete absence of weight.」[4]と述べ、音楽と絵画双方での「ほとんど何もない」作品を実現させる可能性を示唆する。フェルドマンのここでの考えに従えば、音楽においては聴こえてくる音のアタックを、絵画においては色や輪郭といった絵画に実体をもたらす要素を可能な限り抑制することで「ほとんど何もない」作品が生まれる。しかし、実際のところ、ケージの「4’33’’」(1952)と違ってフェルドマンの曲では楽器の音が鳴るし、ロバート・ラウシェンバーグの「White Painting」(1951)と違ってガストンの絵には何かしらが描いてあるので、2人が試みようとしていた「無」は即物的な無音や空白ではなく「無に近い状態」あるいは「無を喚起する状態」だったと考えられる。

 音の去り際、すなわち減衰を重要視するフェルドマンの考え方も実はガストンに依っている。フェルドマンによれば「しばしば絵画は、鑑賞者がその場を離れ始めてようやく“作動する” the paintings often “perform” only as the viewer begins to leave them.」[5]。この一見よくわからない主張はフェルドマンがガストンの倉庫で体験したエピソードに基づく。

そう昔でもないが、ガストンは私を含む何人かの友人たちに彼の近作を倉庫に見に来てくれないかと頼んだ。そこにあった絵画はほとんど呼吸せずに眠っている巨人のようだった。他の人たちがその場から去り始めた時、私は最後に一目見ようと振り返り、彼にこう言った。「そこに絵がある。絵は起きているよ。」そこにあった絵は既にその部屋を包み込んでいた。私たちは友人と一緒にエレベーターに乗り込んだ。

Not long ago Guston asked some friends, myself among them, to see his recent work at a warehouse. The paintings were like sleeping giants, hardly breathing. As the others were leaving I turned for a last look, then said to him, “There they are. They’re up.” They were already engulfing the room. We got into the elevator with our friends.[6]

 人が去る頃に眠れる巨人は目を覚ます。絵画が鑑賞の対象である間、それはまだ完全な絵画ではない。鑑賞物としての役割を終える頃に絵画は姿を現す。これをフェルドマンの音に対する考え方に当てはめてみると、アタックとともに生じる瞬間の音はまだ音ではない。音が消えゆく頃に音が姿を現す。もちろん、絵画と音楽はそれぞれ異なる媒体を用いるのでガストンの倉庫でのエピソードがフェルドマンの音の減衰に対する態度に完全に対応しているとはいえない。だが、フェルドマンができる限り抑制された音のアタックにこだわっていたことや、自由な持続の記譜法によって出来事が際限なく打ち消される音楽を書こうとしていたことを思い出すと、当時の彼はまだ抽象画だった頃のガストンの茫洋とした絵に作曲のヒントを見出そうとしていたのではないだろうか。

https://www.youtube.com/watch?v=fTW_xgoUHLo
Feldman/ Piano Piece (to Philip Guston) (1963) スコアを伴う動画

Philip Guston/ Attar (1953)
https://www.cnvill.net/mf-living-room-03.htm

The Guston Foundation内のカタログ(アカウントを作成してログインすれば作品を拡大して観ることができる)
https://www.gustoncrllc.org/home/search_result?utf8=✓&search%5Bterm%5D=attar&search%5Bcirca_begin%5D=&search%5Bcirca_end%5D=

 「Piano Piece to Philip Guston」は自由な持続の記譜法で書かれていて、テンポは音符1つあたり66-88。「極端なくらい柔らかくExtremely soft.」と記されており、フェルドマンの他の曲と同じくこの曲もできるだけ音のアタックを抑えて演奏される。装飾音は速すぎることのないように演奏しなければならない。譜表の1段ごとに出てくる音を書き出したのが下の表である。頻出する音高と音程、極端に乖離した和音と極端に密集したクラスター状の和音に着目して、この曲の音の配置と動きを追ってみよう。表の1行目はそれぞれの音の登場順に付けた番号、2行目は右手(高音部譜表)、3行目は左手(低音部譜表)。この行のセルが結合されている箇所は、点線で結ばれた同じ音を示す。この点線は通常の五線譜ではタイと同じ役割を持っている。音名に付けられている数字はピアノの鍵盤中央のCを4とした際のオクターヴの位置を示す。

Piano Piece (to Philip Guston) 音高一覧

1段目

12345678910
B4, D#5, E5, B♭5, D6D4, E4, C#5F4, A4, C#5, G♭5G7G♭2, C3 E4, F4, A4,E4, F4, A4, D#5E4, F4, A4, D#5G3, A3, F#4
 E♭3, G#3, B3D#4, E4 E♭2, F2B1C#3, D4C#3, D4C#3, D4D#2, C#3, E3
11121314151617181920
G4, A4, C#5, E5, F5C3G4, B4, E5, F5G7E5, G5, D#6C4, D4, B4G4, A4, C#5, F5C6, E6, G♭6, D♭7G2G3, A♭3, F#4
B♭3, E♭4, F4, G♭4 D#3, G#3, A#3, B3 G#4, C#5, D5B♭2, D#3, F#3, A#3B♭3, E4, F#4, G#4A4, C#5, D#5, E5, F#5 C#3, D#3, E3

2段目

21222324252627282930
D4, E4, F34, C#5F#5, G5C8D4, F4, C#5 A#4, B4, C5G♭6F4, A4, B♭4, E5F5, G5, A#5, B5A3, B3, C4, G4
D♭3, A♭3, B♭3, C4A♭4, E♭5, F5 B♭4, C4G1D4, E♭4, G#4 B♭2, F#3, G#3, A3G#4, C#5, D5A#2, C#3, E3, F3
31323334353637383940
G4, A4, B♭4, F#5F7G4, A4, B♭4, F#5C4, D4, C#5A4, B♭4, G#5G7D3B3, C4, A#4E♭5, G♭5D2
C#4, D#4, E4 C#4, D#4, E4A♭2, E♭3, G3D4#, F#4, G4 E♭1E#3, F#3, G3, A3B♭3, E4, F4 

3段目

41424344454647484950
B♭5, A6C3C4, D4, C#5C4, D4, C#5G6C4, D4, C#5G4, A4, F#5F#5F#5F#5
G#4, B4, C5 B♭2, G3B♭2, G3, B1 B♭2, G3, B1G#3, C#4, D#4, E4   
51525354555657585960
 D4, E4, C#5G5, C6E4E♭5A1D4, C#5C7A3, G#4A3, G#4
G#2E♭3, G#3, A#3, B3G#4, C#5, D6 D♭3, G#3, C4 B3 G#1, B2G#1, B2, F3

4段目

61626364656667686970
A3, G#4, E♭5, G♭6 E4, F4, A#4B3, D4, E♭4, B♭4B3, D4, E♭4, B♭4E4, F4, D#5G6   
G#1, B2, F3D1G♭3, B3, C4A♭2, F3, G♭3G♭3, B3, C4  B♭2B♭2B♭2
71727374757677
C#5, D#5, E5, D#6, E6D#6, E6 F5F5F5F5
  E3C#3, F3, G♭3, A3   

5段目

78798081828384858687
F3, D♭4 A4, G#5E5, F5, G♭4, C6 B♭6 F♭5F♭5A4, G#5
E♭1, D2C#3A#3, C#4, D4, E4, F4G#4, D♭5G1 A♭3E♭3  
8889909192939495969798
C8E4, G4A4, B4, C5, A5A4, B4, C5,A4, B4, C5,A4, B4, C5, G4, A4, G#5 E4, D#5E4, D#5
D♭4, F#4, G4D#3, A♭3A♭2, D#3, E3, F3 B♭6B♭6E1 G#7A♭2, C#3, D3 

6段目

99100101102103104105106107108
 E4, D#5E4, D#5E4, D#5 E♭7B♭3 D5, G5, B5, C6 
G1A♭3, C#4, D4D4D4E1  G#1B♭3, D#4, E4, A4A4  
109110111112113114115
 G#2F#7A4, B4, E5, G#5G#5G#5 
A4  B3, D#4, F4, G♭4  F#2

7段目

116117118119120121122123124125
 G#6F4, B♭4, G5G5G5G5B♭6B♭6B♭6B♭6
F#2 G#3, C#4, D4   A1A1A1A1
126127128129130131132133134135
 A♭4, G5A4, A5F#2F4, E5B♭0E♭4D♭6E♭4E♭4
G#3 G3, F4, A♭4 D3, C#4 C#2 C#2C#2

8段目

136137138139140141142143
G♭3, F4C#4, D4, A#4D6, C#7 B4, E5, C6B4, E5, C6B4, E5, C6B6
A1G#3, B3, C4B4, C#5, D5, E♭5G1B♭3, F#4, G4, A#4B♭3, F#4, G4, A#4B♭3, F#4, G4, A#4 

 ペータース社の出版譜[7]は見開き1ページに大譜表8段が配置されている。1段あたり20前後の和音ないし「出来事」が起きる。この大譜表のレイアウトに基づいて曲中に出てくる音の数を数えると、1段目105、2段目93、3段目66、4段目52、5段目65、6段目39、7段目40、8段目31となり、合計すると491音。この合計にはあまり意味はなく、むしろ曲が進むにつれて1段ごとの音の数が減っていることに注目したい。Bernardは、時間の経過とともに音の数が減り、テクスチュアの密度が下がるこの曲の進み方に「絵の完成が近付くにつれてあまり付け足さなくなるガストンの絵画作法 Guston’s method of painting, with less being added as the painting comes to completion」[8]との類似性を見出している。この様相は実際の鳴り響きからわかるだけでなく楽譜や表を見ても明らかだ。最初の2段までは構成音の多い半音階的な和音が立て続けに鳴らされる。3段目を過ぎると単音の持続が頻出し、曲の様相が少なからず変化していることに気付く。6段目以降は和音の構成音の数が前半と比べると極端に減っている。また、密集した音域の和音配置も少なくなっており、隙間の空いたテクスチュアへと変化しているのがわかる。最後となる8段目は再び構成音の多い和音が現れるものの、140-142まで点線で繋がれているせいか、動きが止まったのかのような効果を生み出している。

 この曲でもフェルドマンのピアノ曲に特徴的な極端な音域の配置と跳躍が頻繁に現れる。例えば1段目の4番目のG7の直後に、両手は低音域の半音階的な和音へと即座に移動しないといけない。そしてまた、高音域を中心とする和音へとすばやく移る。このような音の極端な移動はこの曲の特徴の1つだといえるだろう。ある和音を高低どちらかの音域で鳴らした後、そこから極端に離れた音域へと移る動きは楽曲全体に見られる。特に顕著なのは2段目36-37、3段目41-42、55-56、4段目70-71。後半はさらにこの傾向が強まる。5段目は81の音からこの段が終わる98の音までの範囲一帯が極端な音域で配置されている。6段目、7段目もほとんどすべてがその都度の極端な音域で跳躍している。また、和音も乖離した配置のものが多い。これらのほとんどどれもが、和音の後に極端に離れた音域の単音が続くパターンを形成している。対して、半音階的に隣り合うクラスター状の和音は楽曲の前半に集中している。このタイプの和音が現れるのは1段目5、11、17、18、20、2段目26、31、33、34、35、38、4段目63、66、後半は8段目137のみである。実際に演奏している動画で手の動きを見てみると、音域の離れた和音を打鍵する時の両手の空間的な隔たりと、クラスター状の和音を打鍵する時の両手の接近とが対照をなしているようにも感じられる。

Feldman/ Piano Piece (to Philip Guston) 演奏動画

 和音の構成音に関しては、1950年代前半からのフェルドマンの楽曲に頻出する7度音程がこの曲でも多く見ることができる。表中の灰色部分は外声(その和音の最高音と最低音)が7度音程で構成されている和音だ。なかでも目を引くのがD-C(場合によってはC#-D)の2音で、この曲の中で最も多く登場すると言ってもよい。クラスター状の和音を除いてこの2音を含む和音は1段目2、7-8-9、15、2段目21、24、34、3段目43-45-46、52、53、57。しばらくこの2音は姿を見せないが曲の締めくくりに近づいた7段目130、8段目138に再び現れる。実際に聴いている中でこの2音が頻繁に現れることにはなかなか気づかないのだが、楽譜に書かれている音としての頻度は高い。

 もう1つ、この曲全体を通して現れる音がある。それは単音Gだ(表中、赤字になっている音)。Gが単音で現れるのは1段目4、14、19、2段目25、36、3段目45、4段目67、5段目82、6段目99、7段目119-121、8段目139。Gは様々な音域に配置されているうえに、装飾音や点線による持続音でも用いられている。極めて安易な発想を承知でいうとGはGustonの「G」と読むことができる。フェルドマンがこの曲のGの用法に込めた真意は定かではないが、面食らってしまうほどとりとめのない楽譜を見ていくうちに、Gが単音でどの段にも必ず配置され、際立たせられていることがわかる。だが、このGも聴取の中ではほとんど記憶に残らない。

 以上のように楽譜に配置された音の様子から、これまでとりあげてきたフェルドマンの楽曲と同じく、何度も現れる音や特定の音程を見つけることができた。しかし、矢継ぎ早に複雑な響きの和音が繰り広げられるので、聴取の際は次々と聴こえてくる音のどの側面を寄る辺にしたらよいのかわからなくなってしまう。時折聴こえる極端に低いか高い音域の単音がこの中で比較的記憶に残りやすいが、それまでに聴いた音やこれから聴く音と関係付けられるわけでもない。まるで、ある出来事がその前後の出来事を打ち消して、私たちの記憶を阻害しているようだ。フェルドマンやKramerが言おうとしていた「垂直な音楽」、「垂直な時間」は際限なく現前する出来事をとおして私たちに否応なく「今」を突きつける。

 次回は室内編成の「De Kooning」(1963)を中心に、やや変化した自由な持続の記譜法について考察する予定である。

[1] Morton Feldman, “Philip Guston: The Last Painter,” in Art News Annual, Vol. 1966, pp. 97-99 このエッセイはフェルドマンのエッセイ集Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, pp. 37-40に再録されている。本稿ではフェルドマンのエッセイ集を参照した。
[2] Feldman 2000, op. cit., p. 37
[3] Ibid., p. 39
[4] Ibid., p. 39
[5] Ibid., p. 39
[6] Ibid., pp. 39-40
[7] Morton Feldman Solo Piano Works 1950-64, Edition Peters No. 67976, 1998.
[8] Jonathan W. Bernard, “Feldman’s Painters,” in The New York Schools of Music and Visual Arts: John Cage, Morton Feldman, Edgard Varèse, Willem de Kooning, Jasper Johns, Robert Rauschenberg, edited by Steven Johnson, New York: Routledge, 2002, p. 202

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は12月15日の予定です)

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (27) 嘘か誠か イタリアの不思議な音

Fiorentino EDITION vol.2 THE COMPLETE LISZT RECORDINGS  Sergio Fiorentino(p) PIANO CLASSICS PCLM0041(6枚組) 2013年
Fiorentino EDITION vol.4 EARLY RECORDINGS 1953-1966 Sergio Fiorentino(p) PIANO CLASSICS PCLM0104(10枚組) 2016年

セルジオ・フィオレンティーノ(1927~1998)は謎の多いピアニストです。メジャーレーベルからのレコードリリースはありません。来日公演もなく、少なくとも存命中に日本国内では全く知られていませんでした。いくつものコンクールに優勝したとされてますが、入賞歴ゼロという記述もあります(1947年のジュネーヴで2位は確か)。わかっているのは演奏活動を始めて間もない1954年に、南米であわやの飛行機事故に遭遇し、以降トラウマで飛行機に乗れなくなって、演奏活動から身を引いてしまったこと。教職に専念する一方で、マイナーレーベルで細々と録音を続けていたこと。しかもそれらは架空のピアニストの名前で売られていたりしたこと。積極的に演奏活動を始めたのはもう晩年になってからだったことなどなど。

で、少なくとも遺された録音から判断するに、素晴らしいピアニストであったことは間違いありません。ミケランジェリは「イタリアで俺以外でピアニストと呼べるのはフィオレンティーノだけだ」と言っていたそうです。ピアノ編曲者としても独創的で優れた作品を多く遺していて、ラフマニノフのヴォカリーズなどは恐ろしく少ない音なのにピアノが無駄なく鳴る見事な技を見せています。ワイルド編の対極ですね。復刻はAPRなどから行われていましたが、2012年からPIANO CLASSICSで全4集計28枚のCDが体系的にリリースされ、彼のスタジオ録音のほぼ全貌が明らかになりました。この中の第2集と第4集が今回ご紹介するCDです。彼が表舞台から姿を消していた時期(1950年代・60年代)に録音されていたもので、壮年期の演奏を堪能できます。ただ、これらの演奏を凄い、凄いと手放しで悦ぶには少し躊躇する点があります。それは当時の彼の録音の担当者がWilliam H. Barrington-Coupeだったということです。こやつはあのJoyce Hattoの夫、つまり“ハットー事件”の主犯なのです。Barrington-Coupeは、自分のConcert Artistというレーベルから、他人の演奏を勝手にピックアップしてデジタル処理で手を加えて(時には本当に“改良”してしまって)CD化し、妻のハットーの名義で次々と発表していました。さらにBarrington-Coupeはフィオレンティーノの名前でも大量の偽録音を出していました。その真贋を区別したサイトもあるほどです。音楽詐欺と改竄の権化のような人物が関わっていたのですから、その演奏の真贋や質などにもどうしても疑いの目が光ってしまいます。ただ、PIANO CLASSICSから出た28枚は、晩年のフィオレンティーノと親交のあったErnst A. Lumpe(LP時代の匿名・偽名演奏の発掘と特定の研究家。上記真贋サイトの作成者)がプロデュースしています。Lumpeは研究家の観点から偽録音を除外し、真贋という点ではかなり信用はおけるものとなっていると思われます。

Fiorentino EDITION vol.4 EARLY RECORDINGS 1953-1966よりCD9

前置きが長くなりました。このPIANO CLASSICSのフィオレンティーノの演奏には演奏の良し悪しはさておき、不思議な音のする録音が含まれています。それは第4集「EARLY RECORDINGS 1953-1966」のCD9に収められたショパンのアンダンテ・スピアナートop.22。初めてこの演奏を聴いたとき、家庭内BGMとしてながら聴きしていたこともあって「あれぇ、アンダンテ・スピアナートだけど変な編曲しているなぁ。左手パートだけハープで演奏してる。」と思ったのです。演奏を確認してみてビックリ。フィオレンティーノによるピアノソロ演奏でした。慌ててきちんと聴き直しましたが、やはり左手の伴奏部はハープに聴こえます。当然のことながら、アンダンテ・スピアナートに続いて華麗なる大ポロネーズも演奏されていて、そこでは全くハープ音は聴こえません。さらに言うと、この録音は1960年9月11~13日にハンブルクでポロネーズ全16曲+op.22を一気に録った時のものなのですが、他の曲からはここまでのハープ音は聴こえません。強いて言うなら幻想ポロネーズの冒頭部分で少しする程度でしょうか。実に不思議で、しかも美しい音色です。使用したピアノに関するデータはありません。フィオレンティーノはヴィンテージピアノにも関心が高く、古いエラールでの録音も遺しています。このポロネーズ全曲録音もそうしたピアノを使用した可能性があります。所々、ヴィンテージっぽい音がしなくもないです。ただ、零細なマイナーレーベルの一気録りにそういうこだわりが通用したかは疑わしい所です。単に安く調達したのがくたびれかけた楽器だったのかもしれません。この録音にはさらなる逸話があります。Barrington-Coupeはこの全曲録音は出来が悪いとして、5年もお蔵入りさせた後、フィオレンティーノではなく架空のピアニスト名の廉価版LPで発売してしまうのです。のちの音楽詐欺師の一端を垣間見るようなエピソードです。では本当に出来の悪い演奏なのか? 私は全くそうは思いません。Op.22のポロネーズは豪快ではないもののキレッキレですし、英雄のあのズダダダズダダダ部分の加速も羨ましい限りです。なんといっても普通はつまらない8番以降の初期作品をイイ歌いまわしと指さばきで聴かせ倒してくれます。そしてアンダンテ・スピアナートの不思議で魅力的な音。ショパン・ポロネーズ全17曲版の録音としては相当イケてる仕上がりと思いますが、如何でしょうか。

Fiorentino EDITION vol.2 THE COMPLETE LISZT RECORDINGS

音と言えば第2集「THE COMPLETE LISZT RECORDINGS」のCD3(APRから出ていた「Contemplative Liszt」というアルバムと同じ内容)にも特徴的な録音があります。このTrack 1の前奏曲「泣き、嘆き、悲しみ、慄き」はピアノの音自体がとても悲しいのです。音楽が悲しいだけでなく音そのものにこれほどの悲しみが籠っているのは、ラフマニノフの弾いたシューベルトの「セレナーデ」やリパッティの弾いた「イエス、私はあなたの名を呼ぶ」と並ぶものと思います。録音が古いだけじゃん、なんて突っ込みは野暮というもの。フィオレンティーノの場合、同じ日に録音された楽曲も収録されていますが、音の悲しさはTrack 1がの前奏曲「泣き、嘆き、悲しみ、慄き」が頭抜けています。演奏家の力と録音条件がコラボした素敵な偶然をこのCDで素直に楽しめます。

……で、やはりふと思うのです。この不思議な音も、想像以上に良い演奏も、本当に本物なのだろうか、と。音楽詐欺師の錬金術に惑わされているだけなのではないか、と。

哀しいことです。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(8) 垂直な経験、垂直な時間 1960年代前半の楽曲-2

2 垂直な時間――無限の「今」

 フェルドマンの「垂直」が意味するものと、彼がこの概念に対して抱く具体的なイメージをもう少し詳しく考察してみよう。1966年12月28日に収録されたケージとフェルドマンのラジオ対談シリーズ Radio Happenings[1]第3回の中でフェルドマンはこの時できたばかりの曲について話している。

フェルドマン: 今朝、終止線を引いて1曲完成させたばかりで……大きな規模の室内楽曲だ。その曲は私の3台ピアノのための曲(訳注:「Two Pieces for Three Pianos」(1965-66))にそっくりで、3つの違う出来事が同時に起きる。実際は3つの曲が重ねられているわけではなく、この3つは1つの曲を作るために進み行く出来事にすぎない。曲ができるまで長かった――たった6ページ書くのに何ヶ月も何ヶ月も何ヶ月も要した。

ケージ:すばらしい。空間に対してあなたは今どう考えているの? 例えばあなたはさっき3つの出来事を同時に進ませると言っていたけれど、3つの出来事をその空間内の別々の場所で引き起こそうと考えたのか、それとも、それらが一緒に起こるようにしたいのか?

フェルドマン:そうではなくて、3つの出来事は空間内のそれぞれ違う場所にある。

Feldman: I just drew the double bar line this morning on a work for… well, it’s a large chamber work. It’s very much like my three-piano piece, where there are three different things going on at the same time. They’re not really three pieces superimposed, they’re just three things going on to make one. And it took so long—months and months and months of work just to write six pages.

Cage: Beautiful. What is your attitude now toward space? Say you had three things like this, going on at once, does it enter your mind to have them happen in different points in the space, or do you want them to happen together?

Feldman: No, they’re at different points in the space.[2]

ここでフェルドマンが言及している自作曲を編成と作曲時期から推測すると「3台ピアノのための曲」は「Two Pieces for Three Pianos」(1965-66)。この対談の日にできたばかりの曲は編成が「大規模な室内楽曲」であること、「3つの違う出来事」が起こること、1966年12月28日までに初稿が完成していることから「Chorus and Instruments Ⅱ」(1967)と見てよいだろう。

Feldman/ Two Pieces for Three Pianos (1965-66)[3]
Feldman/ Chorus and Instruments Ⅱ (1967)

 「Chorus and Instruments Ⅱ」の編成も1960年代の楽曲に顕著な風変わりな組み合わせで、混声四部合唱、チューバ、チャイムから成る。フェルドマンが言う「3つの違う出来事」は性質の異なるこれら3つのパートを指している。この曲は自由な持続の記譜法で書かれており、3つのパートが単独で現れたり、重なったりと、様々な響きによる出来事が起こる。演奏を聴くと、冒頭に3つのパートがやや独立した動きを見せる以外はおおよそ同期している印象だが、上記のフェルドマンの説明によれば、この曲では3つのパートはひとまとまりとして扱われるのではなく、それぞれが異なる箇所で起きている。1つの空間、つまり楽曲の中に異なる複数の出来事を引き起こすフェルドマンのアイディアに興味を持ったケージは、フェルドマンからこのアイディアについてさらに聞き出そうとする。

ケージ:その空間内での違う場所。

フェルドマン:そう。私は様々な制御を行っていて、たいてい無音は測られる。無音は密接にまとまってというよりも、単に異なる空間で起きるだろうということ。でも、私がここで追求しているのは完全に垂直な道程。ほら、私たちは水平については知り尽くしているし。

JC: Different points in the space.

MF: Yes. I utilize various controls, mostly the silences are measured. That’s only that it will happen in different spaces rather than close together. But what I’m pursing is the whole vertical journey. You know, we know everything about the horizontal.[4]

先に引用したエッセイ「Vertical Thoughts」では自分の意志を制御していると書いていたフェルドマンは、この対談が行われた1966年12月末の時点で「様々な制御 various controls」を行っていると述べる。「測られる」無音も彼の「様々な制御」の対象に入るが、無音の状態は曲中の全てのパートが足並み揃えて起きるのではなく、異なる空間で各々起きるのだとフェルドマンは言いたいのだろうか。普通に考えれば、このような状態は制御とは逆の、あるいは違う状態を意味するはずだが、フェルドマンはこのバラバラな制御の取れていない状態を「完全に垂直な道程」として追求している。フェルドマンの「垂直」についての説明はさらに続く。

フェルドマン:だが、垂直はこんなにも奇妙な経験だ。なぜなら、子供の頃にあの遊びをやったことはある?グラスに水を満杯になるまで注いで、ペニー硬貨をそこに落とし続ける…

ケージ:それでも水は溢れないんだっけ?

フェルドマン:そう、溢れないのでグラスの半分をペニーが占めることになる。こうして私は垂直というものを発見した――そこにいくつ音を投げ入れようと、まだ満たされない。(中略)今、私は実際に3つの曲をこの同時性の中に投げ入れた。もっと多くを入れることができたかもしれないけれど(笑)。この同時性は十分な空間と空気に満ちていて、まだ呼吸している。この同時性には際限がなく、その同時性は無条件に透明性を保っている。

MF: But the vertical is such a strange experience, because it’s like, did you ever play this game, when you were a kid, where you will the water right up to the top on the glass and you keep on adding pennies…

JC: And it doesn’t spill over?

MF: And it doesn’t spill over, and you have half of the glass full of pennies. And that’s how I find the vertical—that no matter how many sounds I throw into it there is a hunger…… Now I threw three pieces, actually, into this simultaneity and it could have much more (laughs), it’s so full of space, so full of air, it’s still breathing. It’s endless and it absolutely keeps its transparency.[5]

フェルドマンは水を満杯に入れたコップに硬貨を入れる遊びにたとえて、垂直の意味するところを説明している。このたとえはわかりやすい。1つの空間と時間に複数の出来事を、つまり音をいくつ投げ込もうと、その空間と時間は決して溢れることはなく無限に受け容れられる。投げ込まれた音は1つの空間と時間の中に垂直に積み重なり、その高さが絶えず更新されていき、同時に起きる音の数にも際限がない。さらには「その同時性は無条件に透明性を保っている it absolutely keeps its transparency」ので、出来事が垂直に重なる一連の過程――音が生じて減衰し、次の音が生じる過程――を常に耳で把握することも可能だ。このような音の積み重なりの過程を、音が垂直な柱や帯のように無限に積み重なっていくイメージとして捉えることもできる。「垂直な」音楽では、その都度の音の積み重なりの瞬間が次々と起こるが、それぞれの瞬間は互いに関係性や連続性を構築しない。フェルドマンがここで言おうとしている垂直は、出来事が起きる瞬間を指し、その出来事は次に起きる出来事に打ち消されてしまうので際限がない。コップの中にいくら硬貨を投げ入れても水が溢れないのと同じく、その瞬間の中にいくら音を投げ入れても溢れることはないのだ。

 本稿は言説と楽曲の例を用いてフェルドマンの垂直の概念を解き明かそうとしている。だが、元も子もないことを承知で言うならば、この概念は楽曲の構造、作曲技法、記譜法だけでなく聴き手の経験に深く依拠しており、垂直にまつわる問いはどうしても主観的な議論にならざるを得ない。フェルドマンの文章や発言だけを論拠としていては、なおさらその傾向が強まる。そこで、次に参照するのは第6回でも言及したJonathan Kramerによる音楽的な時間についての論考である。ここでKramerは主に音楽の構造の観点から、ある特定の傾向を持った音楽に「垂直な時間」の概念を当てはめている。Kramerの議論もその音楽の聴き方、感じ方にある程度依拠しているので恣意性を完全には否定できないが、これまで紹介してきたフェルドマンの文章や発言よりは理解しやすい。フェルドマンが描いていた垂直の意味やイメージを把握するための補足材料として、Kramerの議論を参照してみよう。

 Kramerは“New Temporalities in Music”[6]の中で、連続的に発展する調性音楽の時間を線的な性質 linearityとみなし、20世紀以降に現れたいくつかの新しい音楽的時間のあり方を分類した。「垂直な時間vertical time」も新たな音楽的時間の1つとして解説されている。垂直な時間を論じる際の楽曲例として言及されているのはケージの「Variations Ⅴ」(1965)、スティーヴ・ライヒの「Come Out」(1966)、フレデリック・ジェフスキの「Les Moutons de Panurge」(1969)の3曲。ケージの曲については、フェルドマンの曲にも見られる、その都度の出来事がただ起きるだけという点で垂直な時間の特性が当てはまる。ライヒとジェフスキの曲については、物語性のない反復が絶えず積み重なる点で垂直な時間の特性が当てはまる。ここでKramerはフェルドマンの曲には触れていないが、フェルドマンが「垂直」について頻りに語り出したのが1960年頃、Kramerのこの論文が刊行されたのが1981年であることを考えると「垂直な時間vertical time」に関してKramerがフェルドマンの音楽と言説を意識していた可能性は皆無ではないだろう。[7]

Cage/ Variations Ⅴ(1965)
Steve Reich/ Come Out (1966)
Frederic Rzewski/ Les Moutons de Panurge (1969)

 フェルドマンは「…Out of ‘Last Pieces’」の楽曲解説で「水平な連続性を断ち切る」ことについて書いていた。Kramerの以下の箇所は実際にフェルドマンのアイディアを代弁しているわけではないが、音楽の連続性を作る一要素であるフレーズが最近まで全ての西洋音楽に浸透していていたことを指摘したうえで[8]、フレーズを必要としない新しい音楽的な時間、「垂直な時間」について次のように述べている。

だが、いくつかの新しい楽曲はフレーズ構造が音楽の必須要素ではないのだと示してくれる。その結果、ただ1つの現在がひきのばされてとてつもない長さとなり、それにもかかわらず一瞬のように感じられるかもしれない無限の「今」が現れる。私はこのような音楽における時間の感覚を「垂直な時間」と呼ぶ。

But some new works show that phrase structure is not a necessary component of music. The result is a single present stretched out into an enormous duration, a potentially infinite “now” that nonetheless feels like an instant. I call the time sense in such music “vertical time.”[9]

 ここでKramerははっきりと「垂直な時間」を定義している。「垂直な時間」の中では私たちが生きている現実的な時間の長さとは関係なく、そして数秒先と数秒後の時間とも結びつかず今がひきのばされる。こうしてひきのばされた無限の「今」が音楽とともに更新されていく。これも結局は聴き手の受け止め方に依拠する経験的な側面から逃れられない言説だが、Kramerがいう無限の「今」は、同時性の中にいくら音を投げ入れようと音が際限なく積み重なっていくフェルドマンのコップのたとえと類似した発想だと言えるだろう。垂直な時間の音楽が時間の経過とともにたどる道程は以下のように描写されている(以下の箇所は解説よりも描写という言葉がふさわしい)。

垂直な楽曲は徐々に蓄積される結末を見せない。このような楽曲は始まるのではなくて単に動き出す。クライマックスを構築せず、楽曲内に起きる期待を敢えて抱かせず、偶然生じるかもしれないどんな期待も満たそうとせず、緊張を醸し出すこともその緊張を解くこともせず、終わりもしない。ただ止まるだけだ。

A vertical piece does not exhibit cumulative closure: it does not begin but merely starts, does not build to a climax, does not purposefully set up internal expectations, does not seek to fulfill any expectations that might arise accidentally, does not build or release tension, and does not end but simply cease. [10]

 起承転結やなんらかの物語構造を持った音楽の場合、ひとたび楽曲が始まると途中でなんらかのドラマティックな展開を見せてクライマックスに達し、結末を迎える。音階内の音や和音がそれぞれの機能に即して動く調性音楽はあらすじを描き、その通りに曲を展開させるのに適している。一方、ここでKramerが描写している垂直な楽曲は物語構造を持たず、ただ動き出して止まる。その瞬間に鳴らされた音の響き自体に緊張感や緊迫した印象を聴き取ることができるかもしれないが、その楽曲が演奏されている間に起きる音楽的な出来事が互いに結びついて緊張や弛緩の効果を生み出すわけでもない。あくまでも音楽的な出来事はそれ自体で完結しているので、部分と全体という関係性でその曲を捉えることもここではあまり意味がなくなってしまう。垂直な音楽の成り行きは、音のアタックよりも減衰に注意を促し、響きの偶発的な混ざり合いによって聴き手を前後不覚に陥れる自由な持続の記譜法の1960年代のフェルドマンの楽曲の特性と重なる部分が多い。

 その音楽が聴き手にもたらす時間の特性にも着目した、経験的ともいえる「垂直」の概念は楽譜を凝視するだけでは把握しにくいフェルドマンの「なんとも言い難い」楽曲に迫る際の一助にもなり得る。経験的な側面を持つ「垂直」を理解するには、その音楽を実際に経験している時の聴き手としての主体、つまり自分の存在を完全に消し去る必要はない。楽譜から読み取ることのできる情報に限界がある場合、「どう聴こえたか」を詳細に検討することでようやく見えてくる。特にフェルドマンの「なんとも言い難い楽曲」においては、その曲を聴いている自分の経験や感覚も情報源として役に立つ。この連載で行っている楽曲分析は、主に楽譜に記されている情報を頼りにしているが、フェルドマンの楽曲に関しては聴取に基づく経験的な側面と、楽譜から読み取ることのできる実証的な側面の両方が常に必要だ。

 「垂直な時間」、「垂直な音楽」を完全に客観的な視点から実証するのは不可能に近いが、Kramerの議論を参照することでフェルドマンが言おうとしていた「垂直」に多少は近付けたかもしれない。この種の議論は図やイラストを使うとさらに理解しやすくなるだろう。今回はあえて文章のみでどこまで「垂直」を描写し、解説できるのかを試してみた。だが、本稿は音楽を扱っているので言説のみで完結するわけにはいかない。楽曲に戻り、「垂直」が音楽の中にどう現れているのかを見ていく必要がある。次のセクションでとりあげるピアノ独奏曲「Piano Piece (to Philip Guston)」(1963)も和音が配置されただけのフェルドマン特有のなんとも言い難い曲だが、フィリップ・ガストンとの親交の様子などを参照しながら、この曲の「垂直」を見つけてみよう。


[1] Morton Feldman and John Cage, Radio Happenings Conversations-Gespräche, Köln: MusikTexte, 1993
[2] Ibid., p. 107
[3] リンク先の動画では「Two Pieces for Three Pianos」の作曲年代が1969年と表記されているが、パウル・ザッハー・アーカイヴでの資料調査に基づいてSebastian Clarenが作成した作品カタログ(Claren, Neither: Die Musik Morton Feldmans, Hofheim: Wolke Verlag, 2000に収録)によると、この曲の作曲年代は1965-66年。
[4] Ibid., p. 107
[5] Ibid., p. 109
[6] Jonathan D. Kramer, “New Temporalities in Music”, in Critical Inquiry, Spring, 1981, pp. 539-556
[7] 例えば、Kramerの論考”Modernism, Postmodernism, the Avant Garde, and Their Audiences,” in Postmodern, MusicPostmodern Listening, New York: Bloomsbury, 2016, pp. 47は音楽的な時間に関する論考ではないが、Kramerはフェルドマンをラディカル・モダニストと位置付けている。フェルドマンの存在がKramerの研究の範疇に入っていたと考えることができる。
[8] Kramer 1981, op. cit., p. 549
[9] Ibid., p. 549
[10] Ibid., p. 549

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は12月1日の予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(8) 垂直な経験、垂直な時間 1960年代前半の楽曲-1

(筆者:高橋智子)

 前回は1960年代前半から始まったフェルドマンの新たな記譜法「自由な持続の記譜法」について解説した。この記譜法の実践をとおして、彼は「垂直な構造」の視点で音楽を捉え直そうと試みたのだった。今回は1960年代のフェルドマンの音楽を語る際に鍵となる概念の一つ「垂直」を主に音楽的な時間の視点から考える。

1 垂直な経験

 前回解説したように、フェルドマンは音の特性を、音が発せられる瞬間のアタックではなく音が消えゆく際の減衰とみなしていた。実際、これまでの楽曲の大半にはダイナミクスやアタックを極力抑える演奏指示が記されており、音が鳴る瞬間よりも消えるプロセスに重きが置かれているのだとわかる。拍子記号と小節線を持たない五線譜に符桁(音符のはたの部分)のない音符を記す自由な記譜法の楽曲では拍節やリズムの感覚はほぼ皆無に近く、比較的ゆっくりとしたペースで音が鳴り、前後の音の響きが混ざり合い、響きが消えてゆくプロセスが繰り返される。前回とりあげた「Durations」1-5(1960-61)と「For Franz Kline」(1962)は音楽が時間とともに展開も前進もしない。たしかに現実世界での時間はその音楽が演奏された分だけ経過しているが、その音楽が聴き手にもたらす時間の性質は、進んでいく感覚や発展していく感覚とは異なる。「Durations」も「For Franz Kline」も、この非常に単純なプロセス――音が鳴る、響く、消える、次の音がまた鳴る――が曲の長さの分、開示されるだけであって、個々の要素が結合して時間の経過とともに全体像を構築する類の音楽ではないことは一聴して明らかだ。それぞれの楽器や声の音色の出自を曖昧にし、さらには音のアタックを可能な限り抑えることで、フェルドマンは自由な持続の記譜法の楽曲で音の減衰を聴かせようとしたのだ。なぜ彼はこれほどまでに音の減衰にこだわるのだろうか。ここで手がかりとなるのが「Vertical Thoughts」と題された彼の短いエッセイである。冒頭で彼は音の先在的な特性「音それ自体 sound itself」を絵画における色になぞらえて次のように述べている。

色がそれ自体の大きさを持っていると主張すれば、画家は自分の願望はさておき、色のこの主張に同意するだろう。彼は、例えばドローイングや差異を作る他の方法で色をまとめるために色の幻影的な要素に頼ることもできるし、色を「あるがままに」しておくだけでもかまわない。近年、音もそれ自体の大きさほのめかしたがっているのだと、私たちはわかってきている。この考え方を追究していると、私たちが音を「あるがままに」したいなら、差異を作り出したくなる欲求はどんなものでも放棄されるべきだと気付く。実際に私たちは、差異を作り出す全ての要素が音それ自体の中に先在していたことをすぐに知るようになる。

A painter will perhaps agree that a color insists on being a certain size, regardless of his wishes. He can either rely on the color’s illusionistic elements to integrate it with, say, drawing or any other means of differentiation, or he can simply allow it to “be.” In recent years we realize that sound too has predilection for suggesting its own proportions. In pursuing this thought we find that if we want the sound to “be,” any desire for differentiation must be abandoned. Actually, we soon learn that all the elements of differentiation were preexistent within the sound itself.[1]

フェルドマンが言う「differentiation」をここでは「差異を作ること」と解釈した。この差異は、手付かずの生来の特性や素材に何かしらの方法で特徴を加えて、別のものとして際立たせることを意味する。この営みは素材の加工、つまり材料から何かを作り上げる創作のことを指すともいえる。素材の加工は生(なま)の素材に特徴を与える差異化の営みだと言ってもよいだろう。これに対する概念が「色そのもの」または「音そのもの」だと据えることができる。「音そのもの」が具体的に音のどのようなあり方を指すのかは各人の見方や捉え方によって大きな違いがあるが、フェルドマンは人間の手に染まっていない音があるはずだと思い込んでいたか、信じていたはずだ。音の生来の姿の追求は、音楽の抽象性を追求した1950年代の彼の創作から一貫している態度でもある。音の去り際である減衰の中に聴こえる音響は、特にピアノのような楽器においては、電子音響のように完璧に人間の手で制御され得ない。人間の手の及ばない音の去り際にフェルドマンは音の本来の姿を見出した。

 作曲家自身が自由に音を操ることと、音を生来の姿のままに自由にしておくこととの関係をフェルドマンはどのように捉えていたのだろうか。

ある曲では音高の操作を、別の曲ではリズムとダイナミクスやその他あれこれの操作をあきらめるプロセスを用いる時、自分が「自由だ」と感じるわけではない。このように私は自分の役割に関して宙ぶらりんの状態にあるが、最終的に生じる結果に対して希望を持っている。私が操っているのは自分の意志である――楽譜の1ページよりはるかに難しいものを操っている。

I do not feel I am being “free” when I use a process that gives up control of pitches in one composition, rhythm and dynamics in another. etc. etc. Thus, I am left in a suspended state with regards to my role, but in a hopeful one with regard to the eventual outcome. What I control is my will – something far more difficult than a page of music.[2]

 これまでのフェルドマンの図形楽譜や自由な持続の記譜法の実践を見れば、彼の楽曲と記譜法の多くが音の何かしらの側面を自由にさせておく類の音楽だったことは明らかだ。前回解説した自由な持続の記譜法の場合は音の長さが奏者に委ねられていた。上記の引用の中で、フェルドマンは音ではなくて自分の意志を操っていると言っている。人間の意志や意図の及ばない領域での創作を実現する手段としての偶然性や不確定性の音楽は1950年代初期の大きな発見だったはずだが、この1963年に書かれた文章の中では、フェルドマンは自分の意志をコントロールしていると述べているのだ。さらにはその直前に、自分の役割、つまり作曲家としての役割を「宙ぶらりん」だとみなしている。音を自由にすることと、作曲家としての自分の意志を操ることとは一見、相容れないようにも思われる。だが、音を自由にすることは、この時点でのフェルドマンが自己との葛藤から引き出した答えの1つとして考えられる。たとえそれが自分の書いた音であっても、自分とその音とを同一視せず、さらにはその音を自分の所有物や占有物としてみなすこともなく、フェルドマンは自分と音との間に一線を引いていたとも解釈できる。

 前回解説した通り、1960年代前半当時のフェルドマンにとって音を操作して差異をもたらす最たる方法は音を水平に、つまり横の方向に配置して連続させることだった。音を水平に連ねて旋律や和声進行による1つの流れを作るのではなく、彼は音の長さを奏者に任せて散発的な音の減衰に耳の注意をひかせようとした。この試みの発端にあったのが「垂直 vertical」という新たな概念だ。この垂直という概念は、一方向に進む水平な連続性に相対する概念と位置付けられる。前回は垂直の概念の発見が記譜法と音の可塑性を追求した自由な持続の記譜法の着想にあったことを考察した。今回はより経験的な視点で、とりわけ音楽的な時間との関係からフェルドマンの言う「垂直」が意味するところを考えていく。垂直という概念が記譜法や音の響きと減衰だけでなく、音楽に内包される時間と、私たちが音楽を聴いている時に経験する時間に関係していることをフェルドマンは1964年2月にレナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルによって「…Out of ‘Last Pieces’」が演奏された際の楽曲解説の中で示唆しており、音の抽象性と可塑性の探求から垂直の概念にいたるまでの彼の思考の変遷をここから読み取ることができる。

 フェルドマンが書いた楽曲解説の内容に移る前に、1964年2月6日から9日まで4日間にわたって行われたニューヨーク・フィルの演奏会のついて触れておこう。この演奏会は、1964年2月の時点での前衛音楽並びに現代音楽の気鋭の作曲家に焦点を当てたバーンスタインによる企画「The Avant-Garde Program」シリーズの第5回目として行われた。現在もたまに驚くような構成の演奏会を見かけることもあるが、とりわけこの演奏会はプログラム構成自体が前衛的だ。前半はヴィヴァルディの『四季』から「秋」(2月なのに!)、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。この2曲の前に10分程度の演奏会用序曲を入れれば普通の定期演奏会のプログラムとして完結しそうだ。だが、この演奏会は前衛的なのでここで終わらない。チャイコフスキーの後に休憩を挟んで後半はこの演奏会のメイン企画「Music of Chance」へ。1964年2月7日の『New York Times』に掲載された演奏会評によれば、午後8時30分に始まったこの演奏会は11時5分に終わり、開演時と比べて聴衆はだいぶ減っていたようだ。[3]

 後半の「Music of Chance」では、バーンスタインによる曲目解説に続いて、ケージの電子音響を伴う「Atlas Eclipticalis」と「Winter Music」の2曲同時演奏、デヴィッド・チュードアをソリストに迎えたフェルドマンの「…Out of ‘Last Pieces’」、アール・ブラウンの「Available Forms Ⅱ for Orchestra Four Hands」[4]が演奏された。「…Out of ‘Last Pieces’」はこの曲の完成からまもない1961年3月17日にニューヨークのクーパー・ユニオンで初演されており、1964年のカーネギーホールでの演奏は再演に当たる。プログラムのケージ、フェルドマン、ブラウンの曲目解説はチュードア名義だが、「…Out of ‘Last Pieces’」の解説の中でチュードアは「下記の情報はフェルドマン氏から提供されたものです The following information has been supplied by Mr. Feldman」[5]と記し、実質フェルドマン自身が解説を執筆した。4日間開催されたこの演奏会のどこかの1日に、オーケストラでこれらの楽曲を演奏する困難を抱えたバーンスタインに代わって、当時たまたまニューヨークにいたカールハインツ・シュトックハウゼンがフェルドマンの曲を指揮したというエピソードがあるが真偽は定かではない[6]。下記のリンク先の動画の説明にあるように、自分たちの楽曲が即興とみなされることを危惧していたケージは事前にバーンスタインに手紙を送っていた。ケージの心配は現実となり、オーケストラはケージの曲で作曲家が意図しない即興演奏をしたようだ。

プログラムノート https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/2fbec537-ec06-47ec-b99b-3296626ff5a2-0.1/fullview – page/1/mode/2up

バーンスタインによる1964年2月9日の演奏会での解説
John Cage/ Winter Music with Atlas Eclipticalis
Feldman/ …Out of ‘Last Pieces’(1961)

Earle Brown/ Available Forms Ⅱ for Orchestra Four Hands (1962)
http://www.earle-brown.org/works/view/27

プログラムノートの中で、まず彼はこれまでの図形楽譜の実践を振り返っている。1950年代の図形楽譜および不確定性の音楽では、既に確立された様式や演奏者の技巧や記憶の蓄積とは無縁の「音そのもの」を直接的に体現した音楽を作り出すことが目的とされていた。

作曲のプロセスとして認識されている機能は、音が多くの構成要素の1つにすぎない音楽を可能にすることだ。音それ自体が完全に可塑的な現象になることができ、それ自体のかたち、設計、詩的なメタファーを示唆するのだと発見したことで、私は図形楽譜の新しい仕組みの考案にいたった――それは作曲のレトリックに妨げられずに音が直接生じることができる「不確定な」構造だ。

なんらかの様式を持つ、あるいは様式化された、最も経験的で洗練された実例を記憶の中から選び出すことにもっぱら依拠している即興とは違い、図形楽譜の目的は記憶を消すこと、超絶技巧を忘れることだ――音そのものに関して直接的な行動以外のあらゆるものを無に帰すことだ。

 The recognized function of compositional process is to make possible a music in which sound is only one of many components. The discovery that sound in itself can be a totally plastic phenomenon, suggesting its own shape, design and poetic metaphor, led me to devise a new system of graphic notation—an “indeterminate” structure allowing for the direct utterance of the sound, unhampered by compositional rhetoric.

 Unlike improvisation, which relies solely on memory in selecting the most empirical and sophisticated examples of a style, or styled, the purpose of the graph is to erase memory, to erase virtuosity—to do away with everything but a direct action in terms of the sound itself.[7]

 だが、これまでも本稿で何度か指摘してきたように、1950年代の図形楽譜の楽曲は即興と混同されることが多く、フェルドマンが意図してきた演奏を実現できた機会はほとんど稀だったと思われる。これまでの図形楽譜のように音域のみを指定し、演奏すべき具体的な音高を奏者に委ねただけでは、やはり凡庸な結果を招きがちだ。音高が不確定であろうと、マス目を1拍とみなしてそれに沿って進む図形楽譜の楽曲では、時間の進み方に関していえば、左から右へと水平に一直線に進みゆく従来の西洋音楽の時間の感覚となんら変わりない。フェルドマンは、この発展的な感覚に基づく慣習的な時間に沿った水平な出来事の連なりが音楽における可塑性を妨げる原因だと考える。

これらの初期の作品(訳注「Projection 1」、「Intersection 2」、「Marginal Intersection」)は今もなお、時間が文字どおりに(慣習的に)扱われた出来事の水平な連なりと見なされていた。水平な連続性で作曲しているならば、大雑把な言い方だが、まだ差異を作り出すことに頼っているのだ――私の場合、音域の対照的な音の並置が差異を作り出すことだった。全体の空間の中での音を思い描けば、絶えず分岐し続ける空間に常にたどり着く。音にとって決定打にはならないことがまだ起き続けている。その音はさらに弾力を帯びてきているが、まだ可塑的とは言えない。次の段階は深さの中で音を探求することだった――つまり垂直に音を探求することだ。

These earlier works were still conceived as a horizontal series of events in which time was treated literally (conventionally). Working in a horizontal continuity, one is still, broadly speaking, dependent of differentiation—in my case, the juxtaposing of registers. Envisioning sound in a total space, one arrives always at a continually sub-divided space. That which is not crucial to the sound still con(s)tantly occurs. The sound has become more elastic, but it has not yet become plastic. The next step was to explore sound in depth—i.e., vertically.[8]

 彼がここで意図することを掘り下げると次のように解釈できるだろう――時間の流れに沿って音を高・中・低の音域に配置することは一見センセーショナルだったが、依然、音を時間に従属させることを意味し、音の可変性や可塑性をまだ実現していない。今度は水平な視点で音と音楽を捉えるのをやめて、垂直な視点で音に迫ってみよう――。彼の「水平がだめなら垂直へ」という発想はいささか安易にも見えるし、水平と垂直を対峙させるフェルドマンの考え方がどのくらい論理的に一貫しているかは疑問が残る。実際、音楽の構造やテクスチュアは多くの音楽の基本となる旋律と和音に始まり、トーン・クラスター、ドローン、反復パターンなど、水平と垂直だけで語りつくせないほど多種多様だ。だが、本稿はフェルドマンのアイディアの矛盾を検証することだけを目的とはしていない。むしろ彼が当時抱えていた葛藤や問題意識にも焦点を当てると、時に理解しがたい論理で展開される彼のアイディアの真意が少しでも浮かび上がってくる可能性がある。その可能性の方に注視していきたい。

 このプログラムノートが書かれた1964年という時代を振り返ると、トータル・セリーの技法がヨーロッパ以外の世界各国にも浸透し、目的に向かって発展的に進む音楽とは異なる構造と時間を提示する音楽が試行されていた時期である。ニューヨークのダウンタウンのシーンでは1962年夏頃から既にラ・モンテ・ヤングらがThe Theatre of Eternal Musicの活動を開始し、従来の演奏時間の概念を覆す、ドローンを主体とした長時間の音楽を打ち出していた。フェルドマンが水平か、垂直かで逡巡していた時期は音楽における構造、形式、時間のあり方そのものを問い直す機運にあったといえる。抽象表現主義絵画からの影響が最も大きかった1950年代のフェルドマンが、楽曲の中に出てくるそれぞれの音の役割をほぼ均等に扱う「全面的 all over」なアプローチによって音楽からレトリックを取り除こうとしたことを思い出すと、音楽的な時間のあり方に着目した1960年代前半の「水平か、垂直か」の問いは、彼の問題意識が音楽の構造だけでなく音楽を経験する主体にも向けられるようになってきた兆候とみなすことができる。

 上記の時代背景から、1964年当時の彼の関心事として主に3つの事柄――音、楽曲の構造、時間――が挙げられる。これら3つは彼の音楽が新たな位相に入る1970年代前半までの間、「垂直」の概念をもとに実践されていく。プログラムノートの続きを見てみると、「…Out of ‘Last Pieces’」ではフェルドマンの考える「垂直な経験」と「時間のない状態」が作曲家の視点からはひとまず達成されていたようだ。

水平な線(時間)が断ち切られると、垂直な経験(無時間)が出現する。水平なプロセスに不可欠な要素である差異化を今や放棄することもできる。さらに「全面的な」音の世界に向かっている。もはや音域の分割もなく、まるで1つの音域で作曲していたかのようだ。時間の隔たりはもはや音楽にかたちや輪郭を与えない。時間は音楽をかたち作らない。音が時間をかたち作るのだ。

「…Out of ‘Last Pieces’」(1961)はグラフ用紙に書かれていて、グラフ用紙のマス目1つ分がmm. 80のテンポに値する。それぞれのマス目の中に演奏されるべき音の数が記されており、演奏者はそのマス目のタイミングで、あるいはそのマス目の長さの中で音を鳴らす。ダイナミクスは曲の間中とても控えめに。アンプを用いるギター、ハープ、チェレスタ、ヴィブラフォン、シロフォンはどの音域から音を選んでよい。低音域の音が指示されている短いセクションを除いて、他の全てのパートの音は各自の楽器の高音域で演奏される。

 When the horizontal line (time) is broken, the vertical experience (no time) emerges. Differentiation, an integral part of the horizontal process, can now be discarded. One is going toward a more “all over” sound world. There is no longer the separation of registers. It is as though one were working in one register. Time intervals no longer give the music its shape and contour. Time does not shape the sound. The sound shapes time.

 …Out of ‘Last Pieces’ (1961) was written on coordinated paper, with each box equal to mm. 80. The number of sounds to be played within each box is given, with the player entering on or within the duration of each box. Dynamics throughout are very low. The amplified guitar, harp, celesta, vibraphone and xylophone may choose sounds from any register. All other sounds are played in the high registers of the instruments, except for brief sections in which low sounds are indicated.[9]

 フェルドマンの解説にあるように「…Out of ‘Last Pieces’」は図形楽譜で書かれている。作曲家自身が解説する通り、グラフ用紙が使われ、テンポが指定され、マス目1つを1拍とみなし、音域を指定する点ではこれまでの図形楽譜とほとんど同じだ。打楽器独奏のための「The King of Denmark」(1964)終結部のヴィブラフォンと同じく、この曲ではピアノパートの最後に五線譜が挿入されるので、五線譜と図形楽譜によるコラージュのような状態が作られている。また、「…Out of ‘Last Pieces’」ではこれまでの図形楽譜の楽曲に比べて持続音の登場が顕著だ。前半はそれぞれの楽器が高音域で鳴らす小さな音のジェスチャーが同時多発して重なり合い、周期的な拍ではカウントできない複雑なテクスチャーが創出されている。後半は徐々に持続音が増えていく。音をひきのばし、その音が減衰するまでの行く末を聴かせようとする傾向は、近い年代に作曲された自由な持続の記譜法による「Durations」と「For Franz Kline」にも共通している。

 記譜に関しても、「…Out of ‘Last Pieces’」は五線譜で書かれたこれら2曲と共通点を持っている。それは、音をひきのばす箇所に点線が用いられていることだ。「Durations」と「For Franz Kline」では同じ音高が点線で結ばれており、その分だけ音をひきのばす。この点線は通常の五線譜のタイと同じ役割を果たしている。「…Out of ‘Last Pieces’」はマス目の中に点線を引いて複数のマス目を結んでいる。こうすることで、音を出すタイミングだけでなく、その音をどのくらいのばすのかが具体的に示される。マス目1つ分がmm. 80と指定されている以上、どうしても通常の規則的な拍の感覚が抜けきらず、水平な連続性が生じるのではないかと危ぶまれるが、解説には点線で結ばれた「そのマス目の長さの中で within the duration of each box」と書いてあるだけで、厳密にそのマス目の長さ分だけ音をのばせとは書かれていない。つまり、点線で結ばれたマス目の長さの中のどこかに音の「入り」があればよいのだと読むことも可能だ。このような曖昧さを残した、ややわかりにくい演奏指示によって、メトロノームでは測り得ないタイミングでの音の出だしが起きる。実際にこの曲を聴いてみると、mm. 80のテンポにそれぞれの音の出だしが正確にはまっているとは考えにくく、マス目の整然とした区切りでは記されないタイミングで音が鳴っている様子がわかる。この曲は拍の単位から逸脱した音で満たされており、聴き手に前後不覚の感覚を与える。前回とりあげた、記譜と実際の鳴り響きが大きく乖離する「For Franz Kline」も各パートの錯綜と、そこから聴き手にもたらされる前後不覚の感覚という点では「…Out of ‘Last Pieces’」と類似した楽曲だ。「For Franz Kline」は五線譜を用いた自由な持続の記譜法で書かれており、「…Out of ‘Last Pieces’」は図形楽譜で書かれているという大きな違いがあるものの、どちらの場合においても、規則的な拍では測りえない時間の感覚を作り出している。測りえない時間と、それに伴う前後不覚の感覚がフェルドマンのいう「垂直な経験」ならば、やはり「…Out of ‘Last Pieces’」は一応、彼の目的が達成された曲だと言えるだろう。しかし、十分に予想できることだが、この時の聴衆や批評家の反応はフェルドマンが期待していたものとはだいぶ異なっていたようだ。

 1964年2月7日の『New York Times』のSchonbergによる演奏会評では「プログラムノートは詳細だったし、バーンスタイン氏の解説も詳しかったが、そのどちらもこの音楽を理解するには全くの無力だ。問題は音楽だ。The program notes were detailed, and so were Mr. Bernstein’s comments. But none of those are really of any help for understanding this music, it is music.」[10]と記されており、ケージ、フェルドマン、ブラウンの曲がプログラムノートを読んだとしても一聴して理解するには難しい音楽だった様子が伝わってくる。だが、Schonbergは「アクション・ペインティングのある種の形式との強い類似が見られ、多くの偶然性の音楽の作曲家たちが、とりわけ当夜の3人がジャクソン・ポロック、フィリップ・ガストン、ロバート・ラウシェンバーグの作品を絶えず喚起させていることは大きな意味を持つ。There is a strong analogy to certain forms of action painting, and it is significant that many aleatoric composers, especially these three, constantly evoke the work of Jackson Pollock, Phillip Guston and Robert Rauschenberg.」[11]と同時代の絵画との関係を指摘し、この3人の作曲家の創作の背景をある程度理解していたようだ。聴衆の反応については次のように描写されている。

だが、これだけは言っておくと、この日のプログラムは客席にいた多くの純粋無垢な聴衆に揺さぶりをかけたのはたしかだ。彼らの多くは若い前衛たちに強い衝撃を与えている類の音楽に初めてさらされた。今では彼ら純粋無垢な聴衆は、あらゆる種類の奇妙で、おそらく不道徳な物事が音楽の世界に入り込んでいることを知っている。スカートの裾を持って恐怖のあまり逃げる人もいるだろう。さらなる探求のために戻ってくる人はごくわずかなはずだ。

これらの曲の、新しい音に満ちたどの出来事にも見られる明らかなカオスと気味の悪さは聴衆を激しく動揺させた。

If nothing else, though, the program did shake the innocence of many listeners in the audience. For the first time many of them were exposed to a type of music that is making a strong impact on the young avant‐garde. Now those innocents know that there are all kinds of strange and possibly immoral things going on in the world of music. Some may flee in horror, picking up their skirts. A few may come back for further investigation.

In any event, these pieces, with their new sounds, apparent chaos and weird textures, shook the audience quite a bit.[12]

 ヴィヴァルディとチャイコフスキーを聴いた後にケージのライブ・エレクトロニクス作品、フェルドマンの図形楽譜のオーケストラ作品、ブラウンの即興的なオーケストラ作品を立て続けに聴けば、大半の聴衆はここでSchonbergが書いているような感想を抱くことは想像に難くない。ここでの指摘は専ら音響(この時ケージは電子音響を用いた)や音色の珍奇さに終始している。これは、フェルドマンがいくら言葉で「垂直な経験」や「時間のない状態」を説明しようと、時間や音楽の構造ではなく音の響きに対する印象が聴衆、つまり聴き手の経験の中で優位を占めるのだと物語っている。「カオス」という描写が示す現象や体験を掘り下げていくと「垂直な経験」に行き着く可能性があるかもしれず、おそらく聴衆に限らず作曲家自身もこの時点ではこの種の音楽の中での経験をまだうまく言語化できていなかったとも思われる。それでもフェルドマンはここで発見した垂直の概念を手放さず、1960年代は自身の言説と記譜法を始めとする実践の両面で垂直を追求していく。

次のセクションではフェルドマンとケージとの対話などを参照しながら垂直な時間について考察する。


[1] Morton Feldman, “Vertical Thoughts,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 12
[2] Ibid., pp. 17-18
[3] Harold Schonberg, “Music: Last of a Series; Bernstein et al Conduct 5th Avant-Garde Bill,” New York Times, February 7, 1964
https://www.nytimes.com/1964/02/07/archives/music-last-of-a-series-bernstein-et-al-conduct-5th-avantgarde-bill.html
[4] ブラウンの「Available Forms Ⅱ for Orchestra Four Hands」はオーケストラを2人の指揮者が指揮するので「腕4本のための」と題されている。
[5] New York Philharmonic One Hundred Twenty-Second Season 1963-1964, “The Avant-Garde” Program Ⅴ
https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/2fbec537-ec06-47ec-b99b-3296626ff5a2-0.1/fullview – page/6/mode/2up
[6] このエピソードの出典はMorton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006巻末のフェルドマンのバイオグラフィー(p. 265)。しかし、シュトックハウゼンが実際に指揮をしたという記録は当時の新聞等を遡ってみても見当たらない。
[7] David Tudor and Morton Feldman, “…Out of ‘Last Pieces’” in New York Philharmonic One Hundred Twenty-Second Season 1963-1964, “The Avant-Gards” Program Ⅴ https://archives.nyphil.org/index.php/artifact/2fbec537-ec06-47ec-b99b-3296626ff5a2-0.1/fullview#page/2/mode/2up
[8] Ibid.
[9] Ibid.
[10] Harold Schonberg 1964, op. cit.
https://www.nytimes.com/1964/02/07/archives/music-last-of-a-series-bernstein-et-al-conduct-5th-avantgarde-bill.html
[11] Ibid.
[12] Ibid.

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。

(次回更新は11月24日の予定です)

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (26) 珍曲へのいざない 番外編 歌謡曲クラシック列伝

上田知華+KARYOBIN  WARNER L-10151E (1979年) *1
春野寿美礼 Chopin et Sand -男と女-  EPIC RECORDS ESCL 3495 (2010年)

クラシック音楽のポップス化は洋の東西でこれまで大量に行われています。ヒットチャートを飾った楽曲も少なくありません。日本でも古くはザ・ピーナッツの「情熱の花」(1959年)、同じ原曲のフレーズをさらに多く取り入れたザ・ヴィーナスの「キッスは目にして!」(1981年)、平原綾香「Jupiter」(2003年)、SEAMO「Continue」(2008年)あたりが売れましたね。中でも平原綾香は全曲クラシックというアルバムをこれまで3枚リリースしています。まぁ「Jupiter」でデビューした平原綾香がクラシックを演るのは当たり前な感じがあるのですが、意外なところではその昔、殿様キングスが全曲クラシックネタというアルバム「パロッタ・クラシック」(1983年)というのを出してました。その中の収録曲では「係長5時を過ぎれば」は多少知られてますかな。楽曲がヒットしたわけではないですが、人口に膾炙したといえばCM NETWORKの「ちちんVVの唄」(ディスコバージョンよりオーケストラバージョンの方が面白い)もありました。CM音声からはわかりにくいのですが、この曲の歌詞はかなり春歌っぽく、令和の世で人前で歌うことは厳しいものがあります。そういえばシュワちゃんのCMが流れた1990年のレコード藝術誌の読者投書欄に「ちちんVVの唄はショスタコーヴィチに対する許しがたい冒涜だ」という檄文が載ったのも覚えています。あの頃はまだそんな純粋培養系聖クラマニが棲息していましたし、レコ藝誌側もそんな投稿を掲載したりする感覚が残存していたのですね。

さて、歌謡ポップス化したクラシック、しかもピアノ曲からのものをいくつかご紹介しましょう。全曲ピアノ曲という由紀さおり・安田祥子のアカペラスキャットアルバム「ピアノのけいこ」が一般的には良く知られてると思います。バイエルから4曲歌うなど見事な大衆路線である一方、トリに収録されたトルコ行進曲などは中々に見事です。ただ、このアルバムはクラシックの楽曲を歌謡ポップス側の人がほぼ音符そのままで「声で演奏」したもの。どうせなら歌詞を付けちゃったものの方が余計なイメージが色々と添加されていて面白い。

まずは上田知華+KARYOBINが1979年に発表したアルバムに入っていた「BGM」という曲。大人になり切れないお馬鹿さんな彼より私の方が先に大人になってしまった、という内容の別れを予感させる歌詞です。さぁ、この曲、何でしょうか。実はベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」の第3楽章なのです。わりと原曲に沿ったアレンジで、ABACA形式からACAでワンコーラスを創っています。Cのところの歌詞なんて「笑い転げて生きられたなら 少女は女にならずに済むわ」(作詞:山川啓介)ですからね。ベートーヴェン様もびっくりでしょう。よくCをこういう風に変えたもんだと感心すると同時に、ちょい苦笑のツボに嵌ります。上田知華+KARYOBINはピアノ五重奏(ピアノ弾き語り+弦楽四重奏)というかなり特殊な編成のグループでしたので、こういうクラシックな楽曲には音色的に合っていました。編曲及び音楽ディレクターは作曲家の樋口康雄。ピアノ五重奏版の悲愴ソナタ第3楽章としても随所に良い感じを醸し出していて納得のアレンジです。

ピアノ曲の歌謡ポップス化アレンジとして珍しいものには、ショパンの幻想即興曲があります。もちろん古いミュージカルナンバー「I’m always chasing rainbows(虹を追って)」は有名です。アメリカの往年のシンガーは結構歌っていて、幻想即興曲の中間部のメロディをゆったりと引用して淡い夢と希望を紡ぎます。で、中間部のメロディーをポピュラー音楽として歌うのは想像の範囲内なのですが、2010年に幻想即興曲のあの急速な冒頭部分に歌詞を付けて歌うという快挙(または暴挙)に出たアルバムが発売されます。歌ったのは日本の春野寿美礼。元宝塚歌劇団花組トップスターで、2007年の退団後もミュージカル女優として活躍しています。彼女が発表した「Chopin et Sand -男と女-」はクラシックから5曲(ショパン3曲、シューマン、マーラー)選んで歌っているミニアルバムです。この中の「メモワール -Memories of Paris-」が幻想即興曲なのです。さすがにあのフレーズを急速なままは歌いません。テンポをぐっと落とし、ものすごくムーディーに壊れかけた恋を歌うのです。冒頭のフレーズに付いた歌詞は「私がこのままこの部屋出て行けば 永遠にあなたを失うでしょう」(作詞:菅野こうめい)です。原曲の13小節目からなんて「ねえ何か話してよ まだ愛してるなら」ですからね。ウーーーム、雰囲気や良し。問題はメロディラインです。たとえテンポを落としたとしても、人間が歌うことなんて全く想定外で書かれているメロディですから、音域は極めて広く、ぽんぽん飛びます。これを歌うだけでも大変な作業と思われますが、宝塚っぽさとアンニュイな雰囲気を保ったまま歌い続けた春野寿美礼の努力には頭が下がります。ま、でも、結果的には選曲ミス、かなぁ。いずれにしろあの幻想即興曲をここまで変容させてしまった音楽的衝撃という点では弩級でしょう。なお、同じアルバムにはショパンの夜想曲第20番をタンゴっぽく演った「追憶のバルセロナ」も収録されていて、これもかなりのインパクトがあります。

メタモルフォーズされた音楽は、作曲者が思いもしなかったような魅力が引き出されることがたまにあります。その新たな魅力、往々にして時代の最新の衣を纏った魅力は、原曲の演奏解釈にプラスになることがないわけではない……ようなやっぱダメなような……ともあれ演奏においてオモシロイ“抽斗”にはなるでしょう。開けるかどうかは別としてね。それが歌謡曲クラシックの魅力のひとつです。なかなか見つけにくい存在ですが、ぜひとも探索してみてください。ひたすらにアンニュイな幻想即興曲とか、「笑い転げて生きられたなら少女は女にならずに済むわ」という詞が脳裏に木霊するような悲愴を聴いてみたいじゃないですか。

クラシックには良質のメロディーがわんさかあります。ネタに困った音楽プロデューサーやミュージシャンが新たな発掘と改変を続けて行ってくれることでしょう。改変の幅は創造力の続く限り広大無辺です。その中でもかなり振り切った方の好例として春野寿美礼のアプローチは語り継がれると思います。ま、私は本稿の脱稿後、二度と聞かないとは思いますが・・・

*1:上田知華+KARYOBINのアルバムは演奏者名とアルバムタイトルが同じ。

《補足:その他の私のおすすめ歌謡ポップス化クラシック 3題》

  • ブリーフ&トランクス 「ティッシュ配り」(1998年)
    ラヴェルのボレロにギャグ系の歌詞を付けたブリトラの傑作。メロディだけではなく低弦と小太鼓が刻むリズムの方にも歌詞を付け、そちらを先行させたのが秀逸。彼らにはクラシックネタの楽曲がいくつかあり「小フーガ ハゲ短調」「カテキン」などもよい。
  • ザ・ズートルビー 「水虫の唄」(1968年)
    イントロにベートーヴェンの田園交響曲冒頭、歌のサビにメンデルスゾーンの春の歌を引用して創られている。ギャグ系の歌詞だが、春の歌の部分の歌詞は曲想に合っていて麗しい。
  • 薬師丸ひろ子 「花のささやき」(1986年)
    モーツァルトのピアノ協曲第23番第2楽章。薬師丸ひろ子の合唱部的な透明感あふれる歌唱が美しく、ヲジサンの中の乙女心に切なく響く。クラシックの歌謡ポップス化の中の名品と溺愛している。女優歌唱の珍品としては高岡早紀の「バラ色の館」もある。妖しい雰囲気が良いが歌唱力に難があって薬師丸には遠く及ばない。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

吉池拓男の迷盤・珍盤百選 (25) 珍曲へのいざない その4 恐るべし、高校ブラバン部

交響的印象「教会のステンドグラス」より 武田晃/陸上自衛隊中央音楽隊 BRAIN MUSIC BOCD-7355
ミス・サイゴン 宍倉昭作品集LIVE 埼玉栄高等学校吹奏楽部 BRAIN MUSIC OSBR-25005

《前口上の言い訳》
筆者は吹奏楽部の経験はなく、日本の吹奏楽界では当たり前のことも知らない元ピアノヲタクです。ですので本稿は吹奏楽経験者には「なんもわかっとらんな、こいつ」という内容に溢れていますが、あくまでもピアノ系マニアから観た拙劣な感想文であることをご寛容のほどよろしくお願い申し上げ奉ります。

交響的印象「教会のステンドグラス」より 武田晃/陸上自衛隊中央音楽隊

《本文》
アレクサンドル・ニコラエヴィチ・スクリャービン作曲「おお、神秘なる力よ!」という楽曲名を見た時、第1交響曲の終楽章?法悦?プロメテ?遺作の神秘劇???そんな曲、あったっけな?と、衰え行く記憶力を奮い立たせましたが、一向に思いつきませんでした。で、これ、実はピアノソナタ第5番op.53の吹奏楽編曲版に付けられたタイトルだったのです。あの複雑で小難しいピアノ書法てんこ盛りの第5ソナタを吹奏楽でピーヒャラパンパカパーンと演るとは何考えとんのじゃっ、と呆れにも似た感情で聴き始めました……ありゃ?……うへっ……おをっ……畏れ入りました。私が悪うございました。ちゃんとやってますね、スクリャービンの5番。陸上自衛隊の皆様、どうか無知蒙昧な私を抹殺しないでくださいませ。編曲者は吹奏楽の世界では高名な田村文生せんせ。さらに驚いたのは、編曲を共同で委嘱したのが4つの高校の吹奏楽部とのこと。う~~~む、難しいだけでなく、この曲はクラシック音楽史上もっともエロい音楽と思っているのですが、それを高校吹奏楽部がお願いするなんて。恐ろしや、恐ろしや。

曲のタイトルにはピアノソナタ第5番の編曲とは全く書かれていません。曲の進行はほぼ原曲通りなのですが、編曲者の創造性が大きく加筆されているためと思われます。まず冒頭。打楽器の強打からピアノ原曲を遥かに超えるオドロオドロしさで始まります。ただ、この段階で「あ、スクリャービンの5番だっ」と気付く人は少ないかも。直後のLanguido(13小節)からは蕩けるような世界が始まり、「おっ、スクリャービンの5番じゃん。うわぁ、陶酔感マシマシじゃん」となります。ここからしばらくは堂々たるスクリャービン5番の吹奏楽版を堪能できます。独自のいじりを見せるのは96-97、100-101、104-105小節。原曲にはない上昇音階を入れていますが、これはピアノ版に逆輸入する価値があるかもしれない良い改編です。その後はちょこちょこ独自の小さな改変が続き、273-274小節、277-278小節で原曲がアルペジオっぽいのを弾くところでは管楽器独奏による独自のカデンツァを入れています。中々に蠱惑的で素晴らしい創造編曲です。で、原曲と大きく違うのが329小節からのPrestissimoの部分。原曲ではリズミカルに昂まってゆく部分なのですが、この編曲では逆にぐっとテンポを落とし、リズミカルなことも止め、ねとーーっとした泥濘のような耽美をまさぐります。私の個人的な感想としては、う~~む、ちょっと、ねぇ、でしょうか。原曲においてここの昂まりは輝きに満ち、全曲の中でも屈指の エレクトポイントと溺愛していたのですが……この変更はもったいないなぁ。で、357小節あたりから音楽は従来の活力を取り戻し、最後の高みへと昇っていきます。417小節からの大歌い上げは流石多人数合奏の豪奢なパワーが漲っていて羨ましくなります。特に金管の絶頂咆哮は圧倒的、これはピアノでは真似できませんねぇ。原曲から完全に逸脱するのが、ラスト16小節のPresto部分。ここは編曲者が「《法悦の詩》の終結部の様式をピアノソナタ第5番の動機を用いて(*1)」新作しています。原曲が昂奮の坩堝の中で射〇的に終了するのに対し、あくまでも荘厳に神々しく終了します。まさに「おお、神秘なる力よ!」。教育的配慮もバッチリです。

まさかのテンペスト、ブラバン編曲(異国情緒風)まで

このCDを出しているブレーン株式会社という吹奏楽中心の音盤製作会社はこれまで全く知ることがありませんでした。かなりの数の吹奏楽のCDを出しており、それを見るとピアノ曲からの編曲ものが結構あります。リストのスペイン狂詩曲・バッハの名による幻想曲とフーガ、ラフマニノフの音の絵(op.33-2,4,6, op,39-9)・パガニーニの主題による狂詩曲(10分短縮版)、ラヴェルのクープランの墓からトッカータなどなど、まさに恐るべしです。そんなラインナップの中から一つ。ベートーヴェンのピアノソナタ第17番op.31-2「テンペスト」の第3楽章をご紹介しましょう。編曲は宍倉晃せんせ、演奏は埼玉県の吹奏楽強豪校・埼玉栄高校です。

ミス・サイゴン 宍倉昭作品集LIVE 埼玉栄高等学校吹奏楽部

結論から言うとピアノで弾くテンペスト終楽章とはイメージがだいぶズレますが、素晴らしいアレンジです。カスタネットなどの打楽器を多用したり、リズムの取り方がワルツっぽい3拍子を刻んだりするので、感触的にはスペイン風舞曲に近いものがあります。あのテンペストが味付け一つでこんなに異国情緒になるなんて、実に素晴らしい。(皮肉ではありません、本当に賛美しています。念のため。)冒頭から提示部はほぼ譜面通りに音楽は進みます。ま、47小節あたりから刻むカスタネットのリズムが最初の「おやぁ?」でしょうか。展開部はかなり編曲者独自の対旋律や装飾が付加されています。113小節あたりの半音階下降もハマってますし、150小節からのベースライン変更も切なくて良いですね。193小節からは小太鼓が入って来てかなり明確な3拍子ダンスになり、再現部に向けての長い小太鼓ロールは妙に納得感があります。小太鼓ロールで盛り上げた後ですので、原曲の再現部は弱奏指示ですが「f」で力強く来ます。これも大納得。このあたりから付けてる和声がちょっとお洒落で今っぽい感じになり、247小節の濁った感じの装飾は(ちょっとズッコケますが)おもしろい。270小節で吃驚の全休止してから、ガツンと271小節を始めるところも良い演出です。音楽は次第に盛り上がり、350小節からは豪華絢爛大舞踏会状態に突入。原曲のラストは弱奏で終わりますが、こちらは大舞踏会状態のまま強奏で終わります。で、私個人は圧倒的にこの編曲の終わり方が好きです。もうベートーベンではありません。でも本当に素敵な音楽です。しかも演奏は高校生ですからね。大したもんです。(*2

この素晴らしいテンペストはピアノ独奏用に逆編曲すべきでしょう。タイトルは、Valse-caprice de concert sur le finale de “Tempest” Sonate de Beethoven=Shishikura かな。結構イケる気がします。

今回、高校生たちの想いのこもった吹奏楽によるピアノ音楽演奏、感服いたしました。ピアノ音楽にはみなさんのアレンジの魔手が延びてくるのを心待ちにしている名曲がうじゃうじゃいます。とりあえずはバラ4かアルカンの交響曲、ラフマニノフの第2ソナタあたりからよろしくお願いいたします。

注*1:CD解説より引用
注*2:同じアルバムには、狂詩曲「ショパン・エチュード」というピアノ弾きに喧嘩を売ってるような楽曲も入っています。Op.10-4,12、op.25-7-11の4曲による自由なパラフレーズで、op.10-4とop.25-7は原曲のテンポ感で、op.10-12はゆったりエレジー風に、op.25-11は哀しきファンファーレのように使われてます。Op.10-4は演奏が大変そうでかなりゴクロウサンです。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

2020年10月の新刊情報(フォンテーヌ、ナモラーゼ、濱川)

10月末の新刊情報です。発送は10月27日(火)より順次行います。

アレクサンドル・フォンテーヌ:前奏曲とフーガ 作品44

フランスを拠点に活躍する作曲家 アレクサンドル・フォンテーヌは、彼の友人でもある福間洸太朗の依頼によって、ひとつのピアノ作品を完成させました。その名は『「なんと儚く、なんと虚しいことだろうか」- 前奏曲とフーガ』。「前奏曲とフーガ」という題名から想起されるように、フォンテーヌはバッハに対するオマージュとしてこの作品を書き下ろしました。

2ページほどの短い前奏曲では、重々しくも華やかなコラールが展開され、徐々に音量が増しピアニスティックなフーガへと突入します。フーガには対位法、対主題、反行はもちろん、黄金比やフィボナッチ数列などの数学的技法も取り入れられています。本作品は、2012年11月8日に福間洸太朗よりベルリンにて世界初演され、2015年1月27日に東京オペラシティで開催された「B→C」(ビートゥーシー)にて日本初演されています。福間洸太朗による演奏の音源を以下の動画で聴くことができます。


突如現れた異色の天才ピアニストであるニコラス・ナモラーゼ。クラシック音楽最高峰のコンクールのひとつ、カナダのカルガリーで開催されたホーネンス国際ピアノコンペティションで2018年に優勝し、国際的な注目を浴びるようになりました。世界中の様々なメディアからは絶賛され、来年はイギリスのクラシックレーベルのハイペリオンよりCDのリリースも予定されています。ピアニストとして活躍する一方、彼は作曲家としても活動しており、これまでにチェルシー音楽祭、ホーネンスフェスティバル、サンタフェなどの音楽祭から作品委嘱を受けています。今回ミューズプレスが出版するものは、彼がピアノのために書いた作品です。この出版プロジェクトはSonetto ClassicsのCEOである澤渡朋之氏の協力によって実現しました。

ニコラス・ナモラーゼ:エチュード I – VI

2015年から2019年にかけて書かれたピアノのための「エチュード I-VI」は、テクスチュアや音型の基盤となる特有のピアニスティックな技術的課題に着想を得ている点で伝統的なエチュードと言えますが、「長音階」「主に三和音」「動く鏡」「崩された和音」「もつれた糸」 「二つの音」と言ったやや異質なタイトルを持ち、現代的なアプローチでエチュードという形式が追求されています。技術的にもかなり高度なものが求められるために演奏は容易ではありませんが、少しでも演奏者の助けになるために8ページほどの練習法を記した別冊が付属します。先に述べたホーネンス国際ピアノコンペティションでの自演(エチュードIからIIIまで)がコチラで聴けます。


ニコラス・ナモラーゼ:アラベスク

作曲者によると「アラベスク」は、ヴィジュアル・アートの分野で定義される「アラベスク」の法則、つまり装飾的で、螺旋状に織り込まれたパターンという法則に基づいていて作曲されたそうです。 ピアニストの両手が複雑に交差しつつ、それぞれ2本の手があたかも独立した意思を持つような表現を求められる作品です。この作品もまたナモラーゼ本人による演奏でコチラから聞くことができます。

「アラベスク」の冒頭

ニコラス・ナモラーゼ:月、屈折する – 滝廉太郎の「荒城の月」に基づく変奏曲(2019)

「Moon, Refracted(月、屈折する)」は、ニコラス・ナモラーゼが初めての日本ツアーのために先んじて作曲されました。滝廉太郎によって作曲された歌曲「荒城の月」の主題に基づき、単一変奏曲が続きます。日本的な美学であり「侘び寂び」の概念の中にある要素に影響を受けながら、ナモラーゼは新たな「荒城の月」を生み出しました。2019年の来日の際に演奏された様子がコチラで聴けます。

ニコラス・ナモラーゼはアイエムシー音楽出版の招聘により2020年6月に来日が予定されていましたが、現在発生しているCOVID-19の影響により公演中止となってしまいました。詳細は未定ですが再来日も計画されているそうです。


濱川礼:左手のための「横濱ノスタルジア」

電気メーカー勤務を経て2020年現在、中京大学工学部教授も務める作曲家・ピアニストの濱川礼は横浜に大変な愛着を寄せ、横浜の持つ異国情緒や伝統・近代化をひとつの曲に仕立て上げました。その名も「横濱ノスタルジア」。本作品は、2018年に作曲コンクール RMN International Call for Piano Solo Worksで優勝を果たし、RMN Musicよりリリースされたピアノアルバム「Modern Music for Piano」にも収録され、注目を浴びました。

濱川が横浜らしさの一つとして着目したのが、山下公園に設置された少女像でも有名な「赤い靴」(作曲:本居長世、作詞:野口雨情)です。その「赤い靴」の和声進行から新たな旋律を創造、またその旋律に新たなハーモニーをつけたり(リハーモナイズ)、ジャズの4ビート(いわゆるスイング)を援用したり、4ビットのバイナリ(2進法)に基づくリズムを用いたりと、個性的な作曲技法が凝らされています。また、中間部には花火を模した特殊奏法も登場し、横浜をよりいっそう強く感じることができます。本作品は左手のみで演奏されるピアノ曲です。