吉池拓男の名盤・珍盤百選(33) 寸劇「迷走・CD企画会議」~黒人ピアニストたちの肖像~

George Walker in Recital George Walker(p) Albany TROY 117  (1994年)
JOHANN STRAUSS by LEOPOLD GODOWKY  Antony Rollé(p) FINNADAR RECORDS 90298-1 (1985年、LP)
A LONG WAY FROM NORMAL Awadagin Pratt(p)  EMI CLASSICS  CDC 5 55025 2 0 (1994年)

○弱小クラシックCDレーベル 魔煮悪classics 本社会議室

部長:50代男性  年々下がる売り上げに悩み続ける中間管理職
社員A:25歳男性 クラシックが何となく好きなニートっぽい兄ちゃん
社員B:36歳女性 入社10年を超えた中堅社員

部長:それでは企画会議を始める。皆もわかっていると思うが、クラシック音楽産業は衰退の一途にある。その大きな要因はやはりスターの不在だ。昭和の頃は道端のオッサンでもクラシックの指揮者は?と聞かれれば「カラヤン」くらいの名前は出てきた。新入社員のA君、今のベルリンフィルの常任は誰かな?

社員A:え、、、、、えっと、えっと……ぺ?……プ?……ペトルーシュカ、じゃないし……

部長:まぁ、そんなもんだ。私も先日、クラシック音楽酒場に行ったが即答できた奴はいなかった(筆者実話)。それほど今はスター不在なのだ。しかぁし、そんなことは言っていられない。何としてでもリスナーの財布のひもを緩めるスターを探し出すのだ。

社員B:よろしいでしょうか、部長。

部長:おお、Bくん、逸材に心当たりがあるかい?

社員B:クラシックといえど、古よりスターは美男美女もしくは夭折の天才と相場は決まっています。昔よりは演奏の腕はハイレベルになったと思いますが、正直、みな似たり寄ったり。さっそく音大に行って虚弱な美男美女プレイヤーを探してきます。

部長:いやいや、そのコンセプトはちょっとルイ風(※)かなぁ。確かにみてくれは大事だが、もう少し新しいコンセプトはないかね。

社員B:では、困難と闘う感動のストーリー性という点で、独裁的な国家から政治的迫害を受けている芸術闘士はいかがでしょうか?

部長:タコ・ロストロ路線だね。しかし、今、それほどに顕著な政治的迫害は(ピーーッ)国でもない限りいないんじゃないか? (ピーーッ)は演奏家へのコンタクトも大変だろう。それに芸術的自由だとか政治思想路線の闘争系はもう流行らないのではないかね。

社員B:では、感動のストーリーという点では(ピーーッ)でしょう。既に(ピーーッ)や(ピーーッ)という先例がありますから、市場は安定しています。

部長:こらこら、企画会議での発言は気を付けたまえ。最近オリンピックの演出で内部のブレスト的なやり取りが漏れて大変な事態になったことを忘れたか。間違っても(ピーーッ)とか(ピーーッ)とか(ピーーッ)とか言ってはいかんぞ。

社員B:では(ピーーッ)との闘いはどうですか?それを前面に出したセールスは過去に例はありませんから、斬新なのでは?

部長:ぶぁっかもん!!うちを潰す気か。(ピーーッ)はなし、なし、なし。

社員A:あのぉ……最近のネットの流行りで「ポリコレ」っていうのがあるみたいなんですけどぉ……

社員B:ポリコレ、いいわね、それ。部長、最近の流行りでは人種問題やジェンダー問題などが世界的にもホットなムーヴメントね。

部長:確かに。批判する奴がいたらポリコレ攻撃をかませばよいしな。

社員B:なんか全体的にポリコレの捉え方が間違っているようには思いますが……まぁ、音楽的価値以上の有無を言わせない価値が付加されることにはなりますね。

社員A:それって(ピーーッ)と同じですね?

部長:だから、(ピーーッ)とか口にするなって。お願いしますよ、ほんとにもう。

社員B:まずはより一般的な所から人種問題を取り扱うのはどうでしょう。

部長:ジェンダー問題はダメなのかね?

社員B:それも重要ですが、音楽業界はもともと(ピーーッ)ですし、今更殊更(ピーーッ)を主張しても割とスルーされてしまうのではないかと。

部長:確かに。では人種問題で行くか。

社員A:少し前、ネットニュースでよく見たのは「Black Lives Matter」ですね。やっぱ黒人の人たちへの問題が世界のトレンドかな。そういえば、黒人のピアニストってクラシックではほとんど見ないですね。

社員B:私もほとんど知らない。部長は?

部長:ジャズなら山ほど知っているが、確かにクラシックはあまり聞かないなぁ。その辺を調べてみる必要があるな。きっと知られざる素晴らしい演奏家が沢山いるに違いない。よし、今日は解散だ。次回のmtgまでに二人は色々調べてきてくれ。

社員A・B:了解しました。

~a few days later~

部長:では企画会議を始める。クラシックの黒人ピアニストについて調べてきたかね?

George Walker in Recital George Walker(p)

社員A:はい、部長。僕はGeorge Walkerっていう人を見つけました。めちゃクールなキャリアの人です。彼のホームページに経歴が書いてあって、そこらじゅうに「黒人で初めて first black」という言葉があふれています。音楽学校を出た最初の黒人ピアニストとか、大手の交響楽団や演奏会場に出演した最初の黒人とか、ピューリッツァー賞を取った最初の黒人とか、まさに黒人クラシック音楽家のパイオニアです。

部長:CDは出ているのかね?

社員A:amazonで検索したんですけど5~6種類はありました。ここにあるのは「George Walker in recital」です。1曲目のスカルラッティのソナタL.S.39、びっくりしますよ。

社員B:この曲って、こんなスイング感のあるリズムなの?

クリックで拡大

社員A:いやいや、もともとはかっちりとした2分の2拍子(譜例1)ですよ。Walkerの演奏はまるで8分の6拍子(譜例2)。さすがのリズム感っていう感じでしょ?

部長:ほかにもショパンや、ベートーヴェンを弾いてるようだが、スイングするのかね?

社員A:この曲だけです。

部長・社員B:えっ?

社員A:こんな不思議なリズムアプローチはこの曲だけです。あとは極めてまともです。同じスカルラッティももう5曲弾いてますが、極めてまともです。

社員B:なんで? これだけ……でも、面白いわ。これ。

部長:確かにこの1曲目は衝撃的に面白いが、インパクトが続かないなぁ。B君の方は誰か見つけたかい?

社員B:幻のピアニスト見つけました。

部長:なに、幻。そりゃよい宣伝文句だ。

社員B:名前はAntony Rollé。弾いているのはゴドフスキのシュトラウス編曲もの全4曲です。

JOHANN STRAUSS by LEOPOLD GODOWKY  Antony Rollé(p)

部長:シュトラウス=ゴドフスキのあの超難曲を、しかも全曲だとぉ。良く見つけた、偉い!

社員B:しかもこの録音、1985年にLPで出たきりでCD化されていません。

部長:ますますレア感upだねぇ。で、幻というのは?

社員B:この人、その後消息不明なんです。ネットでいくら検索しても出てきません。ピアノはアール・ワイルドに師事したらしいです。そしてデビューアルバムは1980年のメットネル作品集。2枚目がこのゴドフスキです。このアルバムを最後に消息不明です。

部長:消息不明か……交渉が大変そうだが、面白い。で、出来は?

社員B:いたって普通です。下手ではないですが、特に際立ったものはありません。

部長:あの難曲を普通に弾くだけでも大したもんだが、「いたって普通」かぁ……

社員B:で、そんなこともあろうかと、もう一人見つけてきました。どうです?このジャケット。

A LONG WAY FROM NORMAL Awadagin Pratt(p)

社員A:WOW 、Cooooool!

部長:インパクト特大だねぇ。しかもアルバムタイトルが「A Long Way from Normal」、正常からの遠い道のり。イイね、イイね、イイね。そそられるねぇ。

社員B:部長、違います。正常から遠いのではありません。

部長:はぁ? このジャケ写なんだから、どう見てもそうだろう。

社員B:このAwadagin Prattというピアニストは、イリノイ州のNormalという町の出身なんです。だからその故郷を遠く離れて随分と来たもんだという意味です。

部長:なんだ、それ。半分サギじゃないか。で、演奏は?この風体だけのことはあるだろうね?

社員B:極めてまともです。正統派の極みです。コンクールで優勝もしていますが、そりゃ優勝するだろうなという見事なNormal仕上がりです。技巧的にも安定しています。

部長:リストもバッハもフランクもブラームスも、みな真っ当か?

社員B:ひたすらに真っ当です。これはこれで素晴らしいことです。

部長:みてくれで過度な期待をしてはいけないということか……他にはいないかね?

社員A:すみません、今回は見つかりませんでした。

社員B:クラシック音楽が盛んな欧米ではもともと黒人人口は比率的にそれほど多くはありません。おそらくは歴史的・経済的問題も絡んでクラシックミュージシャンは絶対数が意外と少ないのだと思います。

部長:そうか。うーーーん、黒人ピアニストならではのリズム感とかノリとかを期待したのだが、Walkerの1曲を除いて真っ当路線か……

社員A:あのぉ……これって結局、人種とかに関係なく、真っ当に勉強した人は真っ当な結果を出すことができるということではないですか?

社員B:まずは中心値的な部分がきちんとできるということね。変な思い込みは禁物ね。

部長:なんか少しいい話でまとまったねぇ。けど、うちの企画としてはどうしたらよいのかますますわからなくなった。困った。

社員B:うちもまずは真っ当な路線を大事にしましょう、部長。

社員A:ですよ、部長。

部長:いや、真っ当路線は往年の巨匠たちが極上の結果を残してしまっているから、もう今更なんだよなぁ。やはり生き残りを賭けて過去にない斬新な企画を考えねばならないと思うんだよ。

社員A:じゃあ、やっぱ(ピーーッ)とか(ピーーッ)で行きましょうよ。

部長:ぶぁかもんっ!!!だから、そういうことは言ってはいかんって。

補記: 
※ルイ風……「古い」の実在した業界用語。ふるい ⇒ るいふ ⇒ るいふー。ルイ風は筆者による当て字。

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(12) フェルドマンとオーケストラ-1

文:高橋智子

1 1970年代の楽曲の編成とオーケストレーション

 前回は、バッファロー大学の教授就任をきっかけにバッファローへ転居したフェルドマンの環境が変わり、それに伴ういくつかの要因から曲の長さが次第に長くなっていったことと、楽曲の編成も大きくなってきた様子を概観した。1950年代、60年代のフェルドマンの楽曲は長くとも12分前後の室内楽や独奏曲が主流だったが、1970年代は管弦楽(オーケストラ)曲が増える。オーケストラやオーケストレーションに対するフェルドマンの考えを参照しながら、1970年代の管弦楽曲のなかでも独奏楽器と組み合わさった協奏曲編成の楽曲に焦点を当てて考察する。

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吉池拓男の名盤・珍盤百選(32) 一人芝居「さびれた音楽工務店の情景」 ~イタリアのへんなやつ2~

COMPOSIZIONI OSSESSIVE  Marco Falossi(p)  VELUT LUNA  CVLD 184 2009年
romantic pieces for piano Igor Roma(p)  Challenge classics CC72154  2006年
ENCORES  Igor Roma(p)  STEMRA IR2 2009年

○どこの町にもありそうな小さな工務店
 ただし、机の上には設計図ではなく楽譜や五線紙が散乱している
 どうやら“音楽工事”を請け負う特殊な工務店のようだ
 ヲタクっぽい営業担当のおっさん(吉池主任)がお客さんの電話に対応している

(♬電話着信音~)

『はいは~い、こちらはサクサク改作、貴方のミュージックライフを斬新リノベーションの伊太利音楽工務店でございます。はぁ? いやいや、カ・イ・ザ・ンではなく、カ・イ・サ・ク、改作を承っております。私、改作推進部営業の吉池と申します。移調、短縮、左手用、連弾化などなどお客様のご希望の工事を縦横無尽に承っております。本日はどういった改作工事のご要望でございましょうか? はい……はい……えっ、それは難題ですなぁ。ショパンと映画音楽が大好きで多忙なリスナーに超効率的に楽しめる音楽を提供したいと。ほぉほぉ、なるほど……うん、お任せください! 弊社にはそんじょそこらの工事業者を超えた発想と力量を有する選りすぐりの職人が在籍しております。このお仕事ですと……適任がいますよ。名前はMarco Falossiと言います。え、聞いたことない。いやいや、彼は楽譜絵師として知る人ぞ知る存在、大作「モーツァルト」をはじめ、最近では「ピアノ」とか「フォーク」などを仕上げておりますよ。その楽譜絵で培った匠の技でご要望にお応えいたしましょう。で、映画音楽はどのような曲をご希望で? はい……はい……シンドラーのリスト、チャップリンのライムライト、そういったあたりですね。で、ショパンは…あ、おまかせですね。わかりました。早速、Falossiに取り掛からせますので、どうぞご安心ください。では完成しましたらご連絡いたします。伊太利音楽工務店、吉池が承りました。』

  ~a few days later~

COMPOSIZIONI OSSESSIVE  Marco Falossi(p) 

『お客様、お待たせいたしまた。弊社ならではの合体工事で最高の効率化を実現いたしました。タイトルは「ショパンの変装」。「変奏」ではないですよ、「変装」です。ショパンは練習曲op.10-6をセレクトさせていただきました。どうです。ご希望の映画音楽たちとショパンを同時に演奏してしまうという最高度の効率化合体工法をご提示させていただきました。如何ですか?……えっ……はぁ……ただ同時に弾いてるだけで、いまいち調和していない? どこが楽譜絵で培った実力なのかわからない? しかも弾くのが難しすぎる? いやいやいやいや、お好きな音楽をいっぺんにお楽しみいただける弊社自慢の仕上がりですよ。まさに職人Falossiの真骨頂。ん~~~、そうだ、職人Falossiの別の作品「強迫的な作品」をサービスでお付けしましょう。いやいやそうおっしゃらず、お受け取り下さい。ええいっ、「情緒不安定な作品」「雄弁な作品」「修辞的な作品」「不確実な作品」「退行した作品」「無意味な作品」などもドドンとまとめて35曲お付けしましょう。ニクいね旦那、もってけドロボー。テレフォンショッピングでも滅多にお目にかかれない大盤振る舞いですよ。どうですか。え、そんな面倒くさいタイトルのゲンダイオンガクはなんぼあっても疲れるだけ? いやいやお客さま、お客さま、そうおっしゃらずに、ぜひぜひご笑納をっ、毎度のご贔屓をっ……』

○どこの町にもありそうな小さな工務店
 前回の受注からしばらくたったある日の午後
 ニッチ過ぎる業種のせいか、ヒマで眠そうな営業担当。
 そのとき、久々の電話が鳴り響く。

(♬電話着信音~)

『ふぁいふぁ~い、こちらはサクサク改作、貴方のミュージックライフを斬新リノベーションの伊太利音楽工務店でございます。ほぁ? あのですね、カ・イ・ザ・ンではなく、カ・イ・サ・ク、改作ですってば。私、改作推進部営業の吉池と申します。移調、短縮、左手用、連弾化などなどお客様のご希望の工事を縦横無尽に承っております。本日はどういった改作工事のご要望でございましょうか? はい……はい……えっ、それは超難題でございますな。かの魔神Hお得意のモシュコフスキ作品に魔神がビビるくらいの難化工事を施してほしいと。うううむ、難化による魔神超えですか……これは、お高くつきますよ。え、音の量には糸目をつけないと。これは頼もしいお言葉。わかりました。弊社にはうってつけの職人がおります。名前はIgor Romaと申します。え、聞いたことがない。ま、そうでしょうね。これまで50年以上の人生で作品集は2回しか発表しておりません。とにかく指さばきとキレ味ならば当代随一の匠でございます。モシュコフスキはどれを? 火花op.36 no.6と練習曲ヘ長調op.72 no.6ですね。お客さん、攻めますねぇ。魔神Hの十八番中の十八番じゃないですか。ようございましょう。早速仕事に取り掛からせていただきますので、どうぞご安心ください。では完成しましたらご連絡いたします。伊太利音楽工務店、吉池が承りました。』

 ~a few days later~

ENCORES 
Igor Roma(p) 

『お客様、お待たせいたしまた。弊社渾身の難化工事で前人未到の世界を構築いたしました。まずは火花 op.36 no.6。最初の32小節とそれの繰り返しは素晴らしく快速なだけで特に施工はしておりません。そこ過ぎたあたりから左右にナイスなアタックを入れ始め、36秒目くらいからは右手の原曲にある8分音符を消し、職人Romaお得意の急速な16分音符(もしくはそれ以上)の暴走乱発つむじ風状態といたしました。これぞ弊社が自信もってお届けする難化工事の極み。お客様のご要望通り右手の音数はトンデモなく増幅され、魔神H越えを実現しております。で、ラストはジャズコードを使ったなかなかオトナの仕上がりにさせていただきました。続きましては練習曲ヘ長調 op.72 no.6。どうです、この音増量。お客様の創造をはるかに超えた世界を実現させていただきました。ほぼ音数倍増の特種難化工事と自負しております。もちろん火花のラストで装飾いたしましたジャズテイストは今回は中ほどで披露させていただいています。……え?……はぁ……いくらなんでもやりすぎだと。これではとても常人では弾くことができないと。いやぁ。そうは申されましても、希代の指さばき職人Romaの技ですのでこれくらいはご勘弁いただかないと。納品に際しては火花のライブ動画仕様書、練習曲のライブ動画仕様書はお付けしましたので再度ご確認ください。

romantic pieces for piano
Igor Roma(p)

そうだ、サービスでRomaの若いころの作品集「romantic pieces for piano」から難化工事を施したアルカンのサルタレッロop.23をお付けしますよ。もちろんアルカンですから原曲は急速な上に同音連打が多くてかなり難しい8分の6拍子の舞曲です。冒頭から20秒間はアルカンの原曲のままにしてありますが、それが繰り返される所から音を分厚く加え、なんじゃこれ!の世界を開陳させていただいています。しかも急速なテンポはひるまず保ち、アルカンの狂気を孕んだイタリア舞曲をキレ良く快走。曲の進行はほぼ原曲通りで、ラストはヴォロドスのトルコ行進曲とほぼ同じ和音連打瀑布。見事な施工でしょう?どうです?……え……原曲が無名すぎて「これが難化です」と言われてもピンと来ない? 誰も知らない曲ですごいでしょと言われても困るって? いやいやそうおっしゃらずに、ひとつよろしくお願いしますよ。そうだ、Romaの新作、ラテンナンバー工法を大胆に使用した超拡大版バッハ=シロティ前奏曲ロ短調もお付けしましょう。Romaが一人二役で施工しまくったダブル難化工事の名作ですよ。さあ、ぜひお受け取りを。お客さん?お客さん? もしもーし、もしもーーし。ではでは、イタリアン・ポルカの連弾難化工事もオマケしちゃおうかな。もしもーし、もしもーーーし、お客さ~~んっ……』 

○吹きすさぶ寒風、飛び散る五線紙、そこはかとなく漂う倒産の予感

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-3

文:高橋智子

3 フェルドマンの新たな境地 The Viola in My Life 1-4

 1970年から1971年にかけて作曲された4曲からなる「The Viola in My Life」は1970年代の楽曲の中だけでなく、フェルドマンの楽曲全体を見渡してみても特殊な位置にある作品だ。この当時のフェルドマンの楽曲には珍しく、「The Viola in My Life」では明確に認識できる旋律が登場する。フェルドマンはこれまでに1947年に作曲した独唱曲「Only」や、1950年代、60年代に手がけたいくつかの映画や映像の音楽でも旋律のある曲を書いてきたが、旋律ともパターンともいえない概して抽象的な作風が彼の本分とみなされてきた。だが、1970年に入るとフェルドマンは五線譜の記譜に戻り、「The Viola in My Life」1-4を書いて叙情的な旋律を惜しげもなく披露する。前のセクションで解説した1970年代の楽曲のおおよその傾向を思い出しながら「The Viola in My Life」1-4がフェルドマンの作品変遷の中でどのような位置にあるのかを見ていこう。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-2

文:高橋智子

2 1970年代の楽曲の主な特徴

 同じニューヨーク州内とはいえ、人口密度の高い大都市ニューヨーク市から、ナイアガラの滝に接するバッファロー市への引越しはフェルドマンの人生に劇的な変化をもたらしたと想像できる。この環境の変化は彼の音楽にも大きく影響し、とりわけ曲の長さや編成に反映されている。1972年にバッファローに拠点を移したフェルドマンの音楽の新たな境地はどのように受け止められたのだろうか。ニューヨーク時代のフェルドマンのかつての教え子で作曲家のトム・ジョンソンは、1973年2月14日にカーネギー・ホールで行われたバッファロー大学のThe Center of the Creative and Performing Artsの演奏会評を『Village Voice』に寄稿している。この演奏会ではフェルドマンの「Voices and Instruments 2」が演奏された。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-1

文:高橋智子

1 1970年代前半の出来事と楽曲

 これまでのフェルドマンの創作の歩みをごく簡単に振り返ってみよう。1950年代のフェルドマンは、ジョン・ケージを介して出会った抽象表現主義の画家や詩人たちとの交流の中から創作の着想を得て試行錯誤を重ねた。1960年代に入っても彼の創作はニューヨークを中心とする画家や詩人との交友関係が重要な役割を果たしていた。「For Franz Kline」(1962)や「De Kooning」(1963)は彼の友人でもある画家たちに捧げられた楽曲だ。1964年にはレナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルによって自身の楽曲が演奏され(第8回でとりあげたように、この演奏会の評判は芳しくなかったが)、「ニューヨークの気鋭作曲家」としての地位が徐々に確立されてきた。楽譜出版に関しては、1962年にフェルドマンはペータース Edition Petersと契約し、1950年代、1960年代のほとんどの楽曲はここから出版されている。1969年にフェルドマンはウニヴェルザール(またはユニヴァーサル)Universal Edition(以下、UE)と契約した。彼の最後の図形楽譜となった「In search of an orchestration」(1967)がUEから初めて出版された楽譜だ。以降フェルドマンの楽譜はUE[1]から出版されている。1970年代前半は出版社だけでなく、フェルドマンの周りの環境も音楽も大きく変わった時期である。

 1970年代前半にフェルドマンに起きた主な出来事として、ヨーロッパでの評価の高まり、教師としてのキャリアの始まり、バッファローへの転居があげられる。1950年代、60年代に既にヨーロッパ各地で演奏や講演活動をしていたケージとデヴィッド・チュードア、そして彼のライバルだったカールハインツ・シュトックハウゼンとピエール・ブーレーズをとおしてフェルドマンの存在と音楽はヨーロッパでも注目され始めていた。60年代後半から特にイギリスの現代音楽界で注目され、1966年にフェルドマンはイギリスでの2週間の講演ツアーを行った。また、フェルドマンは1950年代後半頃から既にコーネリアス・カーデューとも親交があった。フェルドマンとイギリスの現代音楽界との関係が1970年代に入るとますます強まる一方、彼は地元ニューヨークに対する失望と苛立ちを見せるようになる。1973年に書かれたエッセイ「I Met Heine on the Rue Fürstemberg」[2]の中で、1950年代、60年代当時のニューヨークのシーンのやや閉じた雰囲気について回想している。

その時ヴィレッジ[3]で、私たちは一般的に世界にまだ知られていなかった芸術の何かを共有しているのだと感じていた。それは一種の袋小路だったが、それでも私はその気分を楽しんでいる。私は同時代の音楽を聴くことがほとんどできなかった時代に育った。もしもそういう音楽を聴くことができた人に出会ったなら、その人はその音楽に関わっている人だった。

We had the feeling, then in the Village, of sharing something in art that was unknown to the world at large. It was a kind of cul-de-sac, and I still enjoy the feeling. I grew up in an era when there was very little ability to hear contemporary music. And when you met someone who could, there was that kinship.[4]

 このシーンの渦中にいた本人たちはそれなりに満足していただろうが、刺激や新しさの点でフェルドマンは物足りなさを感じていたのかもしれない。また、自分の音楽はもっと注目され、評価されてしかるべきという気持ちもあったのだと推測できる。そんな彼の苛立ちを少し和らげたのはイギリスの音楽界との接点だった。

 私はほぼ同時にイギリスの知識層とアングラに注目された。1950年後半にはコーネリアス・カーデューに、1960年代前半はウィルフリッド・メラーズ[5]によって。
 1966年から私は年に2、3ヶ月をイギリスで過ごしていて、おそらくバッファローの後にロンドンに行くだろう。イギリスの観客は他の観客とは違う。最高の雰囲気だ。私は変わり者だとまったく思われていない。
 例えば1972年にB.B.C(訳註:BBC)で「The Viola in My Life」と「Rothko Chapel」のオーケストラ演奏に加えて、自分ひとりによる3時間の番組を2回行った。私はイギリスの音楽生活の一部となった。アメリカでは「音楽生活の一部」になるようなことはありえない。

I was picked up in England by the establishment and the underground at about the same time. By Cornelius Cardew in the late fifties and by Wilfrid Mellers in the early sixties.
From 1966 on I’ve spent two or three months of the year in England, and I’ll probably go to London after Buffalo. They listen like no other audience. It’s the best atmosphere. I’m not really considered far-out.
In 1972, for instance, I had two three-hour one-man shows on the B.B.C.[sic], plus orchestral performances of The Viola in My Life and Rothko Chapel. I’ve become part of musical life in England. In America there’s really no such thing as “part of musical life.”[6]

 ここでフェルドマンは、集団即興の可能性を追求していたカーデューをイギリスの「アングラ」、音楽批評家として同時代の音楽を積極的に紹介していたメラーズを「知識層」と位置付けている。自分の音楽がイギリスの実験音楽界隈と現代音楽界隈の両方で受容されていることにフェルドマンは満足げだ。当時、彼はロンドンにフラットの一室を借りていてロンドンのシーンに直接的に関わっていた。また、この頃の楽曲のいくつかはイギリスのアンサンブル・グループ Fires of Londonや作曲家アラン・ハッカーのグループ Matrixに献呈されている。[7]ニューヨーク以外の場所とのつながりや評価が増していくにつれて、フェルドマンのニューヨークに対する想いが冷めていく。詳しくは後述するが、このエッセイが書かれた1973年当時、彼は既にバッファローに転居していた。

 ニューヨークとの接点を失ってしまった。私はいつもある種の部外者だったし、よい批評もされなかった。知ってのとおり、ニューヨークはパリと同じく現代音楽の街ではなかった。観客は忘れっぽく、作曲家についてもっと知ろうとする興味も抱かない。
 (ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者としての)ブーレーズのプログラムは実験的ではない。むしろ予測できる反応とともに、どこかで最初になされた事例を華麗に示してくれる。
 だから私は決まった音楽サークルに近づかなかった。実際バッファローでこうしていることが私にとっての初めてのアカデミックな状況だ。
 革新的な作曲家と人々は言う。だが、私は常に大きな歴史意識、つまり伝統や継続性の感覚を持っている。

  I’ve lost contact with New York. I was always sort of Odd Man Out, not good reviews. New York, you know, was never a modern music city, any more than Paris. The audience has no memory, not interested in getting to know more about a composer.
  Boulez’s programs[as conductor of New York Philharmonic]are not experimental. Rather glamorous samples of things done first somewhere else, with a known reaction.
 So I didn’t come up through regular music circles. In fact, this thing in Buffalo is my first academic situation.
 Radical composer, they say. But you see I’ve always had this big sense of history, the feeling of tradition, continuity.[8]

 1950年末頃から数年続いたケージ、デヴィット・チュードア、アール・ブラウン、クリスチャン・ウォルフとのニューヨーク・スクールとしての活動、ジャクソン・ポロック、フランツ・クライン、デ・クーニングらとのクラブやセダー・タヴァーンでの芸術談義はフェルドマンにとってもはや過去のものとなり、心情的にも彼とニューヨークのシーンとの隔たりは1970年代頃から顕著になっていく。ニューヨークのシーンに対するフェルドマンの想いをさらに複雑にさせた出来事があった。それは1970年10月にニューヨークのマルボロ・ギャラリーで開催されたフィリップ・ガストンの個展だ。この個展が開かれるまでフェルドマンとガストンは親友同士だった。1950年から1966年頃までのガストンの抽象時代[9]の作品は、キャンヴァスに描かれたくすんだ色彩による微かなかたちを特徴とする。まるで何かの痕跡のようにも見えるガストンのこの時期の作品は、破線を用いて楽譜の中に音楽の痕跡を描こうとしたフェルドマンの自由な持続の記譜法に少なからず影響を与えたと推測できる。前回解説した「Between Categories」(1969)をはじめとする1960年代に書かれたフェルドマンのエッセイにガストンが度々登場し、フェルドマンの音楽における時間や空間の概念に大きな示唆を与えていた。1964年にはフェルドマンは自由な持続の記譜法によるピアノ小品「Piano Piece (to Philip Guston)」を作曲している。だが、2人の友情は1970年10月のガストンの個展をきっかけに、しかもフェルドマンから一方的に終わってしまう。[10]

 マルボロ・ギャラリーで開かれたガストンの個展は主に1967年から1970年までに描かれた作品[11]で構成されていた。この頃からガストンは1950年代から1966年頃までの抽象とは全く異なる、具象というより漫画や戯画のような作風に転じる。この作風の変化がフェルドマンを大きく失望させ、彼はガストンとの友情にも終止符を打つ。この個展は当時どのように受けとめられたのだろうか。1970年11月5日発行の『Village Voice』に掲載された批評を見てみよう。

ガストンの新しい絵は漫画調で、変てこで、哀れで、社会的だ。頭巾をかぶって(KKK?)、切れ長の目をした人物がガタガタの車でうろつき、絵を描き、互いに殴り合い、たばこを吸う。時計、電球、指さし、ぶかぶかの靴は戯画化された姿で責め立ててくる。それはまるでデ・キリコが二日酔いでベッドに入り、アメリカが崩壊する話のクレイジー・カット[12]の夢を見ているようだった。過剰なのだ。彼のくすんだピンク色は私を打ちのめす強烈な絵画特有の色彩の流れとして、今もなお目に焼き付いている。だが、それは専らあやまちや恐怖による悲喜劇に寄与している。この変化をゲームの後半戦に持ってくるのは大変な勇気を必要とした。なぜなら、多くの人々がこれらをひどく嫌うのは自明だからだ。私は違うが。

Guston’s new paintings are cartoony, looney, moving, and social. Hooded (KKK?), slot-eyed figures rumble around in cars, paint paintings, beat each other, smoke cigars. Clocks, light bulbs, pointing hands, and out-sized shoes spoof and accuse. It’s as if De Chirico went to bed with a hangover and had a Krazy Kat dream about America falling apart. Too much. His smoky pinks are still in sight, as are terrific painterly passages that knock me out. But it’s all in the service of a tragi-comedy of errors or terrors. It really took guts to make this shift this late in the game, because a lot of people are going to hate these things, these paintings. Not me.[13]

 この批評から、KKK(クー・クラックス・クラン)を彷彿させる白頭巾のキャラクターや漫画調の作風がフェルドマンだけでなく当時の多くの人々に落胆と衝撃を与えたのだと想像できる。ガストンと絶交状態にあったものの、フェルドマンは1980年にガストンが亡くなった際には追悼文を書き、1984年には長時間の楽曲の1つでもある「For Philip Guston」を作曲する。一方、ガストンは1978年に「Friend – To M. F.」のタイトルでフェルドマンのポートレートを描いており、この絵はフェルドマンの著作集『Essays』[14](1985)と『Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman』(2000)の表紙に使われている。

 この時期のフェルドマンと画家との関わりとして、マーク・ロスコとの交友と「Rothko Chapel」委嘱もあげられる。ロスコもフェルドマンと親しく付き合っていた画家の1人だ。キャンヴァス一面に色を塗り重ねたロスコの全面絵画といわれる様式は、フェルドマンが音楽の「表面」について思索するきっかけともなった。1965年、ロスコはメニル財団からテキサス州ヒューストンに建設予定の無宗教の礼拝堂[15](今日「ロスコ・チャペル」として知られている)に設置される壁画の委嘱を受ける。ロスコは1967年に礼拝堂の壁画を完成させるが、礼拝堂の完成を見ぬまま1970年2月25日に自殺。67歳だった。1971年2月27日のロスコ・チャペル建立を記念してメニル財団はフェルドマンに楽曲を委嘱した。フェルドマンは作曲に集中するため1971年春にデ・メニル夫妻が所有するフランスのポンポワンの別荘で過ごした。[16]その結果生まれたのがソプラノ独唱、混声合唱、室内楽による「Rothko Chapel」[17]である。この曲はフェルドマンの楽曲には珍しく叙情性にあふれた旋律が用いられており、その少し前に作曲された「Viola in My Life」1-4と同じ作品群と見なされる。

Feldman/ Rothko Chapel (1971)

 友人との別れも人生に大きな悲しみや変化をもたらすが、さらに直接的な環境の変化がフェルドマンに起こる。それは教師としてのキャリアの始まりである。1970年からフェルドマンは画家のメルセデス・マッターが創設したニューヨーク・スタジオ・スクール New York Studio School of Drawing, Painting and Sculpture[18]の学科長を務める。おそらくこれが彼にとって初めての教職のはずだ。以前、この連載の第1回と第6回でも少し触れたが、フェルドマンは家業の子供服工場を手伝いながら音楽活動を続けていた。フェルドマンが作業着姿でアイロンをかける様子を見た作曲家で指揮者のルーカス・フォスは1964年頃からフェルドマンのために大学のポストを見つけようと奔走していた。[19]その間、フェルドマンはドイツ学術交流会 DAADの奨学金で1971年9月から1972年10月までベルリンに滞在していた。ベルリン滞在時は「Cello and Orchestra」(1972)、「Voices and Instruments」(1972)など、編成がそのままタイトルとなっている楽曲が作曲された。

 フォスの数年にわたる尽力が実り、1972年秋にフェルドマンはニューヨーク州立大学バッファロー校(以下、バッファロー大学)音楽学部作曲科のスリー教授 Slee Professor[20]に就任する。フェルドマンは約1年のベルリン滞在を終えるとバッファローに直行した。バッファロー大学教授就任に伴い、ついにフェルドマンはニューヨークを離れた。生まれも育ちもニューヨークで、生粋のニューヨーカーのフェルドマンはニューヨーク以外の街で暮らせるはずがないと思われており、フェルドマンのバッファローへの転居は当時、彼の友人たちをたいへん驚かせた。[21]マンハッタンの喧騒から離れたフェルドマンは新天地バッファローで作曲に集中し、これが結果として1970年代後半頃から現れる長時間の楽曲にもつながる。ニューヨーク以外の土地で無事にやっていけるのかという周囲の不安をよそに、安定した収入、快適な住居、そして何よりも学生や多くの一流の演奏家による演奏の機会を得たフェルドマンはバッファローでの暮らしを楽しんでいた。[22]当初フェルドマンの教授職は1年ごとの契約制だったが1974年には任期なしに変わり、ポストの名称もフェルドマン自らの希望でエドガー・ヴァレーズ教授 Edgard Varèse Chairとなった。

 フェルドマンは大学で作曲を教えることについてどのように考えていたのだろうか。バッファローに移る直前の1972年8月にポール・グリフィスによって行われたインタヴューでフェルドマンは次のように発言している。

グリフィス:音楽教育に対するあなたの考えをぜひともお聞かせください。たしか、今年の夏にダーティントンのサマースクール[23]にいらっしゃる予定ですね。

フェルドマン:その予定です。音楽教育で非常に残念なことのひとつは、音楽教育が作曲家を生み出していないことです。1、2年前にとてもよい条件の仕事の話を断りました。なぜなら、教えることに対する私の考えは大学の学科で起きているようなものとは違うからです。自分の学生には演奏グループに関わってほしくないし、演奏のために作曲してほしくもありませんでした。

Griffiths: I would be interested to hear your views on music education, as I believe you are coming to Dartington this summer.

Feldman: Yes I am. Well, one of the tragedies of music education is that it doesn’t produce composers. I turned down a very good job a year or two ago, because my idea of teaching just isn’t what’s happening in departments. I didn’t want my students involved in performance groups, or in writing music for performance.[24]

ここでのフェルドマンは音楽教育、とりわけ大学で作曲を教えることに対して否定的な立場を取っているように見える。最終的に彼は教職に就くが、その直前まで大学での音楽教育には懐疑的だった。こうした態度の背景には、音楽院や大学ではなく、シュテファン・ヴォルペやケージらの私的なレッスンをとおして作曲を学んできたフェルドマン自身の経験が反映されているとも考えられるだろう。

グリフィス:では、音楽教育は何をすべきなのでしょう?

フェルドマン:音楽教育は専ら演奏家向けにすべきだと思います。作曲が教えられるべきものだとは思いません。今のアメリカで4人の最も影響力のある作曲家たち――私自身、アール・ブラウン、ケージ、実は古典学者だという理由でクリスチャン・ウォルフ――が音楽学科と一切関係せず、音楽学科での訓練も受けてこなかったことは興味深いです。私の態度はこう言えるでしょう。できる限り人間らしく全てをやり続けなさい。バランス感覚、作品に対して好ましい雰囲気、平穏さを作り出し、それらが必要な時に助けてくれる素晴らしい人々との関係を作ること。こうした事柄がもたらした一時的な関わり合いに対して彼らを密かに落胆させ、そしてそこから彼らを解放しなさい。なんらかのユートピアを作るのではなくて。

Griffiths: So what should music education be doing?

Feldman: I think it should just be for performers; I don’t think composition should be taught. It’s interesting that the four most influential composers in America today—myself, Earle and Cage, and Christian Wolff really because he’s a classicist—had no connections and no training in music departments. So my attitude is: keep everything as human as possible, create a sense of proportion, good atmosphere to work, quietude, fantastic people there to help when they need them, and let them quietly get discouraged and get out of this tentative commitment they made; rather than creating some kind of Utopia.[25]

 音楽教育は作曲家ではなく演奏家に向けて行うべきというのがフェルドマンのこの時点での持論だったようだ。おそらくここでフェルドマンが問題にしているのは、音楽に関する技術や考え方というより、作曲家と演奏家との間に構築される関係性のことだろう。ある一定のコミュニティや場がひとたび構築されると、そこからなかなか踏み出せない。フェルドマンはそのような「ユートピア」に安住してはいけないと言っている。だが、このような発言を生んだフェルドマンの状況はバッファロー大学着任後に一変したように思われる。フェルドマンは、同時代の様々な上演芸術に特化した音楽学部の組織 The Center of the Creative and Performing Arts(以下、CA)での活動に精力的に取り組んでいた。当時、このセンターにはジュリアス・イーストマン[26]、ジャン・ウィリアムス[27]、デヴィッド・デル・トレディチ[28]らを中心とする気鋭の演奏家や作曲家たちが在籍していた。フェルドマンは彼らとアメリカ国内外へツアーを行い、バッファローを当時のアメリカにおける現代音楽の拠点のひとつにしようと力を注いだ。演奏会ではフェルドマンの作品だけでなく、他の教員や学生、ゲストとして招いた様々な音楽家の作品が演奏された。フェルドマンがバッファロー大学での音楽活動に大きく貢献したことは確かで、1975年6月には音楽祭 June in Buffaloを始める。この音楽祭はCAの後続組織 The Center for 21st Century Music主催でレクチャー、ワークショップ、演奏会を含む行事としてバッファロー大学で現在も毎年行われている。[29] 第1回のJune in Buffaloではフェルドマンのかつてのニューヨーク・スクール仲間である、ケージ、ブラウン、ウォルフの作品がとりあげられた。

 着任前は「作曲は大学で教えられべきではない」と言っていたフェルドマンだが、もちろん実際は後進の指導に取り組んだ。バッファロー大学でのフェルドマンの著名な教え子としてバニータ・マーカス[30]とバーバラ・モンク・フェルドマン[31]の名前があげられる。1980年代に入るとフェルドマンはカナダ、オランダ、南アフリカ、ドイツ、日本など音楽祭やワークショップの講師を務めるようになり、行く先々で当時の若手音楽家や学生たちと対話を重ねた。例えばフェルドマンの講義録『Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche』[32]には、難解な比喩や音楽以外のエピソードを用い、時に受講生を困惑させながら自身の音楽観を説くフェルドマンのいくつかの講義が収められている。

 次のセクションでは1970年代のフェルドマンの音楽の変化について解説する。


[1] Universal Editionのフェルドマンのページ https://www.universaledition.com/morton-feldman-220
[2] 初出は1973年4月21日発行Buffalo Evening News。本稿はフェルドマンのエッセイ集Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000に収録されているものを参照した。
[3] ここでフェルドマンが言っている「ヴィレッジ」はマンハッタン南西部のグリニッジ・ヴィレッジのこと。この界隈にはアーティストが集うクラブやバーが軒を連ねていた。
[4] Morton Feldman, “I Met Heine on the Rue Fürstemberg,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 116
[5] Wilfrid Mellers (1914-2008)イギリスの音楽学者、批評家、作曲家。http://www.mvdaily.com/mellers/
[6] Ibid., p. 117
[7] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 43
[8] Feldman 2000, op. cit., p. 120
[9] ガストン財団 The Guston Foundationの作品カタログの時代区分に基づく。 https://www.gustoncrllc.org/home/catalogue_raisonne
[10] Feldman 2006, op. cit., p. 268
[11] ガストン財団のカタログでこの時期の作品を見ることができる。
https://www.gustoncrllc.org/home/search_result?search%5Btag%5D=Figurative 1968〜1972年代にかけてのガストンの作品に登場するKKKのキャラクターをめぐっては今日も主にレイシズムの観点から議論されている。ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーなど4つの美術館を2021年1月から巡回予定だったガストンの大規模な回顧展はBLMなどの社会機運を考慮し、展示内容を再考したうえで2024年に延期されることとなった。
National Art Gallery of Artの声明文https://www.nga.gov/press/exh/5235.html
[12] Krazy Kat 1913年から1944年まで新聞に連載されたコミック・ストリップ。
[13] John Perreault, “Art”, Village Voice, November 5, 1970
[14] Morton Feldman, Morton Feldman Essays, edited by Walter Zimmermann, Kerpen: Beginner Press, 1985
[15] Rothko Chapel http://www.rothkochapel.org/
[16] Feldman 2006, op. cit., p. 268
[17] フェルドマンの「Rothko Chapel」の概要は拙論参照。 https://geidai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=435&item_no=1&page_id=13&block_id=17
[18] https://nyss.org/
[19] Ibid., p. 265
[20] Ibid., p. 270
[21] バッファローの音楽コミュニティ形成に貢献した、弁護士でアマチュア音楽家のFrederick Sleeと、その妻Alice Sleeからの寄付によって創設された教授ポスト。バッファロー大学には彼らの名前を付したSlee Hallもある。http://www.buffalo.edu/administrative-services/managing-facilities/planning-designing-and-construction/building-profiles/profile-host-page.host.html/content/shared/university/page-content/facilities/slee.detail.html
[22] Renée Levine Packer, This Life of Sounds: Evening for New Music in Buffalo, New York: Oxford University Press, 2010, p. 118
[23] Dartington Summer School https://www.dartington.org/about/our-history/summer-school/
[24] Feldman 2006, op. cit., pp. 48-49
[25] Ibid., p. 49
[26] Julius Eastman https://www.wisemusicclassical.com/composer/5055/Julius-Eastman/
[27] Jan Williams https://peoplepill.com/people/jan-williams
[28] David Del Tredici https://www.daviddeltredici.com/
[29] June in Buffalo https://arts-sciences.buffalo.edu/music21c.html
[30] Bunita Marcus http://www.bunitamarcus.com/index.html
[31] Barbara Monk Feldman http://www.composers21.com/compdocs/monkfelb.htm 1987年6月にフェルドマンと結婚した。
[32] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ&Ⅱ, Köln: MusikTexte, 2008

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は2月25日更新予定です)

吉池拓男の名盤・珍盤百選(31) 魔煮悪ピアノコロシアム バトルChopin op. 34-1

Rudolph Ganz(p) Guild Historical GHCD2377
Wilhelm Backhaus(p) Archipel ARPCD0333 など
Arturo Benedetti Michelangeli(p) Profil PH18063 など
Sergio Fiorentino(p) KLASSICSOTAKU CD-8022
Ignacy Jan Paderewski(p) APR APR6006
Arthur Rubinstein(p) IRON NEEDLE IN 1313 など

アナウンサー:お待たせいたしましたっ! 時空を超えた音楽バトル、魔煮悪ピアノコロシアム2021、いよいよ開幕です。本日の解説は魔煮悪音楽大学非常識講師の吉池拓男さんです。吉池さん、どうぞよろしく。

解説:よし、行け、ヲタクの吉池です。どうぞよろしく。

アナ:本日のコースはFC34-1(※1)。吉池さん、見所は?

解説:コース製作者Frédéric Chopin氏の作品の中では難易度は低めです。しかし、途中6回ある「プラルトリラーから急速音階駆け上がり(譜例1)」をどう魅せるかが勝敗の決め手になりますね。ここで規定通りのポイントまでの駆け上がり、ま、これをシングルと言いますが、シングルだけでは予選通過すら難しい。さらに1オクターブ上まで駆け上がるダブル(譜例2)を決めないとメダルは狙えませんね。

譜例1:シングル
譜例2:ダブル

アナ:ダブルは確かに華麗ですが、規定を外れた反則なのではないですか?

解説:いやいや、Chopin氏の手書きの規定書には4番目の音階駆け上がり、いわゆる第4駆にダブルが書いてあるものがありますし、Petersから出版されているNew Critical Editionには第3駆と第4駆のossiaにダブルを載せています。19世紀にはこういうvariantがあったようです。ただ、コース途中の第3・4駆でダブルをかましてもお客さまは喜びません。やはり終盤間際の第5駆、第6駆の勝負ですね。

Rudolph Ganz(p)

アナ:わかりました。さあ、いよいよ最初の選手の登場です。最初の選手はスイス代表のGanz1920選手。あまり名の知られた選手ではありませんが、コース製作も得意と聞いています。さあ、スタートしましたっ!

解説:なかなかに速めでそれでいて優雅な滑り出しですね。

アナ:第1駆から第4駆は規定通りに綺麗にこなしています。さぁ、いよいよ第5・6駆、どうだっ? おおっ、ダブルですね、吉池さん。

解説:う~~ん、確かにダブルですが、スピードが足りなくてワルツのリズムがかなり崩れましたねぇ。それと第5駆の左手の3拍目、ミスってますねぇ。ダブルに挑んだ右手に気を取られたようですね。

Wilhelm Backhaus(p)

アナ:これでは高評価は難しいでしょう。さて、お次はドイツ代表、Backhaus1950選手です。Backhaus選手と言えば、LvBコースの名手として圧倒的な存在ですが、FCコースでの出場とは意外ですね。

解説:いやいやBackhaus選手は若いころからFCコースは積極的に取り組んでいますよ。なにせFC11・2(※2)のソロアレンジも自ら施しているくらいです。

アナ:さぁ、スタートです。おお、完璧なまでの規定通りで第1~4駆をこなしていますね。

解説:規定が目に浮かぶようです。これはこれでBackhaus選手らしい律儀さですね。

アナ:いよいよ第5・6駆だ、どう来るか! おおっ、ダブルだ、しかも低音にパンチ一発!

解説:しかもプラルトリラーではなく明らかにトリルからのダブルです。音多いですねぇ。ちょっとスローダウンしましたが、スローのさせ方が実に芸術的。直後に規定にない低音の増強一発を入れたのも流石です。

アナ:プラルトリラーをトリルにしてもいいんでしょうか?

解説:コース製作者はそのあたりの表記は曖昧だったようです。選手のノリに任せていいんじゃないですか。

Sergio Fiorentino(p)

アナ:さすがBackhaus選手、LvB以外でも魅せますねぇ。しかもかなり自由。これは高評価でしょう。さぁ、続いてスタイリッシュに登場してきたのはイタリア代表Michelangeli1962選手です。イタリアからはもう一人Fiorentino1979選手が出場する予定だったのですが、本人未承認の海賊登録だったそうで、出場が取り消しになっています。

解説:残念ですねぇ。Fiorentino1979選手はダブルの鮮やかさもさることながら、ラストの296小節からを重音で弾くなど小洒落ていたのですが、正規登録を待つしかないでしょう。

アナ:てなことをお話ししているうちに、Michelangeli1962選手のスタートです。美しい音、素晴らしいバランス、うっとりしますねぇ。おや、第1駆から他の選手と違いますね。

Arturo Benedetti Michelangeli(p

解説:プラルトリラーではなくトリルからシングルを優雅に決めてます。これは第5・6駆に期待が持てます。

アナ:さぁ、第5駆だっ……ダブルです、ダブルです!実に優雅なダブルです!

解説:ワルツのテンポも崩れていませんね。素晴らしい。

アナ:……っと、ここで審判団から物言いです。物言いがつきました。……フライング???どうやらフライングだということのようです。もう一度聴いてみましょう。

解説:あぁ、確かに。第5・6駆ではプラルトリラーもトリルもなく、小節の頭からいきなり音階を駆け出しますね。これならダブルでも綺麗に収まります。うーーーん、芸術点は高いのですが、確かにフライングです。

アナ:Michelangeli1962選手、どこ吹く風で飄々と構えていますが、あとは審判団にお任せしましょう。

~ Sake & Water Break ~

Ignacy Jan Paderewski(p)

アナ:さぁいよいよ競技も大詰めです。エントリー残すはあと2人。FCの本場、ポーランドからPaderewski1912選手です。いよっ、大統領!そう言いたい気分になりますね。

解説:大統領ではなく首相です。マダム殺しのエンジェルヘアが眩しいですね。

アナ:颯爽と今スタートしました。Paderewski1912選手と言えば、FCの規定に精通していて、Paderewski版というコースの規定指南書を出していますね。

解説:あの指南書は後世の人が作ったという話ですが、名前を冠されるくらいですから指南書通りの見事な技を期待したいところですね。

アナ:実に優雅な滑り出しです。まず第1駆。ここはシングルですね。

解説:シングルですが、プラルトリラーの音を2拍分延ばさずにすぐ音階に行ってますね。一連の装飾音型として弾いているようです。指南書にはこんなこと書いていませんね。

アナ:おっと、第3駆からこれはダブルか。

解説:第1・2駆と同じようにプラルトリラーから一連の動きで表現してますね

アナ:さて注目の第5・6駆……ここも一連型からのダブルです。おおっと、直後に強烈なクラスターチョ~ップ! 1発、2発、これはシビレますね。

解説:Paderewski1912選手は1911にも同じコースを攻めていて、やはりここでクラスターチョップを打っています。確信犯ですね。ただ、名前入りの指南書があるのにそれと違うことをするのは如何なものでしょうか。権力者はいつの時代もほんと言行不一致です。

Arthur Rubinstein(p)

アナ:ま、それも世の常というものでしょう。さて、いよいよ最後の選手、同じポーランド代表で優勝候補のRubinstein1928選手の登場です。

解説:この選手は1930年頃に自己批判して研鑽する前ですから暴れん坊丸出しです。期待できますよ。

アナ:さぁスタートです。快調に飛ばしてます。おおっっ、第1駆からダブルです、しかもテンポの間延びがありません。これは見事、第5・6駆への期待が否応なしに高まります。さぁ第5駆!

解説:ダブルですね、第6駆も。微塵の揺るぎもない。さすが優勝候補。

アナ:そしてコーダ。うおおおおっ!!速い、速すぎる。まさに電光石火、前人未到の爆走ですっ!

解説:これは大変な記録が出たかもしれませんね

アナ:満場、割れんばかりの拍手と歓声です。さすがRubinstein1928選手。熱狂の渦に包まれています。

解説:待ってください。他の選手が猛然と抗議していますよ。

アナ:そうですね、審判団に食って掛かっています。何があったのでしょうか? え、なに?なに?Rubinstein1928選手は第3駆と第4駆を弾いてない??それは反則だろうって??

解説:あぁ、言われてみれば第3・4駆のセクションをカットしてますね。いやぁ、あまりに見事で気づきませんでした。芸術点的には全くOKなんですが、これは審判団、難しい判断を迫られますねぇ。

アナ:猛烈な抗議、一向に止みそうにありません。会場、混沌として参りました。これは当分結果が出そうにありません。ひとまずここで現場からの中継を終わりにしようと思います。吉池さん、今日はどうもありがとうございました。

解説:いえいえ、こちらこそ楽しませていただきました。ありがとうございました。

アナ:それでは魔煮悪ピアノコロシアム2021、この辺で失礼いたします。

※1:ショパンのワルツop. 34 no. 1のことです
※2:ショパンのピアノ協奏曲第1番op. 11の第2楽章のことです

【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。

黛敏郎「君が代」と絶筆の「パッサカリア」

黛 敏郎

日本を代表する作曲家として現在も高い人気を誇る作曲家・黛敏郎。今回、ミューズプレスでは、日本の作曲家専門レーベル スリーシェルズの代表を務める音楽評論家の西耕一氏と黛家の協力のもと黛敏郎の編曲作品と絶筆となった未完のオーケストラ作品2点のフルスコアを出版します。

本日より2021年2月28日まで予約受付とします。発送は2021年3月1日より順次行います。なお、予約受付期間内にご予約をいただいたお客様には日本国内に限り送料無料でお送りさせていただきます。

黛敏郎 編曲「君が代」
黛敏郎の管弦楽編曲による《君が代》。これは伝統と現代の間で悩み、独自の音を探求してきた作曲家による一つの返答である。日本の伝統音楽を基にした《BUGAKU》や《昭和天平楽》とも共通する音響美がある。自国の文化、伝統が、未来に受け継がれ、続いてほしいと願うことに何の不条理があろうか。(西耕一)

黛敏郎 編曲:日本国歌「君が代」(オーケストラ編曲)
2000円(税込)
菊倍版|12頁
解説:西耕一
企画協力:スリーシェルズ、黛家


黛敏郎 作曲「パッサカリア」(未完・絶筆)
当時、指揮者・岩城宏之が率いるオーケストラ・アンサンブル金沢の委嘱により「パッサカリア」の作曲を始めた黛敏郎。コントラバスやハープによる空虚な5度和音を土台として不穏なピッコロソロに始まり、次第に様々な楽器も加わり、ベートーヴェンやモーツァルト、バッハなどの作品の断片が随所で駆け回ります。そこには混沌とした世界が広がります。この作品は、無念にも黛の死により完成されることはありませんでした。

《パッサカリア》は、黛敏郎の遺作であり未完。盟友・岩城宏之の率いるオーケストラ・アンサンブル金沢のための作曲であり、プリペアド・ピアノ協奏曲を構想していた。既に何度か死線を彷徨い、入院中に、テレビ番組や講演、会議等と並行しての作曲だった。しかし、その筆に迷いはない。(西耕一)

黛敏郎:パッサカリア(未完・絶筆)
2000円(税込)
菊倍版|12頁
解説:西耕一
企画協力:スリーシェルズ、黛家


これまでに弊社で刊行した黛敏郎の作品

黛 敏郎(まゆずみ としろう)
1929年(昭和4年)2月20日、横浜生まれ。東京音楽学校(東京藝術大学)で橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭等に師事。1948年(昭和23年)に作曲した「拾個の独奏楽器の為のディヴェルティメント」により才能を認められる。1950年(昭和25年)作曲の「スフェノグラム」は、翌年のISCM国際現代音楽祭に入選して海外でも知られるようになる。1951年(昭和26年)パリ・コンセルヴァトワールへ留学、トニー・オーバン等に学ぶ。フランスから帰国後、ミュージック・コンクレートや日本初の電子音楽を手がけた。1953年(昭和28年)芥川也寸志、團伊玖磨と「3人の会」を結成。また、吉田秀和等と「二十世紀音楽研究所」を設立。雅楽・声明をはじめ、日本の伝統音楽にも造詣を深める一方、交響曲、バレエ、オペラ、映画音楽等の大作を発表した。1964年(昭和39年)より、テレビ番組「題名のない音楽会」の企画、出演。東京藝術大学講師、茶道「裏千家淡交会」顧問、評議員。「日本作曲家協議会」会長、「日本著作権協会」会長などを歴任した。 「涅槃交響曲」(1958)で第7回尾高賞、「BUGAKU」で第15回尾高賞を受賞。 主な作品に「ルンバ・ラプソディ」(1948)、「饗宴」(1954)、「曼荼羅交響曲」(1960)、「シロフォン小協奏曲」(1965)、オペラ「金閣寺」(1976)、「KOJIKI」(1993)、バレエ「The KABUKI」(1986)「M」(1993)他がある。ピアノ曲は、「前奏曲」「金の枝の踊り」「天地創造」などがある。ISCM入選(昭和31、32、38年)。毎日映画コンクール音楽賞(昭和25、32、38、40年)。毎日演劇賞(昭和33年)。ブルーリボン賞(昭和40年)。仏教伝道文化賞(昭和50年)。紫綬褒章(昭和61年)。 1997年(平成9年)4月10日逝去。

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(10) 音楽の表面-3

(文:高橋智子)

3 自由な持続の記譜法の独自性と類似例

 これまでこの連載で数回にわたって解説してきたとおり、自由な持続の記譜法は1960年代のフェルドマンの楽曲の大半を占めている。持続または音価を具体的に定めずに演奏者に最終的な決定をある程度委ねることで、フェルドマンは拍子やリズムに従属しない可変的な時間を描こうと試みた。このような記譜法が生まれた背景には、連続性ではなくて積み重なる時間をイメージした「垂直」の概念が大きく関係している。フェルドマンが音楽的な時間にまつわる思索を深めていくにつれて「垂直」の概念はやがて「表面」の概念へと変化した。1960年代中頃から自由な持続の記譜法に小節線や拍子記号が加わり始め、音符が記されている部分と音符が記されていない沈黙の部分との違いが明らかになってきた。この変化の様子は第9回でとりあげた「De Kooning」やセクション2で解説した「Between Categories」のスコアを見ればはっきりとわかる。フェルドマンは1986年に行われた講演の中で1960年代後半の自由な持続の記譜法を次のように振り返っている。

1960年代の後半の私の曲のいくつかは、沈黙の曖昧さゆえに、音の持続に関して多かれ少なかれ偶数拍子のゆっくりとしたテンポで音が鳴る状況を作り、さらに続けるならば、5/4拍子で、例えば四分音符1つあたり76かそのくらいのテンポの沈黙の小節を書いたものだった。私は沈黙が記された小節を測り始めたが、音の素材を依然として測らずにそのままにしておいた。なぜならそれ(訳注:音の素材)は耳に入ってくる音の状況の中にあったからだ。この曲を演奏しようとする人はこの曲をちゃんとわかっていると思っていた。

There are some pieces of mine in the late sixties because of the ambiguity of the silence, I would have the sound situation in terms of its durations more or less in a slow tempo on even beats, if you will, and then I would have the silent measures like five-four and the crotchet equals, say, seventy-six or something. I started to measure the silence and had the sound material still unmeasured. Because it was in an acoustical situation. So I felt the person that’s going to play has a sense of the piece.[1]

 自由な持続の記譜法における小節線、拍子、メトロノーム記号を伴う沈黙、つまり全休符の小節では時間が測られているが、音の鳴る箇所では時間が測られていない。実際は「Between Categories」では音符が記されている箇所にも拍子やメトロノーム記号が散見されるが、フェルドマンの全休符小節の扱い方は曲中に計測された沈黙を配置する目的だったことがわかり、「Between Categories」1ページ目アンサンブル2に測られた沈黙の実例が見られる。このように考えると、エッセイ「Between Categories」での「時間をただそのままにしておくべきなのだ。Time simple must be left alone.」[2]は、音が鳴り響いている時間に言及しているのだと解釈できる。このエッセイでフェルドマンは音や時間の構造と対立する概念として「表面」を掲げ、「表面」を構成されていない錯覚や幻影のようなものと位置付けた。この考え方も「時間をそのままにしておくこと」とつながるのだが、構成や構造を放棄すれば「構成する、組み立てるcompose」から派生した「作曲 composition」の根幹が揺らいでしまうのではないだろうか。もちろんフェルドマンもそれを自覚しており、エッセイ「Between Categories」の終盤での彼の議論は「作曲すること」と「音や時間をそのままにしておくこと」とのジレンマに苛まれる。この議論と逡巡の結果として、当座の答えとして引き出されたのが「時間と空間の間。絵画と音楽の間。音楽の構造と音楽の表面の間 Between Time and Space. Between painting and music. Between the music’s construction, and its surface.」[3]だった。彼は音楽家で作曲家だが、自分の創作を音楽という1つのカテゴリーに限定するのではなく、音楽と音楽以外の別のカテゴリーとの間(あいだ)に位置付けようとしている。ここでのフェルドマンは絵画に問題解決の手がかりを見出そうとしているというより、もはや絵画への思慕を表しているのではないだろうか。彼の絵画への憧憬や思慕は既に1967年のエッセイ「Some Elementary Questions」でも記されていた。

例えば、モンドリアンの特定のドローイングに比肩するものは音楽には何もない。モンドリアンのドローイングの場合、代替案が上書きされているが、消されてしまった輪郭やリズムはまだ見える。音楽の悲劇は完璧さから始まることだ。

There is nothing in music, for example, to compare with certain drawings of Mondrian, where we still see the contours and rhythms that have been erased, while another alternative has been drawn on top of them. Music’s tragedy is that it begins with perfection.[4]

 絵画と違って音楽は完璧さで始まる。それは音楽の悲劇である。これは何を意味しているのだろうか。ここでフェルドマンが音楽の悲劇と称している「完璧さ」は作曲家が楽譜に書いた音符と、そこから生じる鳴り響きを指す。モンドリアンのドローイングには彼が試行錯誤した痕跡が消えることなく残っており、その過程を私たちがキャンヴァスの中に見て取ることができる。一方、作曲家が書き記した音符には作曲家の試行錯誤の過程をたどることはできない。これがここでの「完璧さ」にまつわる絵画と音楽との大きな違いだ。フェルドマンはさらにルノワール、自分、ベリオを引き合いに出して、絵画と音楽における「ためらい」の要素の違いを述べる。

かつてルノワールは、同じ色が2つの違う手で塗りつけられれば、2つの異なる色調が得られるだろうと言った。音楽の場合、同じ音符が2人の違う作曲家に書かれていようと、それがもたらすのは――やはり音符だ。私がB♭を書くとする。ベリオもB♭を書く。そこで得られるのは常にB♭だ。画家は制作する時に自分の媒体を創り出さないといけない。それが彼の作品にもたらすのはためらい、つまり絵画にとって致命的ともいえる不安感だ。作曲家は既に存在している媒体で創作する。絵画におけるためらいは不朽の名声に寄与する。音楽におけるためらいは負けを意味する。

Renoir once said the same color, applied by two different hands, would give us two different tones. In music, the same note, written by two different composers, gives us—the same note. When I write a B flat, and Berio writes a B flat, what you get is always B flat. The painter must create his medium as he works. That’s what gives his work that hesitancy, that insecurity so crucial to painting. The composer works in a preexistent medium. In painting if you hesitate, you become immortal. In music if you hesitate, you are lost.[5]

 画家は自分の創作に際して色彩や色調を自分自身で試行錯誤して作り出す。しかし、楽曲の概念を持ち、既存の楽器で演奏される類の音楽を作る作曲家は既存の媒体としての音を使わざるを得ない。フェルドマンであろうとベリオであろうとB♭はB♭である。複数の音の組み合わせなどによって作曲家は自分の音楽を作り出す。ここにフェルドマンは絵画と音楽との大きな違いを見出している。少なくとも楽譜に書かれた音符からは、作曲家の試行錯誤やためらいを読み取ることはできない。たとえそれが演奏に際して不確定な音楽であろうとも、そのスコアができるまでの創作の過程をドローイングに何重にも描きつけられた線のように読み取ることはできない。完成された楽曲は、常にスコアとして完成された完璧な体裁で私たちの前に提示される。

 自由な持続の記譜法における破線、垂直線、矢印付き垂直線は通常の五線譜とは大きく異なる外見だ。見ようによっては、これらの線は楽譜の書きかけやスケッチにも思える。これまで本稿で述べてきたように、自由な持続の記譜法におけるそれぞれの線は実用的な機能を持っている。だが、もしかしたらフェルドマンはこのような線を自身のスコアの中に残しておくことで音楽の悲劇である「完璧さ」に抵抗しようとしたのではないだろうか。絵画のためらいの痕跡である何重もの上塗りをフェルドマンは音楽の中で試みようとした。その結果が、あの一見奇怪な線でつなげられた自由な持続の記譜法なのだと考えられる。

 1960年代のフェルドマンの音楽は小節線の全くない、あるいは部分的に小節線の引かれた自由な持続の記譜法なしには語れない。だが、19世紀末から20世紀中頃までの西洋芸術音楽の歩みの中で、ルネサンス以前の多声音楽を想起させる小節線のない五線譜による記譜を再び使い始めた先駆者がフェルドマンだったというわけではない。時代をさかのぼると既にエリック・サティが似たような記譜法を実践している。サティは初期のピアノ曲の1つである「Quatre Ogives」(1889, 1965)で既に小節線のない五線譜を用いていた。よく知られているサティのピアノ曲「Trois Gnossiennes nos. 1-3」 (1889-1890)も小節線のない五線譜で書かれている。だが、サティによる小節線のない楽譜の意図はもちろんフェルドマンと異なる。例えば「Quatre Ogives」は、拍子の感覚と概念がまだ希薄だったグレゴリオ聖歌の単線旋律を思わせる旋律ゆえに小節線も拍子もない。ここでは小節線と拍子を欠くものの、この曲では旋律のまとまりを示唆するスラーが記されている。一方、フェルドマンの小節線のない楽譜にはサティのような歴史意識はほとんど見られず、彼の関心は専ら音の減衰や音楽的な時間に当てられている。そしてその背後には彼が敬愛してきた画家たちと絵画の存在がある。

Satie/ Quatre Ogives no. 1(1889, 1965)
Satie/ Trois Gnossiennes no. 1 (1889-90)

 「Between Categories」は2つの同じ編成のアンサンブルが別々のことをしながら同時に走り出す曲だ。1つの曲の中に複数の異なる時間や出来事が起こる楽曲のアイディアもフェルドマンが起源ではない。チャールズ・アイヴズは管弦楽曲「Central Park in the Dark」(1906)の中で既にこの状態を記譜によって具現していた。

Ives/ Central Park in the Dark (1906)

 セントラル・パーク内での夕方の風景を描写したこの曲の編成は木管楽器(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット)、金管楽器(トランペット、トロンボーン)、弦楽5部、ピアノ(1人あるいは2人)、打楽器。管楽器+打楽器+ピアノで1つのアンサンブルを、弦楽器がもう1つのアンサンブルを作っている。公園での夜の微かな音と暗闇の静寂を描写した弦楽器によるアンサンブルは「きわめてゆるやかに Molt Adagio」のテンポ指示のもとでコラール風のフレーズを終始繰り返す。この静寂は喧騒を描く管楽器、打楽器、ピアノによってしばしば妨げられる。管楽器、打楽器、ピアノは公園の池の向こうのカジノの騒音、ストリート・バンド、新聞売りの少年の声、あちらこちらのアパートメントで繰り広げられるピアノラ(自動演奏ピアノ)によるラグタイム合戦など[6]、弦楽器による夜の静寂とは対照的な音の世界を次々と繰り広げる。いくらこのアンサンブルが騒々しくとも、弦楽器は若干のテンポの変化を伴いつつも決して取り乱すことなく淡々とコラール風のフレーズに徹する。この曲にはある種の並行世界が描かれているとも言える。もちろん、サティの小節線のない記譜法の場合と同じく、フェルドマンがアイヴズのこの種の楽曲を念頭に置いていたとは到底考えられないが、フェルドマンの「Between Categories」における記譜や音楽的時間に関する様々な試みについて少し視野を広げて考えると、類似する例をいくつか見つけることができる。フェルドマンに関していえば、それぞれのパートの音がメトロノームでは測り得ないテンポと時間の感覚で混ざり合う自由な持続の記譜法は、絵画の作法を参照しているがアイヴズのような具体的な風景や心象風景の要素は一切ない。

 フェルドマンの1960年代後半の自由な持続の記譜法の楽曲に見られる複数の時間と出来事が同時に作り出す混沌とした状態に近い作品のひとつとして、ジョン・ケージが1961年に行ったレクチャー「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか。 Where Are We Going? and What are We Doing?」[7]をあげることができる。この講演のテキストは「全部一緒に、あるいはその一部を水平及び垂直に用いる」。[8]また、この講演は4つの講演が同時に聞こえるように構成されていて、講演者は1人で4つ全ての講演を行わなくてはならず、ライブで、つまりその場で後援者が4つの講演を読み上げてもよいし、予め録音した素材を用いてもよい。[9]講演の際に音量を変化せることもでき、もしそうするのならばケージの作品「WBAI」(1960)[10]のスコアを用いてほしい[11]と、ケージ自身が講演の前書きで記している。講演を収録したケージの著作集『Silence』の中で、この講演は英語による原書と日本語翻訳版(日本語版のレイアウトは文字が縦書き)ともに4つの異なるフォントで書き分けられている。英語で読んでも日本語で読んでもこの講演を1行ずつ追っていくと目が泳いでしまう。この混乱はフェルドマンの「For Franz Kline」(1962)をスコアを見ながら聴いている時の、スコアと演奏とのずれの只中に放り込まれた経験に近い。複数の異なる出来事が同時に走る点では「Between Categories」の2つのアンサンブルの関係にも似ているだろう。後者の場合は互いに素材を共有していることが徐々に明らかになってくる。一方、ケージのこの講演の中で4つの出来事は交わることなく進む。

 ケージはこの講演の狙いについて前書きで「われわれの経験というものは、一度に全部与えられると、理解を超えるものになってしまうことを、私は言おうとしていたからである。」[12]と述べている。講演原稿を記した文章と五線譜に書かれた楽曲はそれぞれ違う媒体から成り立ち、違うカテゴリーに属している。さらには、当然ながらフェルドマンはケージのこの講演について自身のエッセイその他において言及していない。しかし、両者を並べてみると、フェルドマンの「Between Categories」の記譜法と音楽的な時間にまつわる考え方はケージの講演「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか。」と全く無関係でもなさそうだ。

 1960年代のフェルドマンの創作は音楽的な時間に対する関心と問題意識から生じた自由な持続の記譜法によって実践された。1970年代に入ると、フェルドマンは五線譜による慣習的な「普通の」記譜法に戻る。この変化は一体何に発端するのだろうか。次回は1970年代前半の楽曲について考察する予定である。


[1] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 292
[2] Morton Feldman, “Between Categories” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 85
[3] Ibid., p. 88
[4] Morton Feldman, “Some Elementary Questions,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 65
[5] Ibid., p. 65
[6] Charles Ives, “Note”, Central Park in the Dark, New York: Boelke-Bomart, Inc., 1973
[7] ジョン・ケージ「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか。」、『サイレンス』 柿沼敏江訳、東京:水声社、1996年、311-406頁(John Cage, “Where Are We Going? and What are We Doing?”, Silence, Middletown: Wesleyan University Press, 1961, pp. 194-259)
[8] 同前、311頁
[9] 同前、311頁
[10] John Cage/ WBAI https://johncage.org/pp/John-Cage-Work-Detail.cfm?work_ID=243
[11] 前掲書、311頁
[12] 同前、311頁

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は2月18日更新予定です)

ピアニート公爵編曲「蒼い鳥」(from THE IDOLM@STER)

日本の動画サイト「ニコニコ動画」に匿名で投稿した演奏動画をきっかけにデビューを果たしたピアニスト「ピアニート公爵」。視聴者の度肝を抜く卓越した演奏技術と不明な経歴との隔たりから、視聴者から「高等遊民」と呼ばれ、投稿動画に「俺(ニート)」と書いたことから、「ピアニート公爵」という愛称で呼ばれるようになりました。後に、「ピアニート公爵」はピアニストの森下唯の生き別れの兄弟だったという事実(?)も明るみになります(真相はコチラをご覧ください)。動画投稿をきっかけにCDデビュー、現在では数々のコンサートやスタジオ録音に呼ばれる人気ピアニストとなります。

そんなピアニート公爵がニコニコ動画に初めて投稿した演奏が「蒼い鳥」(THE IDOLM@STER)のピアノ編曲です。本作は、人気ゲーム/アニメのアイドルマスターに登場する楽曲で、作曲:椎名豪氏(アニメ「鬼滅の刃」音楽 etc.)、M@STER VERSION編曲:塩入俊哉氏(稲垣潤一ツアー/音楽監督 etc.)という超豪華メンバーによるもの。ピアニート公爵は、よりクラシカルな雰囲気を持ったM@STER VERSIONを、ピアノ1台で表現するという試みをしています。

2021年1月現在、再生回数は1,128,819回に上り、クラシック音楽のファンに留まらず様々な音楽ファンの間で伝説として語り継がれる名編曲を、2020年2月1日、弊社より刊行いたします。


初回限定特典といたしまして、こちらの楽譜をご予約をいただいたお客様には、ピアニート公爵のサイン付きの楽譜をお送りいたします。限定30部です。お見逃しなく。本楽譜の表紙は、新進の漫画家・うたたね游(Twitter:@remon__pie )さんによるイラストです。

サイン付き楽譜(限定50部!)*当初は30部でしたが今回限り20部追加いたしました。
 https://muse-press.com/item/mp00404le/ ‎

サイン無し楽譜(2月1日より順次発送予定です)
 https://muse-press.com/item/mp00404/ ‎

序文:ピアニート公爵
価格:2000円(税抜)
ISBN:978-4-909668-69-1


ピアニート公爵(森下唯)
日本のピアニスト・作編曲家。ソロでのリサイタルのほか、オーケストラとの共演、リート伴奏、室内楽などの分野で活動し、スタジオ・ミュージシャンとしても多くのレコーディングに参加。演奏以外にも、映像作品への楽曲提供や文筆など幅広く手がけている。

「ピアニート公爵」としては、2007年のニコニコ動画への投稿で一躍注目の的となった(「ピアニート公爵」は動画投稿時にニートを自称していたことから視聴者に名付けられたもの)。2011年、ドワンゴ・ミュージック・エンタテインメントよりアルバム『シンギュラリティ~特異点~』をリリース。その後、日本、台湾、シンガポール等で演奏活動を行っている。近年では『GRANBLUE FANTASY PIANO COLLECTIONS』、『Piano Collections FINAL FANTASY XV』等で演奏を担当。2018年、『コードギアス 反逆のルルーシュ ピアノソロコレクション』では演奏とともに編曲も手がけ、楽譜集も出版された。

本名の森下唯名義では作曲家アルカンの紹介に力を入れており、アルカン生誕200年となる2013年から継続的にオール・アルカン・リサイタルを行う。2015年よりアルカン作品を集めたCD「アルカン ピアノ・コレクション」(ALM RECORDS)シリーズをリリース、『レコード芸術』誌をはじめ各所で高く評価されている。東京藝術大学卒業、同大学大学院修了。2004年、第2回東京音楽コンクール第2位。調布国際音楽祭アソシエイト・プロデューサー。2015年より東京藝術大学非常勤講師(指揮科演奏研究員)。