あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(14) 不揃いなシンメトリー -2

2. 絨毯からの影響 1970年代後半から1980年にかけての楽曲の変化

 絨毯の結び目の種類、織り方、染色、パターンによる構成についての知識が深まるにつれて、フェルドマンは絨毯の技術や製法に引きつけて自分の創作を思索し始める。先のセクションに引き続き、「不揃いなシンメトリー Crippled Symmetry」の概念の解釈の可能性を探りながら、絨毯が彼の楽曲に与えた影響を考える。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(14) 不揃いなシンメトリー -1

文:高橋智子

 1976年のベケット三部作、1977年の唯一のオペラ「Neither」を経たフェルドマンの音楽はその後どのように変化したのだろうか。今回は「Neither」以降の彼の音楽を知るうえで欠かせない事柄の1つ、中東地域の絨毯からの影響と、フェルドマンの後期作品を物語る概念「不揃いなシンメトリー」を考察する。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(13) ベケット三部作とオペラ「Neither」-2

文:高橋智子

2. オペラ「Neither」

 1976年7月に「ベケット三部作」による一通りの試作を終えたフェルドマンは1976年9月18日に行われた「Orchestra」初演のためグラスゴーに滞在していた。[1]グラスゴーでの初演の後フェルドマンはベルリンに赴き、9月20日の昼頃シラー劇場で「あしあと Footfalls」と「あのとき That Time」のリハーサルをしていたベケットと初めて会う。[2]劇場の中は照明が暗転して真っ暗だった。暗闇の中でベケットはフェルドマンの親指に握手した。[3]これが彼らの初対面の瞬間だ。フェルドマンはベケットを劇場近くのレストランにランチに誘い、ここで彼は自身のオペラについて話した。[4]「自分の考えだけでなく彼(訳注:ベケット)の考えにひれ伏したかった I wanted slavishly to adhere to his feelings as well as mine.」[5]と語り、ベケットを信奉していたフェルドマンはベルリンで交わした会話を次のように回想している。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(13) ベケット三部作とオペラ「Neither」-1

文:高橋智子

 前回は1975年の楽曲「Piano and Orchestra」を中心に、フェルドマンのオーケストレーションと協奏曲について考察した。今回は彼の1970年代の楽曲のハイライトともいえるオペラ「Neither」と、このオペラのための習作として位置付けられているベケット三部作をとりあげる。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(12) フェルドマンとオーケストラ-2

文:高橋智子

2 反協奏曲 Piano and Orchestra

 その曲を構成する音または音符に楽器の選択、音域、ダイナミクス、タイミングといったあらゆる要素の必然性を求めたフェルドマンの態度は、1970年代に集中的に書かれたオーケストラ曲にどのように反映されているのだろうか。このセクションでは独奏楽器とオーケストラによる協奏曲編成の楽曲を中心に、フェルドマンのオーケストラ曲とオーケストレーションの特徴を考察する。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(12) フェルドマンとオーケストラ-1

文:高橋智子

1 1970年代の楽曲の編成とオーケストレーション

 前回は、バッファロー大学の教授就任をきっかけにバッファローへ転居したフェルドマンの環境が変わり、それに伴ういくつかの要因から曲の長さが次第に長くなっていったことと、楽曲の編成も大きくなってきた様子を概観した。1950年代、60年代のフェルドマンの楽曲は長くとも12分前後の室内楽や独奏曲が主流だったが、1970年代は管弦楽(オーケストラ)曲が増える。オーケストラやオーケストレーションに対するフェルドマンの考えを参照しながら、1970年代の管弦楽曲のなかでも独奏楽器と組み合わさった協奏曲編成の楽曲に焦点を当てて考察する。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-3

文:高橋智子

3 フェルドマンの新たな境地 The Viola in My Life 1-4

 1970年から1971年にかけて作曲された4曲からなる「The Viola in My Life」は1970年代の楽曲の中だけでなく、フェルドマンの楽曲全体を見渡してみても特殊な位置にある作品だ。この当時のフェルドマンの楽曲には珍しく、「The Viola in My Life」では明確に認識できる旋律が登場する。フェルドマンはこれまでに1947年に作曲した独唱曲「Only」や、1950年代、60年代に手がけたいくつかの映画や映像の音楽でも旋律のある曲を書いてきたが、旋律ともパターンともいえない概して抽象的な作風が彼の本分とみなされてきた。だが、1970年に入るとフェルドマンは五線譜の記譜に戻り、「The Viola in My Life」1-4を書いて叙情的な旋律を惜しげもなく披露する。前のセクションで解説した1970年代の楽曲のおおよその傾向を思い出しながら「The Viola in My Life」1-4がフェルドマンの作品変遷の中でどのような位置にあるのかを見ていこう。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-2

文:高橋智子

2 1970年代の楽曲の主な特徴

 同じニューヨーク州内とはいえ、人口密度の高い大都市ニューヨーク市から、ナイアガラの滝に接するバッファロー市への引越しはフェルドマンの人生に劇的な変化をもたらしたと想像できる。この環境の変化は彼の音楽にも大きく影響し、とりわけ曲の長さや編成に反映されている。1972年にバッファローに拠点を移したフェルドマンの音楽の新たな境地はどのように受け止められたのだろうか。ニューヨーク時代のフェルドマンのかつての教え子で作曲家のトム・ジョンソンは、1973年2月14日にカーネギー・ホールで行われたバッファロー大学のThe Center of the Creative and Performing Artsの演奏会評を『Village Voice』に寄稿している。この演奏会ではフェルドマンの「Voices and Instruments 2」が演奏された。

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あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(11) 1970年代前半の出来事と楽曲-1

文:高橋智子

1 1970年代前半の出来事と楽曲

 これまでのフェルドマンの創作の歩みをごく簡単に振り返ってみよう。1950年代のフェルドマンは、ジョン・ケージを介して出会った抽象表現主義の画家や詩人たちとの交流の中から創作の着想を得て試行錯誤を重ねた。1960年代に入っても彼の創作はニューヨークを中心とする画家や詩人との交友関係が重要な役割を果たしていた。「For Franz Kline」(1962)や「De Kooning」(1963)は彼の友人でもある画家たちに捧げられた楽曲だ。1964年にはレナード・バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルによって自身の楽曲が演奏され(第8回でとりあげたように、この演奏会の評判は芳しくなかったが)、「ニューヨークの気鋭作曲家」としての地位が徐々に確立されてきた。楽譜出版に関しては、1962年にフェルドマンはペータース Edition Petersと契約し、1950年代、1960年代のほとんどの楽曲はここから出版されている。1969年にフェルドマンはウニヴェルザール(またはユニヴァーサル)Universal Edition(以下、UE)と契約した。彼の最後の図形楽譜となった「In search of an orchestration」(1967)がUEから初めて出版された楽譜だ。以降フェルドマンの楽譜はUE[1]から出版されている。1970年代前半は出版社だけでなく、フェルドマンの周りの環境も音楽も大きく変わった時期である。

 1970年代前半にフェルドマンに起きた主な出来事として、ヨーロッパでの評価の高まり、教師としてのキャリアの始まり、バッファローへの転居があげられる。1950年代、60年代に既にヨーロッパ各地で演奏や講演活動をしていたケージとデヴィッド・チュードア、そして彼のライバルだったカールハインツ・シュトックハウゼンとピエール・ブーレーズをとおしてフェルドマンの存在と音楽はヨーロッパでも注目され始めていた。60年代後半から特にイギリスの現代音楽界で注目され、1966年にフェルドマンはイギリスでの2週間の講演ツアーを行った。また、フェルドマンは1950年代後半頃から既にコーネリアス・カーデューとも親交があった。フェルドマンとイギリスの現代音楽界との関係が1970年代に入るとますます強まる一方、彼は地元ニューヨークに対する失望と苛立ちを見せるようになる。1973年に書かれたエッセイ「I Met Heine on the Rue Fürstemberg」[2]の中で、1950年代、60年代当時のニューヨークのシーンのやや閉じた雰囲気について回想している。

その時ヴィレッジ[3]で、私たちは一般的に世界にまだ知られていなかった芸術の何かを共有しているのだと感じていた。それは一種の袋小路だったが、それでも私はその気分を楽しんでいる。私は同時代の音楽を聴くことがほとんどできなかった時代に育った。もしもそういう音楽を聴くことができた人に出会ったなら、その人はその音楽に関わっている人だった。

We had the feeling, then in the Village, of sharing something in art that was unknown to the world at large. It was a kind of cul-de-sac, and I still enjoy the feeling. I grew up in an era when there was very little ability to hear contemporary music. And when you met someone who could, there was that kinship.[4]

 このシーンの渦中にいた本人たちはそれなりに満足していただろうが、刺激や新しさの点でフェルドマンは物足りなさを感じていたのかもしれない。また、自分の音楽はもっと注目され、評価されてしかるべきという気持ちもあったのだと推測できる。そんな彼の苛立ちを少し和らげたのはイギリスの音楽界との接点だった。

 私はほぼ同時にイギリスの知識層とアングラに注目された。1950年後半にはコーネリアス・カーデューに、1960年代前半はウィルフリッド・メラーズ[5]によって。
 1966年から私は年に2、3ヶ月をイギリスで過ごしていて、おそらくバッファローの後にロンドンに行くだろう。イギリスの観客は他の観客とは違う。最高の雰囲気だ。私は変わり者だとまったく思われていない。
 例えば1972年にB.B.C(訳註:BBC)で「The Viola in My Life」と「Rothko Chapel」のオーケストラ演奏に加えて、自分ひとりによる3時間の番組を2回行った。私はイギリスの音楽生活の一部となった。アメリカでは「音楽生活の一部」になるようなことはありえない。

I was picked up in England by the establishment and the underground at about the same time. By Cornelius Cardew in the late fifties and by Wilfrid Mellers in the early sixties.
From 1966 on I’ve spent two or three months of the year in England, and I’ll probably go to London after Buffalo. They listen like no other audience. It’s the best atmosphere. I’m not really considered far-out.
In 1972, for instance, I had two three-hour one-man shows on the B.B.C.[sic], plus orchestral performances of The Viola in My Life and Rothko Chapel. I’ve become part of musical life in England. In America there’s really no such thing as “part of musical life.”[6]

 ここでフェルドマンは、集団即興の可能性を追求していたカーデューをイギリスの「アングラ」、音楽批評家として同時代の音楽を積極的に紹介していたメラーズを「知識層」と位置付けている。自分の音楽がイギリスの実験音楽界隈と現代音楽界隈の両方で受容されていることにフェルドマンは満足げだ。当時、彼はロンドンにフラットの一室を借りていてロンドンのシーンに直接的に関わっていた。また、この頃の楽曲のいくつかはイギリスのアンサンブル・グループ Fires of Londonや作曲家アラン・ハッカーのグループ Matrixに献呈されている。[7]ニューヨーク以外の場所とのつながりや評価が増していくにつれて、フェルドマンのニューヨークに対する想いが冷めていく。詳しくは後述するが、このエッセイが書かれた1973年当時、彼は既にバッファローに転居していた。

 ニューヨークとの接点を失ってしまった。私はいつもある種の部外者だったし、よい批評もされなかった。知ってのとおり、ニューヨークはパリと同じく現代音楽の街ではなかった。観客は忘れっぽく、作曲家についてもっと知ろうとする興味も抱かない。
 (ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者としての)ブーレーズのプログラムは実験的ではない。むしろ予測できる反応とともに、どこかで最初になされた事例を華麗に示してくれる。
 だから私は決まった音楽サークルに近づかなかった。実際バッファローでこうしていることが私にとっての初めてのアカデミックな状況だ。
 革新的な作曲家と人々は言う。だが、私は常に大きな歴史意識、つまり伝統や継続性の感覚を持っている。

  I’ve lost contact with New York. I was always sort of Odd Man Out, not good reviews. New York, you know, was never a modern music city, any more than Paris. The audience has no memory, not interested in getting to know more about a composer.
  Boulez’s programs[as conductor of New York Philharmonic]are not experimental. Rather glamorous samples of things done first somewhere else, with a known reaction.
 So I didn’t come up through regular music circles. In fact, this thing in Buffalo is my first academic situation.
 Radical composer, they say. But you see I’ve always had this big sense of history, the feeling of tradition, continuity.[8]

 1950年末頃から数年続いたケージ、デヴィット・チュードア、アール・ブラウン、クリスチャン・ウォルフとのニューヨーク・スクールとしての活動、ジャクソン・ポロック、フランツ・クライン、デ・クーニングらとのクラブやセダー・タヴァーンでの芸術談義はフェルドマンにとってもはや過去のものとなり、心情的にも彼とニューヨークのシーンとの隔たりは1970年代頃から顕著になっていく。ニューヨークのシーンに対するフェルドマンの想いをさらに複雑にさせた出来事があった。それは1970年10月にニューヨークのマルボロ・ギャラリーで開催されたフィリップ・ガストンの個展だ。この個展が開かれるまでフェルドマンとガストンは親友同士だった。1950年から1966年頃までのガストンの抽象時代[9]の作品は、キャンヴァスに描かれたくすんだ色彩による微かなかたちを特徴とする。まるで何かの痕跡のようにも見えるガストンのこの時期の作品は、破線を用いて楽譜の中に音楽の痕跡を描こうとしたフェルドマンの自由な持続の記譜法に少なからず影響を与えたと推測できる。前回解説した「Between Categories」(1969)をはじめとする1960年代に書かれたフェルドマンのエッセイにガストンが度々登場し、フェルドマンの音楽における時間や空間の概念に大きな示唆を与えていた。1964年にはフェルドマンは自由な持続の記譜法によるピアノ小品「Piano Piece (to Philip Guston)」を作曲している。だが、2人の友情は1970年10月のガストンの個展をきっかけに、しかもフェルドマンから一方的に終わってしまう。[10]

 マルボロ・ギャラリーで開かれたガストンの個展は主に1967年から1970年までに描かれた作品[11]で構成されていた。この頃からガストンは1950年代から1966年頃までの抽象とは全く異なる、具象というより漫画や戯画のような作風に転じる。この作風の変化がフェルドマンを大きく失望させ、彼はガストンとの友情にも終止符を打つ。この個展は当時どのように受けとめられたのだろうか。1970年11月5日発行の『Village Voice』に掲載された批評を見てみよう。

ガストンの新しい絵は漫画調で、変てこで、哀れで、社会的だ。頭巾をかぶって(KKK?)、切れ長の目をした人物がガタガタの車でうろつき、絵を描き、互いに殴り合い、たばこを吸う。時計、電球、指さし、ぶかぶかの靴は戯画化された姿で責め立ててくる。それはまるでデ・キリコが二日酔いでベッドに入り、アメリカが崩壊する話のクレイジー・カット[12]の夢を見ているようだった。過剰なのだ。彼のくすんだピンク色は私を打ちのめす強烈な絵画特有の色彩の流れとして、今もなお目に焼き付いている。だが、それは専らあやまちや恐怖による悲喜劇に寄与している。この変化をゲームの後半戦に持ってくるのは大変な勇気を必要とした。なぜなら、多くの人々がこれらをひどく嫌うのは自明だからだ。私は違うが。

Guston’s new paintings are cartoony, looney, moving, and social. Hooded (KKK?), slot-eyed figures rumble around in cars, paint paintings, beat each other, smoke cigars. Clocks, light bulbs, pointing hands, and out-sized shoes spoof and accuse. It’s as if De Chirico went to bed with a hangover and had a Krazy Kat dream about America falling apart. Too much. His smoky pinks are still in sight, as are terrific painterly passages that knock me out. But it’s all in the service of a tragi-comedy of errors or terrors. It really took guts to make this shift this late in the game, because a lot of people are going to hate these things, these paintings. Not me.[13]

 この批評から、KKK(クー・クラックス・クラン)を彷彿させる白頭巾のキャラクターや漫画調の作風がフェルドマンだけでなく当時の多くの人々に落胆と衝撃を与えたのだと想像できる。ガストンと絶交状態にあったものの、フェルドマンは1980年にガストンが亡くなった際には追悼文を書き、1984年には長時間の楽曲の1つでもある「For Philip Guston」を作曲する。一方、ガストンは1978年に「Friend – To M. F.」のタイトルでフェルドマンのポートレートを描いており、この絵はフェルドマンの著作集『Essays』[14](1985)と『Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman』(2000)の表紙に使われている。

 この時期のフェルドマンと画家との関わりとして、マーク・ロスコとの交友と「Rothko Chapel」委嘱もあげられる。ロスコもフェルドマンと親しく付き合っていた画家の1人だ。キャンヴァス一面に色を塗り重ねたロスコの全面絵画といわれる様式は、フェルドマンが音楽の「表面」について思索するきっかけともなった。1965年、ロスコはメニル財団からテキサス州ヒューストンに建設予定の無宗教の礼拝堂[15](今日「ロスコ・チャペル」として知られている)に設置される壁画の委嘱を受ける。ロスコは1967年に礼拝堂の壁画を完成させるが、礼拝堂の完成を見ぬまま1970年2月25日に自殺。67歳だった。1971年2月27日のロスコ・チャペル建立を記念してメニル財団はフェルドマンに楽曲を委嘱した。フェルドマンは作曲に集中するため1971年春にデ・メニル夫妻が所有するフランスのポンポワンの別荘で過ごした。[16]その結果生まれたのがソプラノ独唱、混声合唱、室内楽による「Rothko Chapel」[17]である。この曲はフェルドマンの楽曲には珍しく叙情性にあふれた旋律が用いられており、その少し前に作曲された「Viola in My Life」1-4と同じ作品群と見なされる。

Feldman/ Rothko Chapel (1971)

 友人との別れも人生に大きな悲しみや変化をもたらすが、さらに直接的な環境の変化がフェルドマンに起こる。それは教師としてのキャリアの始まりである。1970年からフェルドマンは画家のメルセデス・マッターが創設したニューヨーク・スタジオ・スクール New York Studio School of Drawing, Painting and Sculpture[18]の学科長を務める。おそらくこれが彼にとって初めての教職のはずだ。以前、この連載の第1回と第6回でも少し触れたが、フェルドマンは家業の子供服工場を手伝いながら音楽活動を続けていた。フェルドマンが作業着姿でアイロンをかける様子を見た作曲家で指揮者のルーカス・フォスは1964年頃からフェルドマンのために大学のポストを見つけようと奔走していた。[19]その間、フェルドマンはドイツ学術交流会 DAADの奨学金で1971年9月から1972年10月までベルリンに滞在していた。ベルリン滞在時は「Cello and Orchestra」(1972)、「Voices and Instruments」(1972)など、編成がそのままタイトルとなっている楽曲が作曲された。

 フォスの数年にわたる尽力が実り、1972年秋にフェルドマンはニューヨーク州立大学バッファロー校(以下、バッファロー大学)音楽学部作曲科のスリー教授 Slee Professor[20]に就任する。フェルドマンは約1年のベルリン滞在を終えるとバッファローに直行した。バッファロー大学教授就任に伴い、ついにフェルドマンはニューヨークを離れた。生まれも育ちもニューヨークで、生粋のニューヨーカーのフェルドマンはニューヨーク以外の街で暮らせるはずがないと思われており、フェルドマンのバッファローへの転居は当時、彼の友人たちをたいへん驚かせた。[21]マンハッタンの喧騒から離れたフェルドマンは新天地バッファローで作曲に集中し、これが結果として1970年代後半頃から現れる長時間の楽曲にもつながる。ニューヨーク以外の土地で無事にやっていけるのかという周囲の不安をよそに、安定した収入、快適な住居、そして何よりも学生や多くの一流の演奏家による演奏の機会を得たフェルドマンはバッファローでの暮らしを楽しんでいた。[22]当初フェルドマンの教授職は1年ごとの契約制だったが1974年には任期なしに変わり、ポストの名称もフェルドマン自らの希望でエドガー・ヴァレーズ教授 Edgard Varèse Chairとなった。

 フェルドマンは大学で作曲を教えることについてどのように考えていたのだろうか。バッファローに移る直前の1972年8月にポール・グリフィスによって行われたインタヴューでフェルドマンは次のように発言している。

グリフィス:音楽教育に対するあなたの考えをぜひともお聞かせください。たしか、今年の夏にダーティントンのサマースクール[23]にいらっしゃる予定ですね。

フェルドマン:その予定です。音楽教育で非常に残念なことのひとつは、音楽教育が作曲家を生み出していないことです。1、2年前にとてもよい条件の仕事の話を断りました。なぜなら、教えることに対する私の考えは大学の学科で起きているようなものとは違うからです。自分の学生には演奏グループに関わってほしくないし、演奏のために作曲してほしくもありませんでした。

Griffiths: I would be interested to hear your views on music education, as I believe you are coming to Dartington this summer.

Feldman: Yes I am. Well, one of the tragedies of music education is that it doesn’t produce composers. I turned down a very good job a year or two ago, because my idea of teaching just isn’t what’s happening in departments. I didn’t want my students involved in performance groups, or in writing music for performance.[24]

ここでのフェルドマンは音楽教育、とりわけ大学で作曲を教えることに対して否定的な立場を取っているように見える。最終的に彼は教職に就くが、その直前まで大学での音楽教育には懐疑的だった。こうした態度の背景には、音楽院や大学ではなく、シュテファン・ヴォルペやケージらの私的なレッスンをとおして作曲を学んできたフェルドマン自身の経験が反映されているとも考えられるだろう。

グリフィス:では、音楽教育は何をすべきなのでしょう?

フェルドマン:音楽教育は専ら演奏家向けにすべきだと思います。作曲が教えられるべきものだとは思いません。今のアメリカで4人の最も影響力のある作曲家たち――私自身、アール・ブラウン、ケージ、実は古典学者だという理由でクリスチャン・ウォルフ――が音楽学科と一切関係せず、音楽学科での訓練も受けてこなかったことは興味深いです。私の態度はこう言えるでしょう。できる限り人間らしく全てをやり続けなさい。バランス感覚、作品に対して好ましい雰囲気、平穏さを作り出し、それらが必要な時に助けてくれる素晴らしい人々との関係を作ること。こうした事柄がもたらした一時的な関わり合いに対して彼らを密かに落胆させ、そしてそこから彼らを解放しなさい。なんらかのユートピアを作るのではなくて。

Griffiths: So what should music education be doing?

Feldman: I think it should just be for performers; I don’t think composition should be taught. It’s interesting that the four most influential composers in America today—myself, Earle and Cage, and Christian Wolff really because he’s a classicist—had no connections and no training in music departments. So my attitude is: keep everything as human as possible, create a sense of proportion, good atmosphere to work, quietude, fantastic people there to help when they need them, and let them quietly get discouraged and get out of this tentative commitment they made; rather than creating some kind of Utopia.[25]

 音楽教育は作曲家ではなく演奏家に向けて行うべきというのがフェルドマンのこの時点での持論だったようだ。おそらくここでフェルドマンが問題にしているのは、音楽に関する技術や考え方というより、作曲家と演奏家との間に構築される関係性のことだろう。ある一定のコミュニティや場がひとたび構築されると、そこからなかなか踏み出せない。フェルドマンはそのような「ユートピア」に安住してはいけないと言っている。だが、このような発言を生んだフェルドマンの状況はバッファロー大学着任後に一変したように思われる。フェルドマンは、同時代の様々な上演芸術に特化した音楽学部の組織 The Center of the Creative and Performing Arts(以下、CA)での活動に精力的に取り組んでいた。当時、このセンターにはジュリアス・イーストマン[26]、ジャン・ウィリアムス[27]、デヴィッド・デル・トレディチ[28]らを中心とする気鋭の演奏家や作曲家たちが在籍していた。フェルドマンは彼らとアメリカ国内外へツアーを行い、バッファローを当時のアメリカにおける現代音楽の拠点のひとつにしようと力を注いだ。演奏会ではフェルドマンの作品だけでなく、他の教員や学生、ゲストとして招いた様々な音楽家の作品が演奏された。フェルドマンがバッファロー大学での音楽活動に大きく貢献したことは確かで、1975年6月には音楽祭 June in Buffaloを始める。この音楽祭はCAの後続組織 The Center for 21st Century Music主催でレクチャー、ワークショップ、演奏会を含む行事としてバッファロー大学で現在も毎年行われている。[29] 第1回のJune in Buffaloではフェルドマンのかつてのニューヨーク・スクール仲間である、ケージ、ブラウン、ウォルフの作品がとりあげられた。

 着任前は「作曲は大学で教えられべきではない」と言っていたフェルドマンだが、もちろん実際は後進の指導に取り組んだ。バッファロー大学でのフェルドマンの著名な教え子としてバニータ・マーカス[30]とバーバラ・モンク・フェルドマン[31]の名前があげられる。1980年代に入るとフェルドマンはカナダ、オランダ、南アフリカ、ドイツ、日本など音楽祭やワークショップの講師を務めるようになり、行く先々で当時の若手音楽家や学生たちと対話を重ねた。例えばフェルドマンの講義録『Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche』[32]には、難解な比喩や音楽以外のエピソードを用い、時に受講生を困惑させながら自身の音楽観を説くフェルドマンのいくつかの講義が収められている。

 次のセクションでは1970年代のフェルドマンの音楽の変化について解説する。


[1] Universal Editionのフェルドマンのページ https://www.universaledition.com/morton-feldman-220
[2] 初出は1973年4月21日発行Buffalo Evening News。本稿はフェルドマンのエッセイ集Morton Feldman, Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000に収録されているものを参照した。
[3] ここでフェルドマンが言っている「ヴィレッジ」はマンハッタン南西部のグリニッジ・ヴィレッジのこと。この界隈にはアーティストが集うクラブやバーが軒を連ねていた。
[4] Morton Feldman, “I Met Heine on the Rue Fürstemberg,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 116
[5] Wilfrid Mellers (1914-2008)イギリスの音楽学者、批評家、作曲家。http://www.mvdaily.com/mellers/
[6] Ibid., p. 117
[7] Morton Feldman Says: Selected Interviews and Lectures 1964-1987, Edited by Chris Villars, London: Hyphen Press, 2006, p. 43
[8] Feldman 2000, op. cit., p. 120
[9] ガストン財団 The Guston Foundationの作品カタログの時代区分に基づく。 https://www.gustoncrllc.org/home/catalogue_raisonne
[10] Feldman 2006, op. cit., p. 268
[11] ガストン財団のカタログでこの時期の作品を見ることができる。
https://www.gustoncrllc.org/home/search_result?search%5Btag%5D=Figurative 1968〜1972年代にかけてのガストンの作品に登場するKKKのキャラクターをめぐっては今日も主にレイシズムの観点から議論されている。ワシントンD.C.のナショナル・ギャラリーなど4つの美術館を2021年1月から巡回予定だったガストンの大規模な回顧展はBLMなどの社会機運を考慮し、展示内容を再考したうえで2024年に延期されることとなった。
National Art Gallery of Artの声明文https://www.nga.gov/press/exh/5235.html
[12] Krazy Kat 1913年から1944年まで新聞に連載されたコミック・ストリップ。
[13] John Perreault, “Art”, Village Voice, November 5, 1970
[14] Morton Feldman, Morton Feldman Essays, edited by Walter Zimmermann, Kerpen: Beginner Press, 1985
[15] Rothko Chapel http://www.rothkochapel.org/
[16] Feldman 2006, op. cit., p. 268
[17] フェルドマンの「Rothko Chapel」の概要は拙論参照。 https://geidai.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=435&item_no=1&page_id=13&block_id=17
[18] https://nyss.org/
[19] Ibid., p. 265
[20] Ibid., p. 270
[21] バッファローの音楽コミュニティ形成に貢献した、弁護士でアマチュア音楽家のFrederick Sleeと、その妻Alice Sleeからの寄付によって創設された教授ポスト。バッファロー大学には彼らの名前を付したSlee Hallもある。http://www.buffalo.edu/administrative-services/managing-facilities/planning-designing-and-construction/building-profiles/profile-host-page.host.html/content/shared/university/page-content/facilities/slee.detail.html
[22] Renée Levine Packer, This Life of Sounds: Evening for New Music in Buffalo, New York: Oxford University Press, 2010, p. 118
[23] Dartington Summer School https://www.dartington.org/about/our-history/summer-school/
[24] Feldman 2006, op. cit., pp. 48-49
[25] Ibid., p. 49
[26] Julius Eastman https://www.wisemusicclassical.com/composer/5055/Julius-Eastman/
[27] Jan Williams https://peoplepill.com/people/jan-williams
[28] David Del Tredici https://www.daviddeltredici.com/
[29] June in Buffalo https://arts-sciences.buffalo.edu/music21c.html
[30] Bunita Marcus http://www.bunitamarcus.com/index.html
[31] Barbara Monk Feldman http://www.composers21.com/compdocs/monkfelb.htm 1987年6月にフェルドマンと結婚した。
[32] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ&Ⅱ, Köln: MusikTexte, 2008

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は2月25日更新予定です)

あれでもなくこれでもなく〜モートン・フェルドマンの音楽を知る(10) 音楽の表面-3

(文:高橋智子)

3 自由な持続の記譜法の独自性と類似例

 これまでこの連載で数回にわたって解説してきたとおり、自由な持続の記譜法は1960年代のフェルドマンの楽曲の大半を占めている。持続または音価を具体的に定めずに演奏者に最終的な決定をある程度委ねることで、フェルドマンは拍子やリズムに従属しない可変的な時間を描こうと試みた。このような記譜法が生まれた背景には、連続性ではなくて積み重なる時間をイメージした「垂直」の概念が大きく関係している。フェルドマンが音楽的な時間にまつわる思索を深めていくにつれて「垂直」の概念はやがて「表面」の概念へと変化した。1960年代中頃から自由な持続の記譜法に小節線や拍子記号が加わり始め、音符が記されている部分と音符が記されていない沈黙の部分との違いが明らかになってきた。この変化の様子は第9回でとりあげた「De Kooning」やセクション2で解説した「Between Categories」のスコアを見ればはっきりとわかる。フェルドマンは1986年に行われた講演の中で1960年代後半の自由な持続の記譜法を次のように振り返っている。

1960年代の後半の私の曲のいくつかは、沈黙の曖昧さゆえに、音の持続に関して多かれ少なかれ偶数拍子のゆっくりとしたテンポで音が鳴る状況を作り、さらに続けるならば、5/4拍子で、例えば四分音符1つあたり76かそのくらいのテンポの沈黙の小節を書いたものだった。私は沈黙が記された小節を測り始めたが、音の素材を依然として測らずにそのままにしておいた。なぜならそれ(訳注:音の素材)は耳に入ってくる音の状況の中にあったからだ。この曲を演奏しようとする人はこの曲をちゃんとわかっていると思っていた。

There are some pieces of mine in the late sixties because of the ambiguity of the silence, I would have the sound situation in terms of its durations more or less in a slow tempo on even beats, if you will, and then I would have the silent measures like five-four and the crotchet equals, say, seventy-six or something. I started to measure the silence and had the sound material still unmeasured. Because it was in an acoustical situation. So I felt the person that’s going to play has a sense of the piece.[1]

 自由な持続の記譜法における小節線、拍子、メトロノーム記号を伴う沈黙、つまり全休符の小節では時間が測られているが、音の鳴る箇所では時間が測られていない。実際は「Between Categories」では音符が記されている箇所にも拍子やメトロノーム記号が散見されるが、フェルドマンの全休符小節の扱い方は曲中に計測された沈黙を配置する目的だったことがわかり、「Between Categories」1ページ目アンサンブル2に測られた沈黙の実例が見られる。このように考えると、エッセイ「Between Categories」での「時間をただそのままにしておくべきなのだ。Time simple must be left alone.」[2]は、音が鳴り響いている時間に言及しているのだと解釈できる。このエッセイでフェルドマンは音や時間の構造と対立する概念として「表面」を掲げ、「表面」を構成されていない錯覚や幻影のようなものと位置付けた。この考え方も「時間をそのままにしておくこと」とつながるのだが、構成や構造を放棄すれば「構成する、組み立てるcompose」から派生した「作曲 composition」の根幹が揺らいでしまうのではないだろうか。もちろんフェルドマンもそれを自覚しており、エッセイ「Between Categories」の終盤での彼の議論は「作曲すること」と「音や時間をそのままにしておくこと」とのジレンマに苛まれる。この議論と逡巡の結果として、当座の答えとして引き出されたのが「時間と空間の間。絵画と音楽の間。音楽の構造と音楽の表面の間 Between Time and Space. Between painting and music. Between the music’s construction, and its surface.」[3]だった。彼は音楽家で作曲家だが、自分の創作を音楽という1つのカテゴリーに限定するのではなく、音楽と音楽以外の別のカテゴリーとの間(あいだ)に位置付けようとしている。ここでのフェルドマンは絵画に問題解決の手がかりを見出そうとしているというより、もはや絵画への思慕を表しているのではないだろうか。彼の絵画への憧憬や思慕は既に1967年のエッセイ「Some Elementary Questions」でも記されていた。

例えば、モンドリアンの特定のドローイングに比肩するものは音楽には何もない。モンドリアンのドローイングの場合、代替案が上書きされているが、消されてしまった輪郭やリズムはまだ見える。音楽の悲劇は完璧さから始まることだ。

There is nothing in music, for example, to compare with certain drawings of Mondrian, where we still see the contours and rhythms that have been erased, while another alternative has been drawn on top of them. Music’s tragedy is that it begins with perfection.[4]

 絵画と違って音楽は完璧さで始まる。それは音楽の悲劇である。これは何を意味しているのだろうか。ここでフェルドマンが音楽の悲劇と称している「完璧さ」は作曲家が楽譜に書いた音符と、そこから生じる鳴り響きを指す。モンドリアンのドローイングには彼が試行錯誤した痕跡が消えることなく残っており、その過程を私たちがキャンヴァスの中に見て取ることができる。一方、作曲家が書き記した音符には作曲家の試行錯誤の過程をたどることはできない。これがここでの「完璧さ」にまつわる絵画と音楽との大きな違いだ。フェルドマンはさらにルノワール、自分、ベリオを引き合いに出して、絵画と音楽における「ためらい」の要素の違いを述べる。

かつてルノワールは、同じ色が2つの違う手で塗りつけられれば、2つの異なる色調が得られるだろうと言った。音楽の場合、同じ音符が2人の違う作曲家に書かれていようと、それがもたらすのは――やはり音符だ。私がB♭を書くとする。ベリオもB♭を書く。そこで得られるのは常にB♭だ。画家は制作する時に自分の媒体を創り出さないといけない。それが彼の作品にもたらすのはためらい、つまり絵画にとって致命的ともいえる不安感だ。作曲家は既に存在している媒体で創作する。絵画におけるためらいは不朽の名声に寄与する。音楽におけるためらいは負けを意味する。

Renoir once said the same color, applied by two different hands, would give us two different tones. In music, the same note, written by two different composers, gives us—the same note. When I write a B flat, and Berio writes a B flat, what you get is always B flat. The painter must create his medium as he works. That’s what gives his work that hesitancy, that insecurity so crucial to painting. The composer works in a preexistent medium. In painting if you hesitate, you become immortal. In music if you hesitate, you are lost.[5]

 画家は自分の創作に際して色彩や色調を自分自身で試行錯誤して作り出す。しかし、楽曲の概念を持ち、既存の楽器で演奏される類の音楽を作る作曲家は既存の媒体としての音を使わざるを得ない。フェルドマンであろうとベリオであろうとB♭はB♭である。複数の音の組み合わせなどによって作曲家は自分の音楽を作り出す。ここにフェルドマンは絵画と音楽との大きな違いを見出している。少なくとも楽譜に書かれた音符からは、作曲家の試行錯誤やためらいを読み取ることはできない。たとえそれが演奏に際して不確定な音楽であろうとも、そのスコアができるまでの創作の過程をドローイングに何重にも描きつけられた線のように読み取ることはできない。完成された楽曲は、常にスコアとして完成された完璧な体裁で私たちの前に提示される。

 自由な持続の記譜法における破線、垂直線、矢印付き垂直線は通常の五線譜とは大きく異なる外見だ。見ようによっては、これらの線は楽譜の書きかけやスケッチにも思える。これまで本稿で述べてきたように、自由な持続の記譜法におけるそれぞれの線は実用的な機能を持っている。だが、もしかしたらフェルドマンはこのような線を自身のスコアの中に残しておくことで音楽の悲劇である「完璧さ」に抵抗しようとしたのではないだろうか。絵画のためらいの痕跡である何重もの上塗りをフェルドマンは音楽の中で試みようとした。その結果が、あの一見奇怪な線でつなげられた自由な持続の記譜法なのだと考えられる。

 1960年代のフェルドマンの音楽は小節線の全くない、あるいは部分的に小節線の引かれた自由な持続の記譜法なしには語れない。だが、19世紀末から20世紀中頃までの西洋芸術音楽の歩みの中で、ルネサンス以前の多声音楽を想起させる小節線のない五線譜による記譜を再び使い始めた先駆者がフェルドマンだったというわけではない。時代をさかのぼると既にエリック・サティが似たような記譜法を実践している。サティは初期のピアノ曲の1つである「Quatre Ogives」(1889, 1965)で既に小節線のない五線譜を用いていた。よく知られているサティのピアノ曲「Trois Gnossiennes nos. 1-3」 (1889-1890)も小節線のない五線譜で書かれている。だが、サティによる小節線のない楽譜の意図はもちろんフェルドマンと異なる。例えば「Quatre Ogives」は、拍子の感覚と概念がまだ希薄だったグレゴリオ聖歌の単線旋律を思わせる旋律ゆえに小節線も拍子もない。ここでは小節線と拍子を欠くものの、この曲では旋律のまとまりを示唆するスラーが記されている。一方、フェルドマンの小節線のない楽譜にはサティのような歴史意識はほとんど見られず、彼の関心は専ら音の減衰や音楽的な時間に当てられている。そしてその背後には彼が敬愛してきた画家たちと絵画の存在がある。

Satie/ Quatre Ogives no. 1(1889, 1965)
Satie/ Trois Gnossiennes no. 1 (1889-90)

 「Between Categories」は2つの同じ編成のアンサンブルが別々のことをしながら同時に走り出す曲だ。1つの曲の中に複数の異なる時間や出来事が起こる楽曲のアイディアもフェルドマンが起源ではない。チャールズ・アイヴズは管弦楽曲「Central Park in the Dark」(1906)の中で既にこの状態を記譜によって具現していた。

Ives/ Central Park in the Dark (1906)

 セントラル・パーク内での夕方の風景を描写したこの曲の編成は木管楽器(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット)、金管楽器(トランペット、トロンボーン)、弦楽5部、ピアノ(1人あるいは2人)、打楽器。管楽器+打楽器+ピアノで1つのアンサンブルを、弦楽器がもう1つのアンサンブルを作っている。公園での夜の微かな音と暗闇の静寂を描写した弦楽器によるアンサンブルは「きわめてゆるやかに Molt Adagio」のテンポ指示のもとでコラール風のフレーズを終始繰り返す。この静寂は喧騒を描く管楽器、打楽器、ピアノによってしばしば妨げられる。管楽器、打楽器、ピアノは公園の池の向こうのカジノの騒音、ストリート・バンド、新聞売りの少年の声、あちらこちらのアパートメントで繰り広げられるピアノラ(自動演奏ピアノ)によるラグタイム合戦など[6]、弦楽器による夜の静寂とは対照的な音の世界を次々と繰り広げる。いくらこのアンサンブルが騒々しくとも、弦楽器は若干のテンポの変化を伴いつつも決して取り乱すことなく淡々とコラール風のフレーズに徹する。この曲にはある種の並行世界が描かれているとも言える。もちろん、サティの小節線のない記譜法の場合と同じく、フェルドマンがアイヴズのこの種の楽曲を念頭に置いていたとは到底考えられないが、フェルドマンの「Between Categories」における記譜や音楽的時間に関する様々な試みについて少し視野を広げて考えると、類似する例をいくつか見つけることができる。フェルドマンに関していえば、それぞれのパートの音がメトロノームでは測り得ないテンポと時間の感覚で混ざり合う自由な持続の記譜法は、絵画の作法を参照しているがアイヴズのような具体的な風景や心象風景の要素は一切ない。

 フェルドマンの1960年代後半の自由な持続の記譜法の楽曲に見られる複数の時間と出来事が同時に作り出す混沌とした状態に近い作品のひとつとして、ジョン・ケージが1961年に行ったレクチャー「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか。 Where Are We Going? and What are We Doing?」[7]をあげることができる。この講演のテキストは「全部一緒に、あるいはその一部を水平及び垂直に用いる」。[8]また、この講演は4つの講演が同時に聞こえるように構成されていて、講演者は1人で4つ全ての講演を行わなくてはならず、ライブで、つまりその場で後援者が4つの講演を読み上げてもよいし、予め録音した素材を用いてもよい。[9]講演の際に音量を変化せることもでき、もしそうするのならばケージの作品「WBAI」(1960)[10]のスコアを用いてほしい[11]と、ケージ自身が講演の前書きで記している。講演を収録したケージの著作集『Silence』の中で、この講演は英語による原書と日本語翻訳版(日本語版のレイアウトは文字が縦書き)ともに4つの異なるフォントで書き分けられている。英語で読んでも日本語で読んでもこの講演を1行ずつ追っていくと目が泳いでしまう。この混乱はフェルドマンの「For Franz Kline」(1962)をスコアを見ながら聴いている時の、スコアと演奏とのずれの只中に放り込まれた経験に近い。複数の異なる出来事が同時に走る点では「Between Categories」の2つのアンサンブルの関係にも似ているだろう。後者の場合は互いに素材を共有していることが徐々に明らかになってくる。一方、ケージのこの講演の中で4つの出来事は交わることなく進む。

 ケージはこの講演の狙いについて前書きで「われわれの経験というものは、一度に全部与えられると、理解を超えるものになってしまうことを、私は言おうとしていたからである。」[12]と述べている。講演原稿を記した文章と五線譜に書かれた楽曲はそれぞれ違う媒体から成り立ち、違うカテゴリーに属している。さらには、当然ながらフェルドマンはケージのこの講演について自身のエッセイその他において言及していない。しかし、両者を並べてみると、フェルドマンの「Between Categories」の記譜法と音楽的な時間にまつわる考え方はケージの講演「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか。」と全く無関係でもなさそうだ。

 1960年代のフェルドマンの創作は音楽的な時間に対する関心と問題意識から生じた自由な持続の記譜法によって実践された。1970年代に入ると、フェルドマンは五線譜による慣習的な「普通の」記譜法に戻る。この変化は一体何に発端するのだろうか。次回は1970年代前半の楽曲について考察する予定である。


[1] Morton Feldman, Words on Music: Lectures and Conversations/Worte über Musik: Vorträge und Gespräche, edited by Raoul Mörchen, Band Ⅰ, Köln: MusikTexte, 2008, p. 292
[2] Morton Feldman, “Between Categories” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 85
[3] Ibid., p. 88
[4] Morton Feldman, “Some Elementary Questions,” Give My Regards to Eighth Street: Collected Writings of Morton Feldman, Edited by B. H. Friedman, Cambridge: Exact Change, 2000, p. 65
[5] Ibid., p. 65
[6] Charles Ives, “Note”, Central Park in the Dark, New York: Boelke-Bomart, Inc., 1973
[7] ジョン・ケージ「われわれはどこへ行くのか、そして何をするのか。」、『サイレンス』 柿沼敏江訳、東京:水声社、1996年、311-406頁(John Cage, “Where Are We Going? and What are We Doing?”, Silence, Middletown: Wesleyan University Press, 1961, pp. 194-259)
[8] 同前、311頁
[9] 同前、311頁
[10] John Cage/ WBAI https://johncage.org/pp/John-Cage-Work-Detail.cfm?work_ID=243
[11] 前掲書、311頁
[12] 同前、311頁

高橋智子
1978年仙台市生まれ。Joy DivisionとNew Orderが好きな無職。
(次回は2月18日更新予定です)