文:佐藤馨
1950年12月31日、地中海を望む南仏のカナデルにて、一人の音楽家がその生涯に幕を下ろした。同地に建てられたこの人物の墓には、「私の作品の精神と私の生涯を全うする精神は、何よりも自由の精神である」[1]という言葉の後に、「シャルル・ケクラン――作曲家」と墓碑銘が刻まれている。この「作曲家」という肩書は、彼自身が生前にそう呼ばれることを望んだものだった。しかし、83年にわたる長い生涯の中で、その望みが十分に果たされたとは言い難い。
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文:佐藤馨
1950年12月31日、地中海を望む南仏のカナデルにて、一人の音楽家がその生涯に幕を下ろした。同地に建てられたこの人物の墓には、「私の作品の精神と私の生涯を全うする精神は、何よりも自由の精神である」[1]という言葉の後に、「シャルル・ケクラン――作曲家」と墓碑銘が刻まれている。この「作曲家」という肩書は、彼自身が生前にそう呼ばれることを望んだものだった。しかし、83年にわたる長い生涯の中で、その望みが十分に果たされたとは言い難い。
Continue Reading →クラシック名曲「酷評」事典(上・下) ニコラス・スロニムスキー編 YAMAHA(書籍)
d‘Indy Orchestral Works 2 Symphony No.2 etc. Rumon Gamba/Iceland so. CHANDOS CHAN10514
ミューズプレスの細谷代表から本が送られてきました。『クラシック名曲「酷評」事典』。この本について好きに書いてほしいとのこと。どうやら私の事を黒豹組(良い変換だ)の一員だと思っているらしいのです。無礼千万雨霰、私には「人と違う何かをやろうとしたアーティストへの愛」があります。ただその愛情表現がちょっとゆがんで下手なだけです。この本の酷評群にはそのような「愛」がほとんど感じられません。何のためにこれほどの「酷評」を書いたのか不思議なほどです。(お前には言われたくはないというツッコミは謝絶)
もっとも酷いのは、編者のスロニムスキーも前書きで特筆していますが、1903年にニューヨーク・サン紙に載ったドビュッシーの作品に関しての評で(要約すると)
「この前ドビュッシー本人に会ったけど、東洋のお化けのようなチョーキモイ顔した奴で、着てるもんもチョーダサ。こんな顔した奴の曲だもんでチョーヒデェ。」
というものでしょう。書いたのはJames Gibbons Haneker (1857-1921) という人物でWikipediaにも長々と経歴があるように、あらゆる芸術ジャンルの評論家として大変に高名だった人です。おそらく当時のアメリカで有数の文化人でした。大正13年に日本で刊行された「ショパンの藝術:全作品解説」の著者ジェームス・ハネカーもこの人ではないかと思われます。これほどの人物が公表したドビュッシー評が先ほどのもの。元の文章には顔のディテールの悪口がもっと細かく書かれています。今の時代なら、大炎上一発レッド。ネット上の匿名の書き込みでもこんなレベルのものは少ないでしょう。時代的にロンブローゾの影響でもあったのでしょうか。ま、ファッションのダサい奴の作品はアカンというのは、なんとなく首肯できますが……。マーラーに関する1909年の批評も酷いもんです。(要約すると)「こんなユダヤ人訛りのドイツ語を話しているような音楽は意味なしで空っぽ」です。書いたのはRudolf Louis(1870-1914)という指揮者兼評論家。まぁ、今の時代ならモサドに抹殺されそうですよね。
本に収録されている多くの「酷評」は罵詈雑言ではありますがさすがにこれらほど酷いのはあまりありません。真面目に音楽解析的に書いているものも(少ないですが)あります。しかし、正直、大多数の酷評は、その音楽がどういうものだったのかもよくわからないようなひたすらの酷評。酷評そのものを一つの文学ジャンルとして切磋琢磨しているとしか思えないクリエイティブな罵詈雑言のオンパレード。まさに “酷評芸”とでもいうべき世界です。そこに「他人の不幸は蜜の味」という人類共通のニーズがマッチし、酷評芸合戦というべき醜態が繰り広げられています。もう、サイコパス映画のように悪意のエンターテインメントとして楽しむしかありません。ま、残念ながら勧善懲悪はありませんが。
この本の罵詈雑言がどの程度正鵠を射ているか、試せる曲が1つあります。上巻のp.148~9にダンディの交響曲第2番の酷評がずらっと並んでいます。ダンディの交響曲第2番と聞いて音楽がすぐ思い浮かぶ人はおそらく日本では特殊な数人しかいないでしょうから、かなりコアなクラシックファンでもCDもしくは配信で聴けば、当時の評論家の気持ちで「初演」を体験することができます。どうですか? そこに書いてある酷評の数々、納得できましたか? 確かに当時よりは不協和音だらけの世界に慣れた私たちの耳ですが、虚心坦懐、ダンディの交響曲第2番をどうお感じになったか、お聞きしたいものです。
さて、この本を読み進めていくと、少し残念な情報の欠落に気付きます。それは酷評が書かれた経済的な背景です。評論家(もしくは文化部系記者)といえどもお仕事です。お仕事で罵詈雑言を書く場合はかなりの覚悟が要ります。狭い業界で罵詈雑言をまくしたてていては、次のお仕事が来なくなって、あっという間に失業してしまいます。雑誌や新聞は広告や情報が頂けなくなるでしょう。演奏会にご招待ではなく自費で行き続けるのも結構な負担になります。罵詈雑言を公言するからには、必ず経済的保証があるはずなのです。例えば世を二分するような芸術運動のどちらかの流派に寄稿先が属していて、どんなに他派の罵詈雑言を書いても自分の属する流派からはお仕事が約束されている(ハンスリックはこれかな?)とか、音楽家本人のいる地域社会から物凄く遠いので何言ってもたぶん報復は来ない(アメリカの新聞社はこれか?)とか、音楽とは無縁の本業があって原稿依頼が来なくなってもなんとでもなるとか、某新聞や某週刊誌のように記事の正しさなんてどうでもよくって滅茶滅茶なことをウケ狙いで書いて売るのが営業方針とか。いずれにしろそのあたりの情報が全くないのがなんとも残念です。人間の行動には多くの場合経済的事情があります。その経済的事情にまで踏み込んだ考察が欲しかったですね。例えばリヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」をボロクソに酷評した評論家が11年後に一転して絶賛している例が取り上げられています。これは評論家の耳が新しい音楽に慣れたからだと編者は語っていますが、本当にそんな単純な理由でしょうか? 前言撤回もほどがある場合、なんかウラがありそうに思えます。ま、評論家なんてもともと節操がないもんよ、と切り捨てることもありでしょうがね。この本はあくまでも「事典」なので列記表記に留まらせていると思います。が、どなたかさらに一歩踏み込んで、音楽評論業界の歴史的な業を抉り出していただけないでしょうか。
今の時代、ここまでの酷評はなくなりました。下手に酷評なんぞしたら訴訟に巻き込まれる世になったのかもしれません。ましてや人の生まれ持った容姿や人種などをネタにして嘲るなどもってのほか。ネットの炎上は一歩間違うと社会的生命(時には本当の生命)を失うことになりかねません。なによりも業界がますます狭くなって、評論家やライターの経済的背景が濃密になり、音楽雑誌への寄稿やCDや演奏会の解説書きのお仕事をいただくためには、滅多なことでは酷評なんてできないというシガラミ地獄が一層顕著になっているのかもしれません。少し前の話ですが、某評論家氏は時折匿名で音楽業界や演奏への強烈な批判記事を非音楽系雑誌に書いていました。彼にはそういう道しかなかったのだと思います。ま、その記事は非常に面白かったですがね。
絶賛も酷評も心の汚れた私はみなウラがあると思っていますので一概に信じることはできません。しかし、絶賛や酷評そのものを一つのエンターテインメントとして受け止めれば、それはそれで成立する……あ、だからこの本で取り上げられるような「酷評芸」が華開いたのかな。しかし、本書で取り上げているような酷評はもう絶滅危惧種です。最も使われている非難語は「不協和音」と思われますが、すでに「不協和音」の使用は何の非難の対象でもなくなっています。「旋律がない」も多用されていますが、これだって今どきは珍しくもない。「不道徳」だって様々な芸術ジャンルで人類交尾くらい描かれるのは当たり前。本書で「なじみなきものへの拒否反応」(編者の前書きより引用)として罵詈雑言の原動力となった要素が現代では批判の対象になりません。ポリコレとかコンプライアンスとかSDGsとかの御旗が高らかに振られている現代において、新たなるクリエイティブな罵詈雑言=ちょっと口の悪い建設的進言の道はどこにあるのか、人としてあまり美しくはないですが、探し求めるのも現代文化ライターの課題なのかもしれません。
【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。
文:高橋智子
2. オペラ「Neither」
1976年7月に「ベケット三部作」による一通りの試作を終えたフェルドマンは1976年9月18日に行われた「Orchestra」初演のためグラスゴーに滞在していた。[1]グラスゴーでの初演の後フェルドマンはベルリンに赴き、9月20日の昼頃シラー劇場で「あしあと Footfalls」と「あのとき That Time」のリハーサルをしていたベケットと初めて会う。[2]劇場の中は照明が暗転して真っ暗だった。暗闇の中でベケットはフェルドマンの親指に握手した。[3]これが彼らの初対面の瞬間だ。フェルドマンはベケットを劇場近くのレストランにランチに誘い、ここで彼は自身のオペラについて話した。[4]「自分の考えだけでなく彼(訳注:ベケット)の考えにひれ伏したかった I wanted slavishly to adhere to his feelings as well as mine.」[5]と語り、ベケットを信奉していたフェルドマンはベルリンで交わした会話を次のように回想している。
Continue Reading →文:高橋智子
前回は1975年の楽曲「Piano and Orchestra」を中心に、フェルドマンのオーケストレーションと協奏曲について考察した。今回は彼の1970年代の楽曲のハイライトともいえるオペラ「Neither」と、このオペラのための習作として位置付けられているベケット三部作をとりあげる。
Continue Reading →文:高橋智子
2 反協奏曲 Piano and Orchestra
その曲を構成する音または音符に楽器の選択、音域、ダイナミクス、タイミングといったあらゆる要素の必然性を求めたフェルドマンの態度は、1970年代に集中的に書かれたオーケストラ曲にどのように反映されているのだろうか。このセクションでは独奏楽器とオーケストラによる協奏曲編成の楽曲を中心に、フェルドマンのオーケストラ曲とオーケストレーションの特徴を考察する。
Continue Reading →George Walker in Recital George Walker(p) Albany TROY 117 (1994年)
JOHANN STRAUSS by LEOPOLD GODOWKY Antony Rollé(p) FINNADAR RECORDS 90298-1 (1985年、LP)
A LONG WAY FROM NORMAL Awadagin Pratt(p) EMI CLASSICS CDC 5 55025 2 0 (1994年)
○弱小クラシックCDレーベル 魔煮悪classics 本社会議室
部長:50代男性 年々下がる売り上げに悩み続ける中間管理職
社員A:25歳男性 クラシックが何となく好きなニートっぽい兄ちゃん
社員B:36歳女性 入社10年を超えた中堅社員
部長:それでは企画会議を始める。皆もわかっていると思うが、クラシック音楽産業は衰退の一途にある。その大きな要因はやはりスターの不在だ。昭和の頃は道端のオッサンでもクラシックの指揮者は?と聞かれれば「カラヤン」くらいの名前は出てきた。新入社員のA君、今のベルリンフィルの常任は誰かな?
社員A:え、、、、、えっと、えっと……ぺ?……プ?……ペトルーシュカ、じゃないし……
部長:まぁ、そんなもんだ。私も先日、クラシック音楽酒場に行ったが即答できた奴はいなかった(筆者実話)。それほど今はスター不在なのだ。しかぁし、そんなことは言っていられない。何としてでもリスナーの財布のひもを緩めるスターを探し出すのだ。
社員B:よろしいでしょうか、部長。
部長:おお、Bくん、逸材に心当たりがあるかい?
社員B:クラシックといえど、古よりスターは美男美女もしくは夭折の天才と相場は決まっています。昔よりは演奏の腕はハイレベルになったと思いますが、正直、みな似たり寄ったり。さっそく音大に行って虚弱な美男美女プレイヤーを探してきます。
部長:いやいや、そのコンセプトはちょっとルイ風(※)かなぁ。確かにみてくれは大事だが、もう少し新しいコンセプトはないかね。
社員B:では、困難と闘う感動のストーリー性という点で、独裁的な国家から政治的迫害を受けている芸術闘士はいかがでしょうか?
部長:タコ・ロストロ路線だね。しかし、今、それほどに顕著な政治的迫害は(ピーーッ)国でもない限りいないんじゃないか? (ピーーッ)は演奏家へのコンタクトも大変だろう。それに芸術的自由だとか政治思想路線の闘争系はもう流行らないのではないかね。
社員B:では、感動のストーリーという点では(ピーーッ)でしょう。既に(ピーーッ)や(ピーーッ)という先例がありますから、市場は安定しています。
部長:こらこら、企画会議での発言は気を付けたまえ。最近オリンピックの演出で内部のブレスト的なやり取りが漏れて大変な事態になったことを忘れたか。間違っても(ピーーッ)とか(ピーーッ)とか(ピーーッ)とか言ってはいかんぞ。
社員B:では(ピーーッ)との闘いはどうですか?それを前面に出したセールスは過去に例はありませんから、斬新なのでは?
部長:ぶぁっかもん!!うちを潰す気か。(ピーーッ)はなし、なし、なし。
社員A:あのぉ……最近のネットの流行りで「ポリコレ」っていうのがあるみたいなんですけどぉ……
社員B:ポリコレ、いいわね、それ。部長、最近の流行りでは人種問題やジェンダー問題などが世界的にもホットなムーヴメントね。
部長:確かに。批判する奴がいたらポリコレ攻撃をかませばよいしな。
社員B:なんか全体的にポリコレの捉え方が間違っているようには思いますが……まぁ、音楽的価値以上の有無を言わせない価値が付加されることにはなりますね。
社員A:それって(ピーーッ)と同じですね?
部長:だから、(ピーーッ)とか口にするなって。お願いしますよ、ほんとにもう。
社員B:まずはより一般的な所から人種問題を取り扱うのはどうでしょう。
部長:ジェンダー問題はダメなのかね?
社員B:それも重要ですが、音楽業界はもともと(ピーーッ)ですし、今更殊更(ピーーッ)を主張しても割とスルーされてしまうのではないかと。
部長:確かに。では人種問題で行くか。
社員A:少し前、ネットニュースでよく見たのは「Black Lives Matter」ですね。やっぱ黒人の人たちへの問題が世界のトレンドかな。そういえば、黒人のピアニストってクラシックではほとんど見ないですね。
社員B:私もほとんど知らない。部長は?
部長:ジャズなら山ほど知っているが、確かにクラシックはあまり聞かないなぁ。その辺を調べてみる必要があるな。きっと知られざる素晴らしい演奏家が沢山いるに違いない。よし、今日は解散だ。次回のmtgまでに二人は色々調べてきてくれ。
社員A・B:了解しました。
~a few days later~
部長:では企画会議を始める。クラシックの黒人ピアニストについて調べてきたかね?
社員A:はい、部長。僕はGeorge Walkerっていう人を見つけました。めちゃクールなキャリアの人です。彼のホームページに経歴が書いてあって、そこらじゅうに「黒人で初めて first black」という言葉があふれています。音楽学校を出た最初の黒人ピアニストとか、大手の交響楽団や演奏会場に出演した最初の黒人とか、ピューリッツァー賞を取った最初の黒人とか、まさに黒人クラシック音楽家のパイオニアです。
部長:CDは出ているのかね?
社員A:amazonで検索したんですけど5~6種類はありました。ここにあるのは「George Walker in recital」です。1曲目のスカルラッティのソナタL.S.39、びっくりしますよ。
社員B:この曲って、こんなスイング感のあるリズムなの?
社員A:いやいや、もともとはかっちりとした2分の2拍子(譜例1)ですよ。Walkerの演奏はまるで8分の6拍子(譜例2)。さすがのリズム感っていう感じでしょ?
部長:ほかにもショパンや、ベートーヴェンを弾いてるようだが、スイングするのかね?
社員A:この曲だけです。
部長・社員B:えっ?
社員A:こんな不思議なリズムアプローチはこの曲だけです。あとは極めてまともです。同じスカルラッティももう5曲弾いてますが、極めてまともです。
社員B:なんで? これだけ……でも、面白いわ。これ。
部長:確かにこの1曲目は衝撃的に面白いが、インパクトが続かないなぁ。B君の方は誰か見つけたかい?
社員B:幻のピアニスト見つけました。
部長:なに、幻。そりゃよい宣伝文句だ。
社員B:名前はAntony Rollé。弾いているのはゴドフスキのシュトラウス編曲もの全4曲です。
部長:シュトラウス=ゴドフスキのあの超難曲を、しかも全曲だとぉ。良く見つけた、偉い!
社員B:しかもこの録音、1985年にLPで出たきりでCD化されていません。
部長:ますますレア感upだねぇ。で、幻というのは?
社員B:この人、その後消息不明なんです。ネットでいくら検索しても出てきません。ピアノはアール・ワイルドに師事したらしいです。そしてデビューアルバムは1980年のメットネル作品集。2枚目がこのゴドフスキです。このアルバムを最後に消息不明です。
部長:消息不明か……交渉が大変そうだが、面白い。で、出来は?
社員B:いたって普通です。下手ではないですが、特に際立ったものはありません。
部長:あの難曲を普通に弾くだけでも大したもんだが、「いたって普通」かぁ……
社員B:で、そんなこともあろうかと、もう一人見つけてきました。どうです?このジャケット。
社員A:WOW 、Cooooool!
部長:インパクト特大だねぇ。しかもアルバムタイトルが「A Long Way from Normal」、正常からの遠い道のり。イイね、イイね、イイね。そそられるねぇ。
社員B:部長、違います。正常から遠いのではありません。
部長:はぁ? このジャケ写なんだから、どう見てもそうだろう。
社員B:このAwadagin Prattというピアニストは、イリノイ州のNormalという町の出身なんです。だからその故郷を遠く離れて随分と来たもんだという意味です。
部長:なんだ、それ。半分サギじゃないか。で、演奏は?この風体だけのことはあるだろうね?
社員B:極めてまともです。正統派の極みです。コンクールで優勝もしていますが、そりゃ優勝するだろうなという見事なNormal仕上がりです。技巧的にも安定しています。
部長:リストもバッハもフランクもブラームスも、みな真っ当か?
社員B:ひたすらに真っ当です。これはこれで素晴らしいことです。
部長:みてくれで過度な期待をしてはいけないということか……他にはいないかね?
社員A:すみません、今回は見つかりませんでした。
社員B:クラシック音楽が盛んな欧米ではもともと黒人人口は比率的にそれほど多くはありません。おそらくは歴史的・経済的問題も絡んでクラシックミュージシャンは絶対数が意外と少ないのだと思います。
部長:そうか。うーーーん、黒人ピアニストならではのリズム感とかノリとかを期待したのだが、Walkerの1曲を除いて真っ当路線か……
社員A:あのぉ……これって結局、人種とかに関係なく、真っ当に勉強した人は真っ当な結果を出すことができるということではないですか?
社員B:まずは中心値的な部分がきちんとできるということね。変な思い込みは禁物ね。
部長:なんか少しいい話でまとまったねぇ。けど、うちの企画としてはどうしたらよいのかますますわからなくなった。困った。
社員B:うちもまずは真っ当な路線を大事にしましょう、部長。
社員A:ですよ、部長。
部長:いや、真っ当路線は往年の巨匠たちが極上の結果を残してしまっているから、もう今更なんだよなぁ。やはり生き残りを賭けて過去にない斬新な企画を考えねばならないと思うんだよ。
社員A:じゃあ、やっぱ(ピーーッ)とか(ピーーッ)で行きましょうよ。
部長:ぶぁかもんっ!!!だから、そういうことは言ってはいかんって。
補記:
※ルイ風……「古い」の実在した業界用語。ふるい ⇒ るいふ ⇒ るいふー。ルイ風は筆者による当て字。
【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。
文:高橋智子
1 1970年代の楽曲の編成とオーケストレーション
前回は、バッファロー大学の教授就任をきっかけにバッファローへ転居したフェルドマンの環境が変わり、それに伴ういくつかの要因から曲の長さが次第に長くなっていったことと、楽曲の編成も大きくなってきた様子を概観した。1950年代、60年代のフェルドマンの楽曲は長くとも12分前後の室内楽や独奏曲が主流だったが、1970年代は管弦楽(オーケストラ)曲が増える。オーケストラやオーケストレーションに対するフェルドマンの考えを参照しながら、1970年代の管弦楽曲のなかでも独奏楽器と組み合わさった協奏曲編成の楽曲に焦点を当てて考察する。
Continue Reading →COMPOSIZIONI OSSESSIVE Marco Falossi(p) VELUT LUNA CVLD 184 2009年
romantic pieces for piano Igor Roma(p) Challenge classics CC72154 2006年
ENCORES Igor Roma(p) STEMRA IR2 2009年
○どこの町にもありそうな小さな工務店
ただし、机の上には設計図ではなく楽譜や五線紙が散乱している
どうやら“音楽工事”を請け負う特殊な工務店のようだ
ヲタクっぽい営業担当のおっさん(吉池主任)がお客さんの電話に対応している
(♬電話着信音~)
『はいは~い、こちらはサクサク改作、貴方のミュージックライフを斬新リノベーションの伊太利音楽工務店でございます。はぁ? いやいや、カ・イ・ザ・ンではなく、カ・イ・サ・ク、改作を承っております。私、改作推進部営業の吉池と申します。移調、短縮、左手用、連弾化などなどお客様のご希望の工事を縦横無尽に承っております。本日はどういった改作工事のご要望でございましょうか? はい……はい……えっ、それは難題ですなぁ。ショパンと映画音楽が大好きで多忙なリスナーに超効率的に楽しめる音楽を提供したいと。ほぉほぉ、なるほど……うん、お任せください! 弊社にはそんじょそこらの工事業者を超えた発想と力量を有する選りすぐりの職人が在籍しております。このお仕事ですと……適任がいますよ。名前はMarco Falossiと言います。え、聞いたことない。いやいや、彼は楽譜絵師として知る人ぞ知る存在、大作「モーツァルト」をはじめ、最近では「ピアノ」とか「フォーク」などを仕上げておりますよ。その楽譜絵で培った匠の技でご要望にお応えいたしましょう。で、映画音楽はどのような曲をご希望で? はい……はい……シンドラーのリスト、チャップリンのライムライト、そういったあたりですね。で、ショパンは…あ、おまかせですね。わかりました。早速、Falossiに取り掛からせますので、どうぞご安心ください。では完成しましたらご連絡いたします。伊太利音楽工務店、吉池が承りました。』
~a few days later~
『お客様、お待たせいたしまた。弊社ならではの合体工事で最高の効率化を実現いたしました。タイトルは「ショパンの変装」。「変奏」ではないですよ、「変装」です。ショパンは練習曲op.10-6をセレクトさせていただきました。どうです。ご希望の映画音楽たちとショパンを同時に演奏してしまうという最高度の効率化合体工法をご提示させていただきました。如何ですか?……えっ……はぁ……ただ同時に弾いてるだけで、いまいち調和していない? どこが楽譜絵で培った実力なのかわからない? しかも弾くのが難しすぎる? いやいやいやいや、お好きな音楽をいっぺんにお楽しみいただける弊社自慢の仕上がりですよ。まさに職人Falossiの真骨頂。ん~~~、そうだ、職人Falossiの別の作品「強迫的な作品」をサービスでお付けしましょう。いやいやそうおっしゃらず、お受け取り下さい。ええいっ、「情緒不安定な作品」「雄弁な作品」「修辞的な作品」「不確実な作品」「退行した作品」「無意味な作品」などもドドンとまとめて35曲お付けしましょう。ニクいね旦那、もってけドロボー。テレフォンショッピングでも滅多にお目にかかれない大盤振る舞いですよ。どうですか。え、そんな面倒くさいタイトルのゲンダイオンガクはなんぼあっても疲れるだけ? いやいやお客さま、お客さま、そうおっしゃらずに、ぜひぜひご笑納をっ、毎度のご贔屓をっ……』
○どこの町にもありそうな小さな工務店
前回の受注からしばらくたったある日の午後
ニッチ過ぎる業種のせいか、ヒマで眠そうな営業担当。
そのとき、久々の電話が鳴り響く。
(♬電話着信音~)
『ふぁいふぁ~い、こちらはサクサク改作、貴方のミュージックライフを斬新リノベーションの伊太利音楽工務店でございます。ほぁ? あのですね、カ・イ・ザ・ンではなく、カ・イ・サ・ク、改作ですってば。私、改作推進部営業の吉池と申します。移調、短縮、左手用、連弾化などなどお客様のご希望の工事を縦横無尽に承っております。本日はどういった改作工事のご要望でございましょうか? はい……はい……えっ、それは超難題でございますな。かの魔神Hお得意のモシュコフスキ作品に魔神がビビるくらいの難化工事を施してほしいと。うううむ、難化による魔神超えですか……これは、お高くつきますよ。え、音の量には糸目をつけないと。これは頼もしいお言葉。わかりました。弊社にはうってつけの職人がおります。名前はIgor Romaと申します。え、聞いたことがない。ま、そうでしょうね。これまで50年以上の人生で作品集は2回しか発表しておりません。とにかく指さばきとキレ味ならば当代随一の匠でございます。モシュコフスキはどれを? 火花op.36 no.6と練習曲ヘ長調op.72 no.6ですね。お客さん、攻めますねぇ。魔神Hの十八番中の十八番じゃないですか。ようございましょう。早速仕事に取り掛からせていただきますので、どうぞご安心ください。では完成しましたらご連絡いたします。伊太利音楽工務店、吉池が承りました。』
~a few days later~
『お客様、お待たせいたしまた。弊社渾身の難化工事で前人未到の世界を構築いたしました。まずは火花 op.36 no.6。最初の32小節とそれの繰り返しは素晴らしく快速なだけで特に施工はしておりません。そこ過ぎたあたりから左右にナイスなアタックを入れ始め、36秒目くらいからは右手の原曲にある8分音符を消し、職人Romaお得意の急速な16分音符(もしくはそれ以上)の暴走乱発つむじ風状態といたしました。これぞ弊社が自信もってお届けする難化工事の極み。お客様のご要望通り右手の音数はトンデモなく増幅され、魔神H越えを実現しております。で、ラストはジャズコードを使ったなかなかオトナの仕上がりにさせていただきました。続きましては練習曲ヘ長調 op.72 no.6。どうです、この音増量。お客様の創造をはるかに超えた世界を実現させていただきました。ほぼ音数倍増の特種難化工事と自負しております。もちろん火花のラストで装飾いたしましたジャズテイストは今回は中ほどで披露させていただいています。……え?……はぁ……いくらなんでもやりすぎだと。これではとても常人では弾くことができないと。いやぁ。そうは申されましても、希代の指さばき職人Romaの技ですのでこれくらいはご勘弁いただかないと。納品に際しては火花のライブ動画と仕様書、練習曲のライブ動画と仕様書はお付けしましたので再度ご確認ください。
そうだ、サービスでRomaの若いころの作品集「romantic pieces for piano」から難化工事を施したアルカンのサルタレッロop.23をお付けしますよ。もちろんアルカンですから原曲は急速な上に同音連打が多くてかなり難しい8分の6拍子の舞曲です。冒頭から20秒間はアルカンの原曲のままにしてありますが、それが繰り返される所から音を分厚く加え、なんじゃこれ!の世界を開陳させていただいています。しかも急速なテンポはひるまず保ち、アルカンの狂気を孕んだイタリア舞曲をキレ良く快走。曲の進行はほぼ原曲通りで、ラストはヴォロドスのトルコ行進曲とほぼ同じ和音連打瀑布。見事な施工でしょう?どうです?……え……原曲が無名すぎて「これが難化です」と言われてもピンと来ない? 誰も知らない曲ですごいでしょと言われても困るって? いやいやそうおっしゃらずに、ひとつよろしくお願いしますよ。そうだ、Romaの新作、ラテンナンバー工法を大胆に使用した超拡大版バッハ=シロティ前奏曲ロ短調もお付けしましょう。Romaが一人二役で施工しまくったダブル難化工事の名作ですよ。さあ、ぜひお受け取りを。お客さん?お客さん? もしもーし、もしもーーし。ではでは、イタリアン・ポルカの連弾難化工事もオマケしちゃおうかな。もしもーし、もしもーーーし、お客さ~~んっ……』
○吹きすさぶ寒風、飛び散る五線紙、そこはかとなく漂う倒産の予感
【紹介者略歴】
吉池拓男
元クラシックピアノ系ヲタク。聴きたいものがあまり発売されなくなった事と酒におぼれてCD代がなくなった事で、十数年前に積極的マニアを終了。現在、終活+呑み代稼ぎで昔買い込んだCDをどんどん放出中。
文:高橋智子
3 フェルドマンの新たな境地 The Viola in My Life 1-4
1970年から1971年にかけて作曲された4曲からなる「The Viola in My Life」は1970年代の楽曲の中だけでなく、フェルドマンの楽曲全体を見渡してみても特殊な位置にある作品だ。この当時のフェルドマンの楽曲には珍しく、「The Viola in My Life」では明確に認識できる旋律が登場する。フェルドマンはこれまでに1947年に作曲した独唱曲「Only」や、1950年代、60年代に手がけたいくつかの映画や映像の音楽でも旋律のある曲を書いてきたが、旋律ともパターンともいえない概して抽象的な作風が彼の本分とみなされてきた。だが、1970年に入るとフェルドマンは五線譜の記譜に戻り、「The Viola in My Life」1-4を書いて叙情的な旋律を惜しげもなく披露する。前のセクションで解説した1970年代の楽曲のおおよその傾向を思い出しながら「The Viola in My Life」1-4がフェルドマンの作品変遷の中でどのような位置にあるのかを見ていこう。
Continue Reading →文:高橋智子
2 1970年代の楽曲の主な特徴
同じニューヨーク州内とはいえ、人口密度の高い大都市ニューヨーク市から、ナイアガラの滝に接するバッファロー市への引越しはフェルドマンの人生に劇的な変化をもたらしたと想像できる。この環境の変化は彼の音楽にも大きく影響し、とりわけ曲の長さや編成に反映されている。1972年にバッファローに拠点を移したフェルドマンの音楽の新たな境地はどのように受け止められたのだろうか。ニューヨーク時代のフェルドマンのかつての教え子で作曲家のトム・ジョンソンは、1973年2月14日にカーネギー・ホールで行われたバッファロー大学のThe Center of the Creative and Performing Artsの演奏会評を『Village Voice』に寄稿している。この演奏会ではフェルドマンの「Voices and Instruments 2」が演奏された。
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